旧暦というのは中国がご本家なわけで、したがって日中の旧暦は何でも同じだろうと考えがちだが、これがなかなか単純ではない。以下では日中の旧暦の相違について見て行きたい。
時差による相違
大朝日の珍説
「後の月」考

時差による相違
 2008年の秋分は日本では新暦9月23日(火)であるが、中国では22日(月)である。何故か?実はこの年の秋分(太陽黄経が180°になる時刻)は日本時間で9月23日0時45分、中国では時差のために22日23時45分なのである。45分のことで日本人は連休を逃したのである。

 1997年の旧正月(春節)は、日本では2月8日であったが中国では1日早く7日であった。これも時差によるものである。つまりこのときの朔の時刻が日本時間で8日0時06分だったためである。

 つまり、朔や節気が日本時間で0時台である場合、時差のために日中で日付が変わってしまうのである。それでも、1日くらいの違いなら目を瞑ろうか?

 ところが、月まで違ってしまうことがあるのである。
 2012年には、日本の旧暦閏三月が中国では四月に、日本の四月が中国では閏四月になる可能性が高い。どういうことかというと、日本では
  新暦5月20日 = 旧暦閏三月三十日
  新暦5月21日 = 旧暦四月一日
 であるが、
  小満:新暦5月21日0時13分
なのである。
 旧暦では、24節気のうちの一つとばしの中気によって月を決める。つまり、雨水が一月中気、春分が二月中気、穀雨が三月中気、小満が四月中気、・・・であって、中気を含まない月が閏月となる。だから小満(四月中気)を含む月が四月なのであるが、これが日本時間0時13分なのである。この時刻は筆者の計算によるもので、多少の誤差があるだろうが、21日の0時台であることは間違いない(日外アソシエーツ「21世紀暦」でも、小満は21日とされているので、計算誤差があっても20日にはずれこまない。また47分もの誤差があって1時台になることもまずあり得ない)。したがって中国では時差のためにこれが20日になる。そうすると、日本では閏三月とされる側に小満(四月中気)が移るので、こちらが四月になる。そして日本の四月は中気(小満)を含まないので閏四月になるわけである。

グレゴリオ暦日本中国事項
2012.5.20閏三.三〇四.三〇中国小満(23:13?)
5.21四.一閏四.一日本小満(0:13?)

 2017年の閏五月、六月にも同様のことが起こりそうである。

大朝日の珍説
 2002年、天下の朝日新聞に「旧暦、新世紀に復活(スローでいこう 暮らし方再発見:1)」という記事があり、その中で、旧暦に従って仕入れを行っている業者が紹介されている。その人によると、2001年は閏四月があったので夏が長いと判断し、夏物の仕入れを延長したが、実際、猛暑で売上が伸びた、という。
 この人は、旧暦では四,五,六月が「夏」という認識があり、それで四月と五月の間に閏四月が入るから「夏」が長いと判断したんだろう。しかし、この年の旧暦四月は新暦4月24日に始まっており、旧暦六月は新暦8月18日に終わっている。「夏」といっても4月の末から8月の中旬までで、9月の残暑は旧暦からは予測できるわけもないのである(七月中気の処暑は新暦8月23日頃で、「暦の上」ではこの日は既に秋)。
 そして、前に述べたように日本と中国の時差という季節とは何の関わりも無いことで閏三月が四月に、四月が閏四月に変わったりするのが旧暦なのである。スローライフも結構だが、こんな根拠で仕入れを決めたりして店が潰れないか、ひとごとながら心配になる。

 もっとも、この人が参考にしたのは小林弦彦「旧暦はくらしの羅針盤」(生活人新書)という書物であるようだ。ジュンク堂で立読みしてみたら、たしかに2001年の(当時としての)予測が書かれていた。が、これがどうにも理解できない。
 小林氏は、2001年の夏は「複雑になる」としている。それは「閏四月のため」だそうである。しかし、時差みたいなもので現われたり消えたりする「閏四月」で夏が複雑になったりならなかったりする理由は何か、さっぱりわからないのである。

