はじめに
 断っておくが、筆者は歴史も考古学も全くの素人である。いや、この種の分野では素人でもかなり深い学識を持っている人も少なくないようだが、筆者にはそれも当てはまらない。せいぜいマスコミ的知識しか持ってないのである。
 そんな者がこんな主張をするのは噴飯ものということは百も承知である。が、あえて世に問いたいのである。それは、キトラ古墳の天文図は後世の捏造ではないかという疑念である。

キトラ古墳の天文図
 キトラ古墳壁画については、高松塚のそれと同様に夙に有名で、多くの人々によって論じられている。天井に描かれた天文図も例に漏れない。中でも来村多加史「高松塚とキトラ 古墳壁画の謎」は興味深い指摘をしている。来村氏はこれを<いわば実用可能な天文図に似せた「星座のデザイン」>としているのである。
 来村氏は論拠として28宿のうち翼宿と張宿の位置が逆であること、そして黄道(春分点)の位置が全くいい加減であることを揚げている。特に春分点については、地球の歳差運動にも言及して、キトラ古墳の時代(西暦700年頃)にもこの位置ではあり得ないことを指摘している。 まことに当を得た指摘であろう
 しかし、たとえデザインと割り切ってもなお納得できない問題がある。それは来村氏も言及している歳差運動にかかわる問題である。まず、図−1を見ていただきたい。


図−1 来村多加史『高松塚とキトラ 古墳壁画の謎』 pp87より
 これは来村前掲書pp87に掲載されたキトラ天文図の一部である。来村氏によれば、キトラ天文図には68の星座と350ばかりの星が確認されているという。星のうち星座に含まれない独立星が6つあり、そのうちの4つは一般の星よりかなり大きく表現されている。その4つの星とは、天狼(西洋名シリウス)、老人(西洋名カノープス)、中国名のない星(西洋名アケルナル)、北落師門(西洋名フォーマルハウト)と推測されている、という。図−1ではこのうちの天狼と老人を赤丸で囲った。また近くのしん宿(オリオンの三つ星)と、オリオン座の主星ベテルギウス、リゲルを赤で表示した。

 次に図−2を見ていただきたい。


図ー2 天狼と老人の位置関係

 2008年の天狼と老人の位置関係はキトラ天文図とほぼ同様である。しかし700年には、現在とは逆に、老人のほうが天狼より赤経が大きいのである。これはキトラ天文図とは全く合わない。
 わかりやすく説明しよう。天狼(シリウス)も老人(カノープス)も冬の宵の南天に見られる星である。もっとも老人(カノープス)は赤緯がかなり低いので、日本列島の大部分ではなかなか見られない。少し南のほうへ行くと見られるが、南中前後の短時間だけである。その時、天狼(シリウス)はこの老人(カノープス)よりやや東側に見られる。これが現在の姿である。しかし700年頃には老人(カノープス)の南中時には天狼(シリウス)はその少し西側にあったわけである。
 何故こんなことが起こるのか?実はこれは既に出て来た歳差運動の仕業なのである。

歳差運動
 地球は歳差運動というのを行っている。つまり独楽のようにその自転軸が「みそすり運動」を行っているのだ。このため、天の北極の位置は時代とともに変わって行く。現在の北極星は「こぐま座α」という星であるが、BC500年頃には「こぐま座β」が北極星だった。古代エジプトの頃には「りゅう座α」がそうで、さらに12000年程前には「こと座α」つまりヴェガ、東洋では織女星が北極星だったという。そして天の北極は、赤緯66.5°、赤経18hあたりを中心にする半径23.5°ほどの小円を25800年ほどの周期で周っている。
 図−3には、この天の北極の軌跡の一部をオレンジの線で示した。5000、10000という数字は、現在から5000年前、10000年前の北極の位置を示す。また赤で700と書かれた位置は西暦700年の北極の位置である。

