阪神大震災と山口一朗


(2000年1月17日創設)

毎日新聞記者、山口一朗の記事で、「阪神大震災」という語を含むもの(2000年1月16日現在)を掲載しました。
通算訪問者は 人です。



★署名入りの記事★
●1995/11/9
[応援記者から]阪神大震災 兵庫県南部地震 希望新聞「もう会わない方がいい?」
毎日新聞朝刊特集面

 ◎[応援記者から]阪神大震災 兵庫県南部地震 希望新聞 もう会わない方がいい?

 震災当日の夜から兵庫県庁に入り、県政記者室で二週間寝泊まりした。政府要人の記者会見や、一日に数百枚出る県や県教委発表の被災状況、復旧・復興策の広報文を読み、流れ作業のように原稿を書いた。ライフラインが断絶した街は昼夜、消防車や救急車のサイレンが鳴り響き、時折余震の強い揺れが襲った。
 スイスから災害救助犬を連れた一行が離任のため、訪れた時だ。隊長にインタビューし、別れ際に何気なく「シー・ユー・アゲイン(また会いましょう)」と言った。ところが「アイ・ドント・ホープ・ソー(そうならないよう望みます)」と返事。世界中の被災地ばかりを回っている人の言葉を重く感じた。
 記者の財産は人とのつながりだ。一度しか会わない方がいいなんて、考えもしなかった。奈良に戻り、担当が行政から事件に変わった。いつもにこにこと取材に応じてくれるとは限らない持ち場。一期一会の大切さを痛感している。
(奈良支局・山口一朗)

●1996/6/15
11月に「ワンダー・アート・コレクション96」を開催 障害という個性生かして
毎日新聞夕刊ボラ面

 ハンディを持ちながら芸術活動に携わる人の才能を発掘し、新風を社会へ送ろうとする公募展「ワンダー・アート・コレクション ’96」(滋賀県、大津市後援)が11月15〜22日、大津市歴史博物館で開かれる。主催する「障害者アート・フェスティバル・イン・しが」実行委員会はこのほど、絵画と立体造形の作品募集を始め、フェスティバルの企画・運営にあたるスタッフ計530人も募集している。【山口一朗】
 同展は1994年暮れ、日本障害者芸術文化協会(会長、嶋本昭三・宝塚造形芸術大教授)の創設を契機に、東京・渋谷で初めて開かれ、今回が2回目。前回は、全国から229点が集まり、うち80点が入選。阪神大震災で被災した障害者の職場を再建する一助にと、協会は10作品を選び、絵はがきセット(10枚1000円)を作成、販売中。売上金の半分の約280万円を被災地救援基金とし、1割は作者への作品使用料として支払った。
 3人の作品が絵はがきになった兵庫県西宮市の授産施設「すずかけ作業所」は、市内に住む絵本作家、はたよしこさんらの指導で、約110人の知的障害者らが絵画や陶芸作品の制作に取り組む。陶芸担当の施設職員、永川真理子さん(26)は「作品が認められ作者や家族の励みにもなった。今回もいい作品を出したい」と意気込む。
 また、奈良県天理市の県立二階堂養護学校も生徒2人の作品が選ばれた。パステル画「こんな変わった形の電車もあるんだよ!」が、絵はがきになった高等部2年、塗本勝久さん(16)の母博美さん(45)は「東京の会場で作品を見て、親子で感激した。息子は絵をライフワークにしたいと言っています」。
 同協会の太田好泰さん(35)は「将来は入選作の巡回展などを開きたい。障害という個性を生かした作家や作品を広く知ってもらいたい」と話す。
 絵画、立体造形の両部門ともテーマは自由。応募資格は、障害者か障害者のグループで、年齢や国籍などの制限はない。何点でも応募できるが、出品料は1点につき800円。作品は所定の出品申込書を添え、8月末日消印有効で、〒630 奈良市六条西3の25の4、財団法人たんぽぽの家(0742・43・7055、ファクス49・5501)。スタッフ希望者は、滋賀県障害福祉課(0775・28・3543)へ。

●1997/1/6
橿原市で羽田孜・太陽党党首囲む新春の集い 「4区に党総支部を」
毎日新聞朝刊奈良面

 昨年暮れに結党した太陽党の「羽田孜党首を囲む新春の集い」が5日、橿原市の橿原ロイヤルホテルであり、羽田党首とともに記者会見した前田武志衆院議員(4区)は「4区に党総支部を作りたい。ほかの3選挙区には新進党の総支部があり、協議を重ねなければならない」などと語った。羽田党首にとっては、新年初の講演会で、党総務会長に就任した前田氏をさらに支えてもらいたいと、前田氏の支持者に直接訴えた。 【山口一朗】
 前田氏は、新進党を離党し、太陽党に参加したことについて、「奈良県に関して言えば、太陽党は新進党と友好関係を保っている。残念ながら分党は出来なかったが、新しいウイングを広げられた」と自らを評価。「決死の覚悟でやっている。ペルーの問題(日本大使公邸人質事件)や阪神大震災、O157問題も根底は共通しており、危機管理に日本がどれだけ取り組んできたかということだ。このままでは、日本は坂道を転げ落ちてしまう。そうしないために、新しい連係軸を作りたい」と述べた。
 記者会見の後、羽田党首は前田後援会の幹部ら約110人に講演。「自民党は単独過半数が取れず、連立政権を作ったが、ほんのわずかのさきがけと、旧社会党の左派だった人が支える不思議な政権。一石を投じたいと考えた」「(大規模な)自民党総務会と違い、うちは総務会そのものが議員総会。その大切な総務会の会長を前田さんがやっている。大切な前田さんに、さらに皆さん方の力を与えてほしい」と訴えた。

