暦の会第378回 映画『天地明察』について語り会おう
2012年10月27日


基調報告
須賀 隆 石原 幸男


座談

須賀:これの元の小説は、SF Japan (2004春、徳間)に掲載された『日本改暦事情』に始まり、その後『野生時代』(角川)に連載され、そして本屋大賞、吉川英治賞の単行本、文庫本という歴史があります。
須賀:ノンフィクションとフィクションの両面で+の評と−の評に分類してみたけど、残念ながらノンフィクションの方は+の評が見当たらない(笑)
源真里:宮崎あおいが年をとらないという批評があったけど、あのコは童顔だからしかたない。でも着物は年相応に変わっていってました。
須賀:「御城碁打つのに剃髪しなくていいの?」という疑問は、暦文協総会の二次会で話題になったものです。
匿名:3暦勝負に失敗した後、どうやって生活費を稼いでたの?
須賀:
http://hiki.cre.jp/history/?SyougunkeShougiSinanyakuOohasikeMonjyo
源:暮らし向きといえば、関孝和が浪人なのもおかしいのでは?
石原:そうですね。甲府藩に仕えていて、六代将軍に従って幕府に入ったんだから。
匿名:忍者が出て来てチャンバラになるのは興ざめ。
須賀:あれはたぶん、アメリカに売り込むための演出でしょう。
石原:単行本では「緯度」だったところが、文庫本では「経度」に直っているらしい。ところがその結果、「北極星による経度の算出〜」と、北極星から経度が測れるわけがなく、珍妙な文章になっているそうな。
須賀:それは冲方さん、「確信犯」なんだと思う。それまで北極出地の話ばかりしてたんだから、それに関連付けないと小説全体が崩れる。
石原:でもね、以前私が した時の経験ですが、地球の公転軌道を近日点、遠日点を入れて横長の楕円で描いてたんだけど、ゲラを見たら縦長になってて唖然とした。それと似てるような、つまり、内容を理解してない人が機械的に置き換えてるようにも思えるんですね。
源:小説を読んだり映画を見たりした人は、よほどの知識がないかぎり、全部史実と思っちゃうんじゃないでしょうか?
石原:それは、私が基調報告で取り上げた知人がいい例で、彼は大学で化学をやった後、教育学部に入りなおして、英語の教師になった、つまり理系文系両方の素養のある男なんだけど、それでも映画にコロッとだまされてる(笑)。
岡田芳朗会長:渋川春海、貞享の改暦という今まで一般にはあまり知られていなかったことをこのように取り上げた功績は大きいと思います。
源:それでも、その中で何が史実で何がフィクションなのかは、はっきりさせるべきじゃないでしょうか?
石原:実のところ、私が基調報告で申し上げたかったのはそこのところのつもりなんですが・・
源:具体的に、特にここは史実と違うとはっきりさせたいところは?
須賀:まず、日食月食でしょうね。
石原:最初の「御城碁」の寛文四年12月。予期せぬ日食が起こったことになってるが、宣明暦ではたぶん予期できていたはずです。それに江戸では日没前にちょっと欠けただけ(食分1)。映画のように突然「食だ!」と騒いだかどうか。
須賀:最後の金環日食も嘘。あの年には部分食もなかった。まあ、ストーリーとしてはあそこで日食勝負をやらないといけなかったんだろうけど。
石原:宣明暦では、「食が予報されたけど実際には起こらない」ことはあっても、「食が予報されないのに実際には起こった」ことはほとんどないんです。「御城碁」の場面は、宣明暦この性格を無視しているだろう。
理想
実況


食あり食なし
食あり×
食なし×
宣明暦
実況


食あり食なし
食あり
食なし×
須賀:宣明暦の頒暦で「食なし」とされても、南半球で起こった例はあるらしい。もともとの宣明暦で予報されていても、南半球に影が落ちる日食は頒暦の作成時点で除外されるようになってきていたようです。
http://suchowan.at.webry.info/201209/article_17.html
 でも寛文四年の場合は北半球(江戸)で見えたんだから、予報されていたでしょう。
石原:関連しますが、宣明暦では朔(新月)がずれていたという誤解があるようです。それで日食月食も外れたんだと。
 冬至(二十四節気)はたしかに2日ほどずれていたんだけど、朔はどうかというと、この頃、むしろ正確になってるんですね。
須賀:つまり、宣明暦の朔望月は実際より0.000006日ほど長い。これが800年積み重なると約1.5時間朔が遅れることになり、一方、偶然ですが陽城と京都の時差も1.5時間なので、これをちょうど打ち消す。これは内田正男先生も書いておられることです。
石原:だから、渋川春海はあえて新しい授時暦を導入しようとしたために、この時差の問題にぶち当たった。やぶ蛇をつついた(笑)というか、それで「里差」で補正する必要が生じた、と。
源:じゃあ、宣明暦のままでも良かったんじゃないですか?
石原:朔に関しては、ですが、そうとも言えるかな?(節気は別ですが)。
匿名:節気が2日くらい遅れたって、一般の人には関係ないじゃん。
源:じゃあ、何故この時代に改暦されることになったんでしょうか?
岡田:元和三(1617)年に、徳川家康が東照大権現の神号を朝廷から賜ったんですが、その儀式のときに、朝廷の京暦と幕府の三島暦に食い違いが起こった。以来幕府は全国の暦を統一したいと考えたんですね。
石原:それもあったでしょうが、でもそれは、どちらも暦法は同じ宣明暦で、食い違いは計算間違いなのか暦師の「見解の相違」なのか、ともかく暦法の問題ではないと思いますが・・
須賀:この時代の数学の発達も大きいと思います。
石原:昔の暦には「暦経」と「暦議」があった。暦経はユーザーズマニュアルで、このとおりに計算すれば(来年の)暦は作れます。暦議のほうは理論解説書です。その時代の天文学理論が書かれていて、何故そのような計算をしないといけないかはこれを読まないとわからない。ところで授時暦には非常に整備された暦議があった。そして渋川春海や関孝和にはこれを理解できる数学能力があった。
岡田:暦は(中国では)皇帝が人民に授けるもので、権力の証しだった。結局、暦を統一し権威を保ちたいという幕府、権力者の意向と、新しい科学知識を実用化したいという学者さんたちの思惑が、うまく一致したということでしょうかね。
皆さん、今日はありがとうございました。
(当日のご発言をもとに再構成した、これもフィクションです)