朝鮮通信使と暦
第一回回答兼刷還使の出発
 一六〇七(慶長一二)年三月、壬辰倭乱後の最初の朝鮮使節団が日本の土を踏んだ。くわしく言えば、一行の漢城出発は一月一二日、釜山出港が二月二九日、対馬府中(厳原、現・対馬市)出発が三月二一日、四月八日大坂、同一二日京都、そして五月二四日(以上の日付はいずれも朝鮮暦)にようやく江戸に到着した。
仲尾宏「朝鮮通信使」pp29
 江戸時代最初の朝鮮通信使(正式名称は「回答兼刷還使」)の旅程である。「以上の日付はいずれも朝鮮暦」という注意書きが目を引く。つまり、日本の暦では必ずしもこうではなかったということである。どのように違ったのかについてはこの本には何も書かれていない。しかし、調べてみるとこの年日本では閏四月があった。閏四月があったとすると、京都を出た四月一二日から江戸へ到着した五月二四日までは70日強ということになる。これは長すぎるだろう。もし閏四月がなければ40日強だから妥当な日数である。つまり日本の暦には閏四月があったが朝鮮暦にはなかったという可能性が大きいのだ。したがって通信使が江戸へ着いた五月というのは日本の暦では閏四月だったろう。そしてたぶん、日本の五月が向こうでは閏五月だったと考えられる。
 朝鮮通信使というのは、江戸時代に幕府が迎えたほとんど唯一の正式な国使であった。それは200年ほどの間に都合12回行われたが、その最初の時点ですでにこのような暦日相違が見られたわけである。正式な国交であるから当然国書を取り交わしたはずで、その時、暦が違うことは不都合ではなかったのだろうか?
 年号については
年号について、朝鮮国は中国皇帝の冊封を受けているので明年号を用い、日本側は冊封を受けていないので「干支龍集」を用いた。
仲尾宏「朝鮮通信使」pp43
という記述があるが、日付(月まで)が違うことについてはこの本には(また他の朝鮮通信使の本にも)何も触れられていない。当時はこれは問題にならなかったのだろうか?

 暦日相違が起こるというのは、両者の暦法が異なるためである。
 まず、ここでの「朝鮮暦」というのは何かというと、朝鮮国は明の冊封を受けていたのだから、明の「正朔を奉じて」いたはずで、これは明の大統暦であったことがわかる。一方、この時代の日本は未だに唐の時代の宣明暦を用いていた。これはその時代から800年ほども昔の時代遅れな暦だったのである。
 宣明暦では1年の長さを365.2446日とする。これは実際の長さ365.2422日より0.0024日長い。わずかな差のようであるが、800年近くにもわたってこの値を用いて愚直に計算を続けたもんだから、約2日のずれが生じた。旧暦の作成は毎年の冬至から始めるのだが、その冬至が実際の冬至より2日ほども遅れた。24節気は冬至から翌年の冬至までを24等分して決めたから、これもすべて2日ほど遅れることになる。
 24節気を、「暦の上での春の始まり(立春)」とか「地中の虫が出てくる(啓蟄)」とかのブンガクのものと考えている向きには、ことの重大性がわからないだろう。
 旧暦では、節気によって『月』を決めるのである。すなわち、立春の次の雨水が「一月中気」であり、この日を含む月が旧暦正月、啓蟄の次の春分が「二月中気」で、この日を含む月が旧暦二月、・・・以下同様に大寒が「十二月中気」で、この日を含む月が旧暦十二月なのである。
 さらに重要なのは、たまに中気を含まない月が現われる。これが閏月である。既に述べたように、24節気は冬至から冬至までの1太陽年を24等分して決められる。1太陽年は(宣明暦では)365.2446日だから、節気と節気の間隔は15.218525日、節気のひとつ飛ばしが中気だから、その間隔は30.43705日である。一方、1朔望月は平均で29.53日なので、中気と中気の間に1朔望月(旧暦の1箇月)がすっぽり収まってしまうことがたまに起こるのである。このような閏月の決め方は中国暦の特徴で、これによって季節が大きくずれることがないのである。