●1998/5/30
今月のテーマ“教育とボランティア”/5 不登校の子供の参加 子の悩みまとめ番組化
毎日新聞夕刊ボラ面

 学校が教育活動としてボランティアを取り入れる動きが進む一方、不登校の子供たちにもボランティア活動への参加が広がっている。学校という枠に収まりきれなかった子供たちは、ボランティア活動を通じて、自分を見つめ直し、生き方を模索している。【山口一朗、亀田早苗】
 ★ユア・ボイス★
 社団法人「子ども情報研究センター」(大阪市中央区)が開設する「ユア・ボイス」は、子供の悩みを留守番電話の「言えるTEL」(06・634・1902)で受け、その内容をもとに、センター会員がパーソナリティーになって番組を制作。「聞けるTEL」(06・634・1901)でテープを流し、聞いた子どもたちが「言えるTEL」にアドバイスや意見を返す。
 番組では「友だちにわかってもらえず、死にたい」「小さいころ、性的虐待を受け、男性が怖い」など深刻な悩みが紹介される。大阪市内に住む河野里香さん(15)=仮名=はパーソナリティーの一人だ。
 ★不登校★
 里香さんは中1の1学期終わりごろから、学校が息苦しくなった。「平日はショルダー、土曜はリュック」とかばんまで決められている。2学期はすべて欠席し、家に閉じこもった。
 2年生になり登校した。が、3学期の授業中、里香さんとの交換日記を書いていた友人のノートを教師が取り上げた。里香さんはノートを返してほしいと頼んだが「授業中に書くからや。返さん」と教師。
 「もういいです」。職員室を出て、廊下にうずくまって泣く里香さんを、追い掛けてきた教師が乱暴に立たせて怒鳴った。「おまえムカツクんじゃ」。里香さんは再び不登校になり、転校した。
 ★さらば学校★
 転校先は、隣の中学校。小学時代に住んでいた所で「ここなら少しは人権意識があるかも」と期待した。だが、幼なじみの女の子がいじめられていた。時折、里香さんが止めることが続き、疲れてしまった。
 迷った末、その夏ごろ、「もう行かない」と教師に告げた。それでも、時には私服で学校に行ったが、教師は里香さんを教室に入れず、別室で「まずみんなが校則を守ったうえで改正を考えよう」と諭した。別世界の人間のようだった。
 ★ボランティア★
 里香さんが子ども情報研究センターに来たのは、中学2年の秋。きっかけはイベントで「仲間と居場所が欲しかった」という。高校には行かず、今、週2回フリースクールに通い、合間にセンターに顔を出す。相談した子が「聞いてもらってよかった」という声を再び入れているのを聞くと、ほっとする。
 いろいろな悩みや考え方があるのを知った。「私は不登校してよかった。学校に行ってると、自分の思いが持てずに流される。今は自分が見えるようになった」
 やがて、里香さんは、障害者の作業所で新たにボランティアを始めた。「ボランティアには人のつながりがある。先のことを頭で考えるより、今はまず行動」という。まだ「やりたいこと」は具体的に見つからない。だから、学校に行かないことを理解してくれた両親さえ、「これからどうするつもり」と、時につらい質問をする。里香さんは、今、自分の世界をつくろうと奮闘を続けている。
★フリースクールで★
 国内唯一の公立フリースクール・兵庫県立神出学園(神戸市西区、学園長=小林剛・武庫川女大教授)は1994年10月、10代後半の不登校支援のために開園された。中学卒業から20歳までの県内在住者が、最長2年間の寮生活を送りながら、「自分づくり」と「生き方探し」をしている。学校教育法の適用は受けず、園生が自身の生き方を見つけた段階で、自由に学園を修了してゆく。
 学園には「心のケア」をベースに、老人ホームや障害者施設、幼児施設でのボランティア体験などさまざまなプログラムがある。
 高1で中退し95年春に入園した16歳の女性は毎週木曜日、精神障害者施設を訪れた。平均年齢40歳ほどの人たちとボール遊びなどをするうちに、彼女も施設の人たちも木曜日が楽しみになった。彼女が来ると、施設の人たちは抱きついて喜び、彼女も抱き返した。
 「彼女は汗びっしょりになって動き回っていた。こんなエネルギーがあったのかと驚いた。不登校の子供たちは、同年齢に対すると緊張感が強いが、自分よりも弱い立場にある人にはものすごく優しくなれるんですね」と、活動に2回同行した小林学園長。
 学園に1年間在籍した彼女は「福祉の道で働きたい」という自分の気持ちを見つけ、病院の看護見習になった。まじめな勤務態度に職場の上司からも認められ、18歳の春に准看護婦になるための学校に合格。今、夢に向けて学ぶ。
 ×   ×   ×
 みなさんのご意見をファクスかEメールでお寄せ下さい。
 =6月のテーマは「環境とボランティア」です。
◆ボランティアで得るもの大きい−−神戸・鷹取中野間校長
 阪神大震災で避難所となった神戸市立鷹取中(須磨区)の野間富士郎校長の話(同校では、被災者やボランティアとの共生の中から不登校だった生徒が減ったが、学校が元に戻るにつれ、再び不登校になる現象が見られた)
 ◇   ◇   ◇
 1995年4月時点で1000人以上の被災者がおり、8月末の避難所解消まで、生徒たちが救援物資や弁当配り、そうじを手伝った。印象に残った生徒が2人いる。
 1人は当時3年の女生徒。不登校だったが、春休みからボランティアに出て来た。しかし、避難者がいなくなったら、また休みがちになった。もう1人は、当時1年の男子。入学直後からボランティア活動にすごく頑張っていたが、2年からあまり学校に出て来なくなった。
 女子は「弁当を配ったら『ありがとう』と言われてうれしかった」と作文に書いた。感謝され、存在感を認められる体験が、日常生活の中になかったのだろう。生徒の個性を尊重しようとしているが、残念ながら学校はどの子にとっても存在感を感じられる場ではなくなっているのかもしれない。
 だれかに働きかけた行為が感謝され、生きる意味や喜びを感得する。こうしてできる人の絆が、今の学校や社会には欠けている。ボランティア活動は、こうした体験ができる最高の場だ。相手の役に立つより、活動した子供が得るものの方が大きいだろう。
 生徒たちは、校区内の仮設住宅や障害者・高齢者の施設で、ボランティアを続けている。いろんな人、いろんな生き方があると、子供が気づくきっかけを、学校や地域の大人たちはつくっていかなければならない。

