Abstract |
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わが国で最初のオリジナルの暦は渋川春海によって作られた「貞享暦」である。これは1685(貞享2)年から1754(宝暦4)まで用いられた。これを作成するにあたって春海が手本としたのが元代の「授時暦」であった。 当時の暦作成には冬至の時刻を知ることが重要であったが、「授時暦儀」という、授時暦について書かれた書物にその方法が示されている。要約すれば、冬至の前後に太陽南中時の影の長さを測り、それを按分して冬至時刻を求めるものである。 影の長さの測定は5毛(寸の5/1000=0.15mm?)という神業のような精密なものであったようだ。一方、按分計算は現代から見ればいささか不完全の感を拭えない。このため折角の精密な測定が生かされず、その誤差はより粗い精度(たとえば0.1寸=3mm)の測定値で計算方法を精緻化した場合と同程度である。 このことが渋川春海およびそれ以降のわが国の暦法にとって持つ意味を考えてみたい。 |
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至元14年(1277)丁丑歳 11月14日景長 7丈9尺4寸8分5厘5毛 11月21日景長 7丈9尺5寸4分1厘0毛 11月22日景長 7丈9尺4寸5分5厘0毛 |
渋川春海が日本で行った観測は、到底授時暦の値におよばなかった。彼は形式的に冬至の観測を行ったが、使用した数値は、授時暦のものであった。 |
八代将軍吉宗は延享2年(1745)家重に将軍職を譲り、いわゆる大御所といわれるようになると、前々から深い関心を持っていた天文・暦学に心を傾ける余暇も多くなり、西洋天文学を取り入れた革新的な改暦への意欲を強くしていった。関孝和の高弟、算学の天才建部賢弘を学問の顧問にかかえて、何かと諮問して知識を深めた。 |