 さて、宣明暦の後の唐および宋では暦法は何度も改定された。この時代の天文学の急速な進歩を窺わせる。しかし元の時代に授時暦が現われた。これは非常に完成度が高かったようで、後に渋川春海が初の国産暦である貞享暦を作る時、これを参考にした。中国では明の時代に大統暦になるわけだが、実は内容的には授時暦とほとんど変わっていないらしい。それほど授時暦の完成度が高くて、最早改良の余地はほとんどなかった。ただ、王朝が変わると暦も変わるのが中国のしきたりだったから、実質は変えないで大統暦という新しい名前にしたのであろう。

 授時暦(したがって大統暦)では1年の長さを365.2425日とする。これは後の西洋のグレゴリオ暦と全く同じである。さらに冬至の時刻を観測によって正確に決めている。これは毎回行ったものかどうかはわからないが、授時暦が採用されたのは1280年で、慶長12(1607)年まで、327年間でずれがあったとしても2.3544時間にすぎない。

 つまり、慶長12(1607)年時点で朝鮮国の大統暦では冬至および節気はほぼ正確であったが日本の宣明暦では2日近く遅れていたことになる。
 この年の日本の閏四月一日はグレゴリオ暦では1607年5月26日、そしてこの月は小の月で、二十九日が6月23日である。この月は四月中気の小満と五月中気の夏至との間にすっぽりと収まったはずである。例えば小満が直前の5月25日0時だったとすると、夏至はそれから30.43705日後の6月24日10時29分。したがって小満は5月24〜25日、夏至は6月24〜25日のはずである。しかしこれは宣明暦なので実際より2日ほど遅れているはずだから、朝鮮側の大統暦では小満は5月22〜23日、夏至は6月22〜23日となる。つまり日本の閏四月の側に朝鮮では夏至が入るので、この月が五月となるのである(なお、暦法によって朔の日時も変わる可能性があるが、今は考えない)。
グレゴリオ暦宣明暦(日本)大統暦(朝鮮)
1607年5月25日四月三十日(このころ小満)四月三十日
26日閏四月一日五月一日
6月23日閏四月二九日五月二九日(このころ夏至)
6月24日五月一日(このころ夏至)閏五月一日
参考:暦の会編「暦の百科事典」

 朝鮮をはじめ東アジアの多くの国は中原の皇帝の冊封を受けていた。皇帝に臣下の礼を取り、皇帝から朝鮮国王などの爵位を与えられた。また「正朔を奉ずる」つまり中原と同じ暦を使うのが常だった。冊封体制そして正朔を奉ずるということは、外交上は重要だったはずである。皇帝や国王間で取り交わす国書の日付が違うなどは異例だったのに違いない。さらにこれは軍事同盟、共同安全保障をも意味したであろう。各国が共同軍事行動を取ろうという時、暦が違っていたんじゃ話にならない。だから冊封体制というのは中原皇帝を盟主とする国連のようなシステムだったと考えればわかりやすいだろう。
 ひとり日本だけは例外だった。足利義満などが「日本国王」に封ぜられた例はあるが、「正朔を奉ずる」ことはなかった。平安時代の中期以降、中原と同じ暦が使われたことはない。9世紀に遣唐使が廃された後、正式な国交を結ぶことはほとんどなかったので、特に不都合は感じなかったのだろう。また中原皇帝側も、こんな辺境の小国くらいは従わなくても捨て置いたのだろう。元のフビライを除いて。