●1998/8/8
今月のテーマ“震災とボランティア”/2 復興住宅での活動
毎日新聞夕刊ボラ面

 「終の住処」で暮らす阪神大震災被災者にとって4度目の夏は、近所付き合いをはぐくむ出会いの季節だ。今春以降、災害復興公営住宅などへの移転が月2000世帯のペースで進み、仮設住宅入居者は約1万2000世帯にまで減少した。仮設住宅で孤立しがちなお年寄り、ハンディを抱える人々のサポートなど課題は多いが、ボランティア活動は、被災者に「何かをしてあげる」段階から、「自立を支援する」新たな段階に入ろうとしている。「CS(コミュニティ・サポートセンター)神戸」の活動を中心に、復興住宅でのボランティアの役割と、神戸市内の復興住宅で進められているコミュニティー作りに向けた自治会活動をリポートする。【山口一朗、中尾卓英】
 CS神戸代表の中村順子さん(51)は震災直後、「東灘・地域助け合いネットワーク」を結成、仮設住宅の環境改善活動、炊き出しなどを実施する「茶話やかテント」▽病院の待合室などで健康講座、体操などを行う「ふれあいサロン」などの支援活動を行ってきた。1996年10月、長期的な視点からコミュニティー作りを支援しようと、ネットワークから独立する形でCS神戸を設立。高齢・障害者らの社会参加を促すための起業支援▽しごと開発事業▽市民団体組織づくりのノウハウ提供――など、多彩な活動をしてきた。
 復興住宅への移転がピークを迎えた今年3月、市営住宅「六甲アイランド・ウエストコート9番街」(神戸市東灘区、200戸)で関西学院大チームと全戸訪問アンケート調査を実施。昨秋に入居が始まったばかりの同住宅では、回答した174世帯のうち60歳以上の高齢者世帯が65%を占め、「入居者とあまり親しくない」と答えた人が6割▽「知人・友人との連絡がない人」が2割――など、コミュニティーの希薄な復興住宅の問題が浮き彫りになった。
 しかし、アンケートで「ボランティア活動をしたい」と答えた人も多く、話し相手(32人)▽外出付き添い(12人)▽子供の世話(11人)▽大工仕事(9人)▽園芸(同)など60、70歳代の住民を中心に“ボランティア志願”の声が。CS神戸は自治会のアドバイザー役に徹し、料理・園芸・大工・カラオケ・ラジオ体操など趣味を生かした八つのサークル活動スタートを見守り、「入居者同士が支え合う」コミュニティー作りの基盤が出来上がった。
 中村さんは「多くの住民が精神的、身体的ケアを必要とした仮設住宅と比べて、復興住宅でのボランティアの役割は大きく異なる。住民が生きがいを持てる触れ合いの機会など共に支え合う環境整備が必要で、住民と協働しながら信頼関係を築くことが大切。一方的に何かをしてあげるだけでは自立を阻害する」と指摘する。
◆「ひめりんごくらぶ」活動
 7月末、CS神戸の榎本まな事務長(28)と緑を中心に復興を支援する専門家集団「阪神グリーンネット」のメンバー、辻信一さん(48)が、神戸市中央区の復興住宅「南本町高層住宅」(1、2号棟計50世帯・63人)を訪れた。住民が園芸クラブを作ることになり、「被災地に緑を増やして復興につなげよう」とする活動「ひめりんごくらぶ」の説明をするためだ。
 今年2月から入居が始まった南本町住宅では、まだ1、2号棟が一緒に集まることも少なかったという。だが、会合の2日前にチラシを張っただけで双方から15人ほどが参加。辻さんらが活動の説明をすると、早速、1号棟の男性が手を挙げ、エレベーターホールに花の鉢を置きたいと希望した。2号棟の女性は「野菜やハーブを植えたい」。センリョウ、マンリョウ、キンモクセイ……。育ててみたいという植物の名前が次々と出て来た。1号棟の各階エレベーターホールや集会所前に花の鉢を置くことなどがほぼ決まった。2号棟の自治会役員、黒下邦雄さん(69)は「花は悪いことはない。協力できると思う」と期待を込めた。