 閏月で1年の長さを調整する「太陰太陽暦」というのは、古代にはギリシャから中国まで広く使われていた。19年に7回の閏月という規則も多くの文明で知られていた。ただ、閏月の置き方に関しては、毎回年末に置くというような、かなりぞんざいなものもあった。そんな暦では閏四月は起こりようがないが、それでも実用上は別にかまわないはずである。
 節気を用いて閏月を決めるという中国暦の方法が非常に洗練されているということは誰でも認めるところだろうが、何が洗練されているかというと、要するに人間にとって都合が良いというだけのことである。だから、閏四月が現われたからといってそれが気候に何らかの影響を及ぼすというのは、易占いの類の言説で、科学的検証からは全く無縁だろう。
 節気によって閏月を決めれば夏の長い短いがわかる、その理由はわからないとしても、古代中国の暦にそんな効能があるのだとすれば、これは大発明である。現代の科学なんて足元にも及ばない。しかし実際には、その閏月の位置は時差なんてもので簡単に変わるのだ。どんな『霊力』が盛り込まれているというのだろう?

「後の月」考
 ここで「後の月」について考えてみたい。旧暦八月十五夜の中秋に対して、翌月の十三夜が「後の月」である。これは日本独特の風習であるらしい。
 ネットで調べたところによると、起源は「宇多法皇の延喜19年(919)とも村上天皇の天暦7年 (953)だともあり定まりません」ということである。しかしいずれにしても10世紀、平安中期に始まったもののようだ。

 ひとつ思ったのは、これは閏(八)月と関わりがあるのではないかということである。実際、広辞苑によると「後の月」には閏月の意味もあるらしい。また、閏八月があるということは八月が異例に早いということである。中秋が八月中気の秋分より半月近くも早く来る。それではあまり中秋の気分じゃないので、一月後の閏八月(なぜか十三夜)にやり直したのでは?

 それでは、10世紀頃、閏八月はどれくらいあっただろう?調べてみると、
  貞観十三年(871)
  延喜九年(909)
  延長六年(928)
  康保三年(966)
  寛和元年(985)
これだけ見つかる(暦の会編「暦の百科事典2000年版」より)。
 余談ながら、貞観十三年(871)〜延喜九年(909)は38年、延喜九年(909)〜延長六年(928)は19年、延長六年(928)〜康保三年(966)はまた38年、そして康保三年(966)〜寛和元年(985)がまた19年である。さらに、貞観十三年(871)から19年後の寛平二年(890)には閏九月があり、延長六年(928)から19年後の天暦一年(947)には閏七月があって、どの年もよく似ている。実は古代の中国暦には「章法」というのがあって、19年毎に暦は全く同じになった(19年に7回の閏月を置けば、太陽暦とほぼ一致する)。この10世紀頃には章法の原則は崩れている(より精密になった)のだが、それでも19年周期でほぼ同様のことを繰り返しているのである。
 なお、この10世紀頃は他の時代と比べて閏八月がかなり多い。寛和元年(985)の次にこれが現われるのは76年後(これも19×4)の康平4年(1061)である。このことも、「後の月」と閏八月の関連性を想起させる。

 ここでは延長六年(928)について見てみる。この年は
  グレゴリオ暦9月21日=旧暦八月三十日
  グレゴリオ暦9月22日=旧暦閏八月一日
である。
 おそらくこの年は9月21日が秋分であったと思われる。9月22日からが閏八月というのは、この月には秋分(八月中気)も霜降(九月中気)も含まれていないわけで、これが起こるのは直前の9月21日が秋分であった可能性がきわめて高いのである。
 因みに、グレゴリオ暦というのは1年の長さが365.2425日で、実際の長さ365.2422日にきわめて近い。このため秋分(および節気全般)の日付はグレゴリオ暦ではほぼ固定する。もっとも、ユリウス暦を改めて春分の日付が聖書の頃と一致するようにしたのがグレゴリオ暦なのだから、これは当然のことであるが。
 ただ、現在では秋分は9月23日頃なので、21日はちょっと早い。しかし、実は当時と現在とでは節気の決め方が違っているのだ。現在では定気法といって、秋分は太陽黄経が180°の時とされているが、当時は恒気法(または平気法)といって冬至から翌年の冬至までを24等分して節気を決めていた。岡田芳朗「旧暦読本」では、2007年について両者の節気を比較しているが、秋分は定気法では9月23日18時51分、恒気法では9月22日7時44分と、かつての恒気法のほうが1日半ほども早いのである。