図−3

 さらに緑の線は、天狼(シリウス)と老人(カノープス)を通る大円である。全くの偶然であるが、織女(ヴェガ)もこの大円上に来るのが面白い。
 もしも北極が緑線上に来れば、この線が子午線となる。したがって天狼(シリウス)と老人(カノープス)の赤経が同じになる。つまり天狼と老人が同時刻に南中する。
 北極が緑線より図上で右上側なら、天狼が老人より赤経が大きくなる。現在はまさにこの配置である。一方、北極が緑線より左下側なら、天狼が老人より赤経が小さくなる。そしてこれが700年頃の配置である。いや、有史以来、近年を除くほとんどの時代はこちら側だったわけである。
 西暦700年から2000年までの天狼と老人の赤経の経年変化は次表のようになる。つまり、1050年頃に天狼が老人を追い抜いた(北極が緑線上に来た)のである

天狼と老人の赤経の経年変化

 歳差によるこのような東西の逆転は二十八宿の『觜宿』と『参宿』の間でも起きたことが知られている。


キトラ天文図の解釈
 以上見てきたように、キトラ天文図における天狼と老人の位置関係は現代のものに近く、古墳が築造された(とされる)飛鳥時代のものとは全く異なる。これは何を意味するだろうか?
 しかしその前に、キトラ天文図の図−1のような天狼、老人の推定の正否を検討しておく必要があろう。これが誤りであれば、これ以上何を論じても無意味であるから。
 しかしながら、この推定はおそらく妥当であろう。これらの星は他の一般の星よりかなり大きく表現されているということ、そして参(オリオン座)などとの位置関係から見て、他の星とは考え難い。もっとも、天狼と老人の推定が逆という可能性はないか?これもおそらくない。より南側の星を老人と考えるのはきわめて理にかなっているのである。
 それでは、天文図の製作者が誤ったのではないかという推理が働くだろう。実際、既に来村氏はこの天文図の翼宿と張宿の位置が逆であることを指摘している。ならば他にも間違いがあっても不思議ではない。しかしながら、翼宿(コップ座)や張宿(うみへび座の胴部)というのはあまり目立たない星座である上に形も似ているので、「原図を転写する際に・・うっかり間違った」(来村前掲書pp104)というのはありそうな話である。これに対して、天狼は全天で最も明るい恒星で、老人も2番目の輝星である。そんな大星をそう易々と間違えるだろうか?
 むしろ製作者は「見たまま」を描いたと考えるほうが自然だろう。もっとも、日本からはあまり見えない老人(カノープス)を製作者は見ていないかもしれない。その場合は何らかの「原図」を参考にしたのであろうが、その原図にはやはりこのように描かれていたのだろう。そしてその位置関係は飛鳥時代、のみならず有史以来当時まで誰も見たことのないものなのである。この謎に対する最も簡単な答えは、キトラ天文図はより後世の作であるというものである。どんなに古くても鎌倉時代だろう。高松塚やキトラが盗掘に遭ったとされる時代である。

 それでは、誰が何のためにこんな手の込んだことをしたのかという疑問が沸き起こる。しかし筆者はこれに答えるための何の知識も持っていない。なにしろ歴史も考古学も全くの素人なので、これはいかんともし難い。無責任と言われれば、たしかにそのとおりだろう。
 ただ、この解釈(キトラ天文図はより後世の作)以外に納得のいく説があるなら、筆者も是非知りたいものである。

中国、朝鮮の天文図との比較
 来村前掲書では、キトラ天文図と中国、朝鮮の天文図との比較も行っている。比較対照は、南宋淳祐石刻天文図、および天象列次分野之図である。

 南宋淳祐石刻天文図は、南宋の淳祐七年(1247)に蘇州城の文廟に建てられた石碑のひとつということである。来村前掲書の図では星名がわからないが、別の文献(陳遵?「恒星図表」)によると、狼星(天狼)と老人がほぼ同じ子午線上にある。先ほどの赤経の経年変化表から見れば、これは1247年頃としてはほぼ正しいと言って良いだろう。