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 「ひめりんごくらぶ」は、アメリカンファミリー生命保険(本社・東京都新宿区)の社員厚生会「ワンハンドレッドクラブ」からCS神戸への相談から生まれた。「被災地の緑化のために何かできることはないか」
 同社は関西と縁が深い。阪神大震災では神戸中央支社に被害を受けた。また、チャリティーに熱心で、同社米国法人と付き合いがあったプロ野球、元阪神タイガースのグレン選手を応援しようと、従業員有志による「グレン隊」という応援団を作り、阪神甲子園球場まで応援に来たことがある。同クラブは1950人の全従業員のうち、89%が入り、給料から100円単位のお金を集め、がん遺児の奨学基金などに使っている。今回もその一環だ。
 相談の結果、物を渡すだけでなく、コミュニティー作りの手伝いにつなげたい。収穫でき、子供や鳥も喜ぶだろうという発想でヒメリンゴにたどり着いた。だが、CS神戸には植物の株を確保するノウハウなどがなく、阪神グリーンネットに協力を依頼したという。予算は総額300万円。マスコミなどで公募した10カ所にそれぞれ20万円を上限に、計2万株の花を贈る計画だ(残りは事務処理費)。既に神戸市内の6カ所でヒメリンゴのほか、ミカンやレモン、サクラ、各種の花を植えた。
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 実は、これまでに植え終えた6カ所で、野菜を希望したケースはなかった。南本町の会合で辻さんは一瞬「野菜?」と驚いた。だが、限度があるのは予算だけ。緑を増やして復興を、という考えが生かせたらいい。会合からの帰り道、辻さんは「希望が出てくるのがいい。出来る限り希望に沿った形にすれば、コミュニティー作りのきっかけになると思う」と笑った。
 一方、ひめりんごくらぶが植樹を済ませた「神戸市営岩岡住宅」(同市西区、250戸)では、自治会を中心に住民のコミュニティー作りに向けた模索が続いている。昨年5月に入居が始まった同住宅も、高齢者世帯が180戸。入居前は、東灘区から加古川市まで幅広い仮設住宅で暮らしていた人たち。ゴミ出し、駐車マナーの悪さからくる近隣住民と不協和音などがあった。
 「いつまでも仮設での“甘え”の気持ちでいてはだめ。この住宅を『第二の故郷、心の故郷』として愛するためにも、住民が自立しなければ」。今春、これまで全く自治会活動の経験がなかった吹田勉さん(64)らが立ち上がった。
 市中心部から遠く離れた同住宅では、ボランティア活動をしようという団体のサポートはなく、文字通り「自ら立ち上がる」ことが必要だった。自治会規約を徹底させ、共益費など金銭管理は集団で行うことを手始めに、ゴミステーションの掃除、団地内の草刈りなどを担う老人クラブ、婦人部を結成した。
 5月には、集会所管理・運営費の市助成金などをもとにカラオケ機器を購入。「岩岡カラオケクラブ」も結成され、毎月第1水曜日、自慢の声を披露するお年寄りでにぎわうようになった。また、コープこうべの配食サービスを利用した月2回の食事会もスタート。約50人の子供たちのため、「七夕祭り」も開いた。
 こうしたコミュニティー作りをはぐくむ中で、花は重要な役割を果たしたようだ。吹田さんは入居直後から、一人でバラ、ボタン、シャクナゲ、ツバキなど四季の花や樹木を植えつづけてきた。
 「きれいな花ですね」の一言をきっかけに入居者同士の会話が生まれた。いつの間にか、お年寄り数人が毎朝、水やりをするようになった。今年2月、新聞でひめりんごくらぶの助成事業を知った吹田さんは、早速応募。榎本さん、辻さんらが出向いて、入居者数十人で植樹した。吹田さんは「花は人の心をはぐくんでくれるんやなあ、と実感した」と目を細める。
 8月8日夕、満開になったサルビアの周りでは、地域住民も招待して初の「盆踊り大会」が開かれる。
■写真説明 CS神戸の中村順子代表
■写真説明 花や果樹を愛する心が復興住宅でのコミュニティーをはぐくんでいる=神戸市西区の市営岩岡住宅で、大西達也写す