 さて、800年にもわたって宣明暦を使い続けてきた日本だが、さすがに江戸時代になると人々の知識水準も高まり、もっと正確な暦を作る動きが出てきた。そして貞享2(1685)年、渋川春海による初の国産暦である貞享暦が行用されることになった。既に述べたように、この貞享暦は授時暦を基にしている。したがって基本的に授時暦と同じである大統暦を使う中国朝鮮とはこれで差異がなくなった、と考えたくなるが、残念ながらそうはならなかった。
 まずこの間に明が滅び、清が中原の覇権を制した。朝鮮も明の冊封から清のそれへ転じた。そして清では大統暦に代わって時憲暦が制定された。
 元の授時暦が完成度の高いものであったことは既に述べた。大統暦もこれとほとんど変わっていない。しかしながら、清朝になるとこれとはかなり異なる暦が作られたのである。この時憲暦は、アダム・シャールというドイツ人宣教師によって作られたのである。既にヨーロッパでは地動説の時代に入っていた。時憲暦には西洋天文学のケプラーの法則が応用された。時憲暦が制定されたのは1645年であるが、その12年前、1633年にはガリレイの異端審問が行われている。けだし地動説は「羅馬の仇を北京で」討ったと言えようか?

 時憲暦では、太陽黄経15°毎に節気を定める。太陽黄経0°の時が春分、15°の時が清明、・・・である。
 太陽黄経というのは、恒星天中で太陽が居る位置のことである。西洋占星術の本を見ると、 3月21日〜4月20日は「おひつじ座」、4月21日〜5月20日は「おうし座」などとなっているが、これがその時期に太陽のいる位置を示したものである。  このようにして太陽は星座(恒星天)の中を移動し、1年かけて一周する。この太陽の道(黄道)に目盛りをつけたのが黄経で、原点(0°)は春分点に採られる。時憲暦では、この太陽黄経の一周(360°)を24等分して15°毎に節気を定めたのである。
 これ以前の暦では、節気は冬至から翌年の冬至までを24等分して決めていた。一見するとこれは同じ事のようであるが、微妙に違う。実はここでケプラーの法則が登場するのである。
 まず、地球の公転軌道は真円ではなく楕円である(ケプラーの第一法則)。楕円であるから、地球〜太陽間の距離は一定ではない。もっとも一番近い時(近日点)と一番遠い時(遠日点)で、その距離は1/30ほどしか違わないので、図を描いてもほとんど円にしか見えない程度であるが。しかし、地球は太陽に近いときには速く動き、遠い時には遅くなる(ケプラーの第二法則)。このため時憲暦では近日点の頃の節気の間隔は短く、遠日点の頃には長くなる。近日点は(時代によっても変わるが)最近は冬至〜小寒の頃で、その節気の間隔は14.7日程、遠日点はその半年後の夏至〜小暑の頃で、間隔は15.7日程と約1日程度違うのである。
 このような節気の決め方を定気法と呼ぶ。一方、時憲暦以前のものは恒気法(または平気法)と呼ばれる。
 恒気法の時代には節気の間隔は皆同じだったのが、定気法になったため、その間隔に差が生ずるようになったのである。
 そして、既に述べたように旧暦では節気のうちの中気で月を決める。だから節気が動くと月が変わる可能性がある。特に閏月は中気を含まない月だから、定気法では節気の間隔の短い冬には閏月が少なく、夏には多くなる。

 そんなわけで、日本で貞享暦が作られた後も、清の(したがって朝鮮の)時憲暦とは暦日相違が起こった。日本ではその後、宝暦暦、寛政暦と変わっていったが、すべて恒気法だった。ようやく1842年に制定された天保暦で定気法が採用されたが、それ以後には朝鮮通信使は行われていない。最後の通信使は1811年だった。したがって江戸時代200年の間、朝鮮通信使を迎える時は常に暦日相違の可能性があったわけである。
 日本と中国、朝鮮の暦が一致するのは、辛亥革命後の1912年、中華民国が洋暦を採用した以後のことである。

宣明暦天保暦(もどき)
小満辛酉=1607.5.24 四月 1607.4.22 2:10 四月
癸亥=1607.5.26 閏四月 1607.5.26 3:33 五月
夏至壬辰=1607.6.24 五月 1607.6.22 11:34 五月
壬辰=1607.6.24 五月 1607.6.24 16;37 閏五月
参考:内田正男編著「日本暦日原典」
Aug. 14, 2008

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