 さて、ここからである。この時にも暦日相違があったのではないかと考えられるのである。
 ただ、現在のような時差の問題は考える必要は無い。暦に時差を考慮するようになったのは江戸時代の貞享暦からで、この時代には中国の暦をそのまま用いていたのだ。
 そのかわり、当時は日本と中国では暦法が違っていた。このため日中で日や月が違うことは有り得るのである。
 すなわち、日本では862年から宣命暦が使われていた。この暦は唐で822年から使われ始めたもので、862年からは同じ暦を使っていたわけであるが、唐では893年に崇玄暦に改められている。さらに939年からは調元暦、956年からは欽天暦と、向こうの暦は目まぐるしく変わるのだが、日本では時代遅れの宣命暦が実に江戸初期まで800年以上も続いたのである。

 延長六年(928)は、グレゴリオ暦9月21日が旧暦八月三十日で、(おそらく)秋分であったが、暦法が違えば月の大小が違うことも有り得る。つまり、この日本の旧暦八月が中国側では小の月で29日しかなかった可能性はあるのである。その場合、この月はグレゴリオ暦9月20日で終わり、秋分(八月中気)を含まないので閏七月となり、翌9月21日秋分から始まる月が八月となる。
 もしそうだったなら・・・宮中で中秋の宴が行われる。その後で、実は「向こう」では来月が八月であるという情報が入る。何事も中国の真似をしていたのだから、やはりこれも従わないわけにいかないだろう。しかし、もう一度「中秋」というのもシャクなので、呼び名は「後の月」として、事実上同じことをやった、のではなかろうか?
 この場合、中国側の八月はグレゴリオ暦9月21日から始まり、日本側の閏八月より1日早い。従って中国側の中秋は日本の閏八月十四日になる。これで十三夜のうちの一夜分は説明がつく。あとの一夜は、十四が偶数で縁起が悪いから1日早めたのかもしれない。陰陽五行説が盛んだった当時としては有り得ることだろう。

グレゴリオ暦日本中国
(推測)
事項
()は推測
928.9.6八.一五閏七.一五日本中秋
9.20八.二九閏七.二九 
9.21八.三〇八.一(秋分)
9.22閏八.一八.二 
10.4閏八.一三八.一四日本十三夜
10.5閏八.一四八.一五(中国中秋)

 もっとも、「後の月」の初出が延喜19年(919)だというのが事実なら、928年では遅すぎる。では、その19年前の延喜九年(909)ではどうか?
 実はこの時は八月が29日しかない。
  グレゴリオ暦9月21日=旧暦八月二十九日
  グレゴリオ暦9月22日=旧暦閏八月一日
 それでも、暦法の違いによってたとえば秋分が日本では9月21日、中国では22日だったなら、日本の八月、閏八月が中国では閏七月、八月となる。しかしこの場合、日付のズレは生じないので、十三夜の説明は諦めざるを得ない。
 貞観十三年(871)も同様である。そもそもこの時は中国側も宣命暦なので、暦日相違は起こり得ない。

 しかし、そうまでして中国と合わせようとしたのだろうか?そもそも894年には菅原道真の奏上により遣唐使が廃止されている。それ以後は唐のシガラミから解放されて「国風文化」が発展していった、と、昔の教科書には書かれていたような・・
 実は近年ではこれが大嘘だというのが定説のようである。遣唐使が廃止されたからといって、大陸からの文物の流入が途絶えたわけではない。既に朝廷が遣使を送るという朝貢貿易の時代は終わっていて、唐や新羅の商船がナンボでも入って来ていたようなのだ。そもそも、実際に行われた最後の遣唐使は838年で、道真の時より56年も前、とっくに役割は終えていたのだろう。そもそも、道真が遣唐使の廃止を奏上したというのも、唐の治安が悪化しているという理由だったらしい。そして実際、ほどなく唐は滅亡するわけだが、道真の下にはそんな情報も入っていたわけである。大陸からの商船によってもたらされたものだろう。
 少し後の時代だが、「源氏物語」には舶来ブランドものの情報が満載だという。貴族達はそういうものを買い求めたのだろう。清少納言は、中宮から「香炉峰の雪いかならむ」とふられて、御簾を上げるという漢詩の真似のピン芸をやったらウケた、と、自慢気に書いている。中国風の知識教養がステータスだったわけである。
 これが王朝文化の実態なのである。

Jun. 5, 2008

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