●1998/11/7
今月のテーマ“企業とボランティア”/1 ビジネスと活動 対等に“力”合わせ
毎日新聞夕刊ボラ面

 阪神大震災後の被災地の地域づくりのために、地元ボランティア団体と企業がどう協力できるかが課題の一つになっている。11月は、「人々がふれあい、たすけあえる町」をつくるためにボランティア活動を行う企業の狙いや現状、支援を受ける側の話などを4回にわたって報告する。【山口一朗、岸桂子】
 「はいせんす絵本」などのカタログ雑誌で知られる通信販売会社「フェリシモ」(神戸市中央区、矢崎和彦社長)は顧客から寄せられた義援金で、震災遺児やボランティア団体の支援を展開している。プロジェクトを統括する社長室長の星正さん(37)に、活動内容やボランティアに対する考え方などを聞いた。
 「神戸に居を構える会社として、お客さんと一緒に復興をお手伝いしたいと考えたのです」と、星さんは1995年秋から始めた「毎月100円義援金」の目的をこう説明する。
 「息の長い支援を無理なく続けられるように」と1口100円の義援金を毎月振り込む方式を取り、今年8月末までに寄せられた義援金は約2億5800万円。「お客様の思い入れの深さを痛感しました」
 義援金の使い道は、大きく三つ。(1)学校や福祉施設への支援(2)震災遺児のケア施設の建設支援(3)ボランティア団体への活動支援。
 ボランティア支援は「被災地NGO恊働センター」(村井雅清代表)に運営を委託。被災者のケアや自立支援を行っている約20団体が支援を受けている。参加団体は毎月、検討会を開いてお金の使い方に細かいチェックを加え、その内容は星さんにも報告される。
 星さんは、「単なる『支援』ではなく『自立』につながるものを」という同社の希望を伝えるが、それ以上は特に口を挟まない。「現場を知る人が一番だと思いますから」。また、義援金の参加者には、活動内容や収支報告を伝えるニュースレターを発行。「お客と一緒に活動する」ことを心がけている。
 同社のボランティア=社会貢献活動は、「フェリシモの森基金」を始めた90年に さかのぼる。自然破壊が問題になり、環境保護を提唱する社の精神にも合致することから始まった同基金は、100円義援金の方法を採用。これが予想以上の反響を集め、1億数千万円が、国内外十数カ所の植林事業に使われた。
 企業がボランティア活動をする目的について星さんの意見――。
 「社会に役立ちたいというのが基本姿勢。お客さんの要望に応え、私たちもお客にメッセージを伝えたいという企業活動の中で、必然的に発生したもの。その意味ではビジネスと活動は融合しています。100円という小さな積み重ねを、大きな形にするのも企業だからこそ出来るのではないでしょうか」
 被災地NGO恊働センターのフェリシモ「もっと、ずっと、きっとプロジェクト」担当の大川順子さんは「義援金を集められる企業と、活動はできるけどお金がない私たちが、対等な立場で力と心を合わせられている」と語る。
 センターがかかわる活動には、訪問介護・看護▽被災地のお年寄りらの通院や買い物送迎などを行う「移送サービス」▽被災者の心のケア▽仮設・復興住宅でのお茶会や子どもたちとお年寄りが交流する催し――などがある。
 初年度の一昨年は、フェリシモからの3000万円(年総額)を個々の団体に配分した。だが、ニーズに十分に応えられないケースなどの試行錯誤があり、「似た活動を行う団体は協力しようと、昨年度は活動ごとに予算をつけた」と大川さん。
 例えば、移送サービスの場合、7団体が連絡を取り、すぐに使える車の情報を伝え合うなど、横のつながりを作った。3年目はノウハウを生かし、高齢者福祉・医療・保健、地域教育、生きがいづくり、雇用機会およびコミュニティービジネスの創出、文化の創造、情報発信・アピールの六つをキーワードに、一人一人の自立を支え合うことを目指している。
 同じく担当の伊丹ルリ子さんの意見――。
 「フェリシモさんが、私たちボランティアにも助成してくださったことで、余裕のある活動を3年間続けられた。ありがたいのは、助成金の使い方などに話し合いの場が持て、ボランティアの希望なども受け止めてもらえる点。また、地域づくりに携わる中で、地域の中で何もしていなかった自分にも気付いた。でも、これからが本当のスタート。地元ボランティア、企業、行政の関係が本当にすてきに育ってほしい」
■写真説明 毎月集まる「100円」が被災者を励ます催しなどに役立っている=兵庫県姫路市の復興住宅で今年1月(大川順子さん提供)

●1999/1/30
今月のテーマ“ボランティアと夢”/4 海を越えた支援
毎日新聞夕刊ボラ面

 阪神大震災後、福祉、教育、環境など、国内や地域のより身近な問題にアプローチするボランティア活動が注目を集めている。一方、時代を超えて若者たちに共通するのが「海外で活動したい」「貧困にあえぐ人々を救いたい」という願いだ。NGO(非政府組織)、JICA(国際協力事業団)で活動する2人の女性に聞いた「夢」は、ボランティアを自然体で語れることの大切さだった。(山口一朗、中尾卓英)

 ◆JICA職員、大角元与さん
 ◆日本中の若者に参加してほしい
 発展途上国へ若いボランティアを派遣する「青年海外協力隊」の隊員だった大角元与さん(34)は1991年7月から3年間、中東のシリアに初めてエアロビクスを紹介した。協力隊は65年に始まり、延べ1万7000人を超える隊員が、農林水産や土木建築、教育、スポーツなどの技術協力活動に従事してきた。現在、JICA職員の大角さんは、大阪国際交流センター(大阪・上本町)の情報サービス課で、応募を考える人の相談などに乗っている。
 「日本語の“ボランティア”って言葉自体に抵抗があります。すごく特別なことのような響きがあるじゃないですか。友達が困っていて手助けしたら、それもボランティアでは?」
 協力隊はNGOではなく、政府開発援助(ODA)の一環。派遣事務を扱うJICAは特殊法人だ。隊員の活動は、派遣後に自発的に行うことが非常に多いという。大角さんの場合、器械体操の指導を求めたシリア体操協会に対し、「専門のエアロビクスを広めたい」と、慣れない英語で理論を書き、16歳以上の女性対象の教室を開けるようになった。受講生には「チカのレッスンを受けたらやせる」と好評で、派遣先の要請で滞在を1年間延長した。
 大阪府出身。短大体育科を卒業後、スポーツクラブで計7年働いた。協力隊の存在すら知らなかったが、友人に誘われ、派遣説明会に参加した。試験を受けると、思いもよらず合格。アラビア語はほとんど知らないままシリアに渡った。  国民の大部分を占めるイスラム教徒の女性は、この国では顔と手以外の肌を見せてはならない。スポーツをすることもほとんどない。運動不足の解消を狙って受講した女性たちは、体育館の管理人の男性の姿がチラッと見えただけでも、ハチの巣をつついたような騒ぎになったという。真夏でも体育館を閉め切り、絶対に外からは見られないようにするなど細かく気を配った。
 自分の出来ることで、相手に喜んでもらえた。「しかも、与えた30倍ぐらいのことを学びました」。日本中の若者が協力隊に参加し、いろんな体験をしてもらうのが今の夢だという。

 ◆PHD協会研修生、鬼木たまみさん
 ◆活動が自然に語られる日目指し
 鳥取県米子市出身の鬼木たまみさん(32)は昨年10月から、NGO「PHD協会」(神戸市中央区、今井鎮雄理事長)の国内研修生として広報、啓発などを担当している。同協会は、ネパールで医療奉仕活動を行った岩村昇医師の提唱で1981年に設立された。アジア・南太平洋の草の根の青年を研修生として日本に招き、農家などにホームステイして、自立した村づくりに役立つ農林漁業、保健衛生などの研修を実施。これまでにネパール、フィリピン、タイ、パプア・ニューギニアなど11カ国約170人の研修生を迎えた。
 鬼木さんは島根大法文学部在学時代、宍道湖の淡水化反対運動の先頭に立つなど「アンテナに引っかかったテーマに積極的にかかわっていった」という。90年に急成長期のアパレルメーカーに就職。休日出勤、残業続きで仕事と私生活のバランスがとれなくなっていたことから、2年後に退職した。知人の誘いでNGOセミナーに参加したのがきっかけで、この世界にのめりこんだ。
 いくつかの団体を訪ね92年5月、国際交流団体の情報収集・提供を通じて、市民、行政とのネットワーキングを図る「関西国際交流団体協議会」に就職。5年間経験を積んだ。さらに、国内外のフィールドで農林漁業者ら草の根の人々とネットワークを持ち、行政、企業の助成金に頼らず、寄付・会費収入で活動を切り盛りしているPHD協会の内実を知ろうと転職した。
 関西のNGO団体、スタッフの「顔」が見えるようになった今、鬼木さんは「お金のないことにあくせくし、スタッフが消耗していく活動が目につく」と疑問を感じはじめている。女性スタッフにとって5年後、10年後に展望が持てない職場では、存在意義自体が問われるというのだ。鬼木さんは、自らのエンパワーにと英語学校に通い始めた。将来は「インドに渡ってNGO活動を自らの目で見ること」が夢だ。
 鬼木さんの言う「家族や地域社会と良好な関係を保ちながら、仕事としてのボランティア活動を両立させる」。それが実現した時、人権、環境、平和などNGOが取り組んでいるテーマが、市民の間でごく自然に語られ始めているのかもしれない。

●1999/7/17
[ボランティアは今]震災4年半/3 アルコール依存症 正しく理解を
毎日新聞夕刊ボラ面

 アルコール依存症からの回復・社会復帰を目指すデイケアセンター「ぼちぼちはうす」(神戸市須磨区)が10日、1周年を迎えた。阪神大震災後に被災地で浮き上がった依存症の問題は行政では対応できず、現在29歳から64歳までの28人の“メンバー”が通い、断酒を続ける。ぼちぼちはうすのコーディネーターで、支援団体「さぽるて」事務局長、宗利勝之さん(37)に話を聞いた。
  ◆  ◆  ◆
 普段はメンバーが自立し、日常生活に必要なことを学びます。栄養士の指導で献立を作り、それに基づいた昼食会、体力作りを兼ねた野菜栽培、レクリエーションなどを、通所者と相談してやっています。主にさぽるてのボランティア約20人が支えています。
 また、依存症を学ぶセミナーを開いたほか、米国から専門家を呼んだり。9月にもフォーラムを開く予定です。
 酒に依存するのは病気だからで、理由は大量に飲んだからです。依存症の人は言い訳し、自分の問題を否定します。「大酒飲みやけど依存症じゃない」「あいつよりはマシ」って。「否認の病」といい、最もやっかいな部分です。
 治療を始め10年たっても1杯飲むとダメ。ブレーキの壊れた車のように、ガソリン(酒)が入れば、本人の意思ではやめられず、記憶がなくなるまで飲み、覚めると「飲まんと苦しうて、しゃあない」。そんな心理状態なので、病院では精神科の病気とされますが、日本社会はストレスを酒で紛らすしか知らない。
 長い間に「量」を飲み「限界点」に達すると依存症になるが、限界点はだれにも分からない。自覚症状はなく、家族はアルコール中毒だとは認めたくない。内臓がやられ、内科にかかり、10年もたってやっと精神科に移るのが多い。だから今、一番気にしているのは早期発見・治療の方法と、内科医とのネットワーク作りです。
 治療方法は「飲むのをやめる」です。「今日1日飲まない」の連続です。意識して飲まないことを徹底しなければなりません。
 来る人は、20年、30年と酒を飲み続け、ぼろぼろの状態です。依存症になるまでに、家1軒分ぐらいは飲んでいます。
 今ほしいのは、依存症を正しく理解し、正しく対応出来る人材。でも、援助者として能力の高い人はなかなかいないんですよ。(山口一朗)
◆ぼちぼちはうす
 神戸YMCAが、阪神淡路大震災復興基金から補助を受け、昨年7月に設置。「さぽるて」は英語のsupportからの造語で、会員約120人。会報を2カ月に1回程度発行、通所者らの声などを紹介。金曜から火曜の9〜16時、ファクス兼用で078・736・0807。
■写真説明 栄養士の献立に基づき、自分たちで昼食作りをする「ぼちぼちはうす」のメンバーら=今年3月 

★以下は無署名ですが、山口一朗の書いた記事です★
●1995/3/1
雑記帳「安政の伊賀上野地震」惨状を伝えるかわら版が、三重・上野市で見つかる
毎日新聞朝刊社会面

 ◇九百人以上が亡くなったという「安政の伊賀上野地震」(一八五四年六月)の惨状を伝えるかわら版が、忍者の里・三重県上野市の郷土史家宅で見つかった=写真。
 ◇三重、奈良、滋賀、福井の被災状況は一面泥海、倒壊や火災で残る家はわずか。人々は興福寺などで野宿……。けが人は数知れず「目も当てられぬ」「混乱筆に尽くしがたし」と。
 ◇百四十年前のこの地震、実は奈良市の地域防災計画で三十年間、被害想定の基準
にされてきたが、阪神大震災で見直されることに。突然“姿”を消すのは、やはり忍術?

●1995/3/2
阪神大震災 希望新聞「被災が埋めた40年の空白」
毎日新聞夕刊対社面

 「あっ、真弓ちゃん!」――阪神大震災の避難生活を伝える一瞬のテレビ映像が、四十年間離ればなれだった被災地のいとこ同士を巡り合わせた。神戸市灘区大石東町の溝下真弓さん(55)と尼崎市西川の溝下照子さん(45)。再会を果たし、仲良し少女時代に戻った二人は「長かった空白を埋めて、街と生活の再建に力を合わせたいね」と誓い合う。
 真弓さんは北九州市生まれ。幼いころ母を亡くし、一九五三年春ごろ、尼崎市内にいた照子さん宅に引き取られた。当時小学校一年生の照子さんは「お月さまのような丸い笑顔のお姉さん」だった中学生の真弓さんを慕った。
 だが、親類に気を使う真弓さんは二年後に家を出、その後は音信不通のまま。照子さんは「神戸に住んでいるらしい」という風の便りだけを耳にしていた。
 震災で、自宅は食器類が破損しただけで助かった照子さんは神戸市内約十カ所の避難所に電話をかけ、真弓さんの消息を尋ねたが、手掛かりはなかった。
 あきらめかけた二月十一日午後、照子さんは、京都府在住の叔母(64)から電話を受けた。「真弓ちゃんがテレビに映ってる」。テレビをつけると、民放の避難生活リポートに、テント暮らしをする神戸市灘区の主婦たちの姿が。その中にふっくらした昔の面影のままの真弓さんがあった。
 翌日、照子さんは真弓さんの避難先に駆けつけた。顔を会わせた瞬間、真弓さんは「昔の照ちゃんと同じね」と抱き付いた。テントの中で、壊れた家から一冊だけ出てきたアルバムを見ながら語り合った。
 真弓さんは家を出てから工場などで働き、十二年前にタクシー運転手の康雄さん(57)と結婚。地震で自宅の木造文化住宅は全壊、家族は無事だったが、近くの駐車場で避難生活。だがこれからも神戸を離れず、生活を立て直すつもりだ。

●1995/3/5
阪神大震災 希望新聞「廃墟、2度目の再出発 神戸デパート」
毎日新聞朝刊社会面
 阪神大震災で内部が崩壊、取り壊しが決まった神戸市長田区腕塚町五の「神戸デパート」のテナント業者が、デパート軒先の空き地に七日から、仮設店舗八店をオープンさせ、復興の第一歩を踏みだす。同デパートは二十一年前、火災で内部を全焼しており、店主たちには二度目の「廃虚からの出発」。デパート再建のめどはまだ立たないが「採算が合わなくても、支援してくれた長田の人たちが、明るい希望を持つきっかけになれば」と意気込む。
 同デパートは一九六五年、神戸市出資の第三セクター「神戸都市振興」が日本初の再開発事業で建設。地下一階、地上七階に地元の食料品、衣料店など八十八店が入居し、西神戸の商業拠点とされた。
 ところが七四年二月、窃盗に入った少年のライターの火が原因で内部を全焼。入居者の多くは内部改装の間テント営業を続け、同十一月、再オープンした。震災時はスーパーなど二十六店が入っていた。
 震災に伴う大火で、周囲の商店街などはほとんど焼け落ちた。デパートは一見異常がないように見えたが、屋内の柱はあちこちで鉄骨がむき出しに。以前の火災でコンクリートがもろくなっていたらしく、市の判定は「全壊」だった。
 二月半ば、神戸都市振興から取り壊し決定を伝えられたテナントの婦人服店主、武田安司さん(53)が呼びかけ、呉服、飲食、化粧品、アクセサリーなど二十店が参加して「神戸デパート復興協議会」が結成された。二十一年前の火災から立ち直った店ばかり。
 「あの時も苦しい中を耐え抜いた。出来ることから始めよう」と仮設店舗を設置することを決定。神戸都市振興もデパート西側の空いていた敷地を無償で利用することを認めた。
 八つの仮設店舗はアルミと不燃材を使い、一区画約七平方メートル。協議会のメンバーが一週間単位の交代で出店する。法的規制の強い食料品は販売できないが、冬物バーゲン時期を控え、衣料品などの在庫は豊富だ。デパートの解体時期もまだ決まらないが、着手まで午前十一時から午後五時まで営業する。自力で周囲に街灯十基も設置した。
 武田さんは「前回の火災でもテントに来たお客さんが『再開したら行くからね』と言ってくれた。周囲は焼け、内部は崩れたが、焼けなかっただけでもこのデパートの生命力の証明では。街灯の明かりを目印に、この街に人が戻ってきてほしい」と話している。

●1995/3/18
阪神大震災 希望新聞「障害者の中川富誉さんが被災障害者支援のため作詩をCD収録」
毎日新聞朝刊特集面
 脳性まひで言葉と身体が不自由な中川富誉さん(38)=兵庫県尼崎市=が「被災者に勇気と希望を」と作った詩に近く曲が付き、今年五月、奈良市の障害者の支援団体・財団法人「たんぽぽの家」が被災障害者支援のために発売するCDに収録される。「生きて生きて生きてゆこう」と題する詩は「みんなの心がひとつになれば 困難にも立ち向かえる……」と復興への息吹を力強く歌い上げている。
 中川さんは、出産時の酸素欠乏が原因で脳性まひになった。高校と職業訓練校を経て、のこぎり製造工場で約十年間勤務。六年前から、母への思いなどをつづった詩を書くようになり、障害者の詩に曲をつけて歌いあげる毎年秋の恒例行事「わたぼうしコンサートインひょうご」で、これまでに四編が採用された。
 一九九〇年春、福祉団体「すばる福祉会」(本部・西宮市)の西定春・会長(47)に誘われ、ハンディのある人と介護者がともに働くパン屋に就職。ところが、地震で同福祉会の本部はほぼ全壊し、メンバーの中にけが人も出るなど大きな被害を受けた。
 「たんぽぽの家」が支援を計画。「全国わたぼうし音楽祭」(毎日新聞社など後援)の優秀曲などから「希望のメッセージあふれる」七曲を選び、被災者自らによる歌を追加してCDを発行することにし、中川さんに作詩を依頼した。  「今は幸せな暮らしはできないけれど 生きていることの素晴らしさをかみしめて 元気を出して 心豊かな街を築いてゆこう」 
 同音楽祭関係者が近く曲をつけて収録、一枚三千円で一万枚販売し、売上金を同福祉会などに寄付する。
 中川さんは「地震でみんなが被災者になり、優しくなった。私の詩で一人でも元気づけることができたらうれしい」と話している。

●1995/7/12
阪神大震災 希望新聞「障害者の「希望の歌」をCDに−−「たんぽぽの家」が発売」
毎日新聞朝刊特集面
 芸術活動を通して障害者の支援を続けている財団法人「たんぽぽの家」(奈良市)が、障害者が作詩した曲を収録したCD「WATABOSHI COLLECTION2 希望の歌」=写真=の発売を始めた。収益金は、阪神大震災で被災した障害者の生活再建に役立てる。
 たんぽぽの家では二十年前から、障害者が作った歌を発表する「わたぼうしコンサート」を続けている。今回のCDは、コンサートでの発表曲の中から、特に「希望 勇気 連帯」を連想し、震災を乗り越えられるメッセージを持った七曲と、西宮市で被災した中川富誉さん作詩の新曲「生きて 生きて 生きてゆこう」の計八曲を収めている。
 三千円。収益金は主に被災地の無認可小規模作業所の再建資金として役立てられる。購入の申し込み、問い合わせは、〒630 奈良市六条西3の25の4 財団法人たんぽぽの家「希望の歌」係(0742・43・7055)。



「電脳いっちゃんタイムズ」
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