図−4 来村多加史『高松塚とキトラ 古墳壁画の謎』 pp95より
 次に天象列次分野之図であるが、これには、図−4に示した A, B, C の3つの独立星らしきものが見られる。おそらく C が天狼と見て間違いなかろう。しかしそれでは、A と B はどのように解釈すべきだろう?
 ここで注目したいのは、図−4で B を老人と解釈すると、キトラ天文図(図−1)とかなり似てくるのである。
 この図は「高句麗の天文図を基礎として、李氏朝鮮の太祖四年(1395)に新たな観測データを加味して刻まれた」(前掲書pp96)という。その年代なら、B を老人と解釈するのが妥当かと思われる。それでは A は何か?

図−5 ジョゼフ・ニーダム『中国の科学と文明 第5巻 天の科学』 pp121より
 一方、この図の原図がジョゼフ・ニーダム『中国の科学と文明 第5巻 天の科学』(監修=東畑精一、薮内清)に掲載されている(図−5)。それを見ると、図−4の A に相当する星には「老人」と書かれているのがかなり明瞭に読める。C は「狼星」だろうか。しかし B は判然としない。
 ともかくも老人は A であることは間違いなさそうである。したがって図−1の老人の位置は明らかにおかしい。
 同書によれば天象列次分野之図は「+672年の石碑に刻まれた星図に依拠」しているという。まさに飛鳥時代である。その頃、高句麗が滅亡し(668)、日本に多くの人が亡命してきたとされる。たとえば曼珠沙華で有名な埼玉県の高麗こまの里は、亡命してきた高句麗の王族高麗聖天王こましょうでんおうが朝廷から領地を貰って拓いた所と言われる。キトラ天文図を描いたのは、そのような高句麗からの亡命者であったかもしれない。ならば天象列次分野之図の元の石碑とキトラ天文図は兄弟のような関係になるのではないか?

 図−4の C に対応する星は図−5にも見える。残念ながら判読できないが、もしかしたら当時ここに客星が現れたという可能性はないだろうか?キトラ天文図ではそれを描き、老人を見落としたのか?
 「客星」というのは突然現われる新星などのことである。『名月記』には1054年に現われた客星の記録が見られるという。これは現在その名残が『おうし座かに星雲』として知られる超新星爆発であったとされる。

図−6 ジョゼフ・ニーダム『中国の科学と文明 第5巻 天の科学』 pp118より
 図−6は、やはりニーダムに掲載されている1092年の『新儀象法要』所載の星図である。図−5と比べて老人はやや西に動いている。歳差の影響として妥当な変化である。

図−7 『天文成象』
 図−7は、保井(渋川)昔尹(ひさただ)による元禄12(1699)年の『天文成象』(国立天文台所蔵)の一部である。
 この時代になると、老人の位置は現代に近い。そして『キトラ天文図』(図ー1)にも近い。ただし『軍市』より西にまでは動いていない。
 『天象列次分野之図』は「李朝の宣祖四年(1571)に刊行された木版印刷本の模写が日本にも伝わり、江戸時代の天文学者も入手して基本的な図面として活用した。貞享暦を奉ったことで知られる渋川春海も木版天文図をベースとしていくつかの天文図を制作している」(来村前掲書pp96)という。『天文成象』もその一環であろうが、老人星の位置にも見られるように、この時代の観測によって修正を加えているようである。


キトラ古墳の築造年代
 しかし、そもそもキトラ古墳の築造年代についてはどこまでわかっているのか?
 高松塚古墳に関しては、「最下層から藤原京時代(六九四〜七一〇年)の須恵器が出土し、少なくとも築造年代が六九四年を遡らないだろうという根拠も得られた」ということで、キトラについては「両古墳に見られる多くの共通性から、時期はそれほど離れていないものとも見ている」(来村前掲書pp20)ということである。つまり、キトラに関しては高松塚からの間接的な推定が行われているのみということになる。放射線年代測定のような直接的な測定や推定は全くないようである。
 ならば、築造年代が飛鳥時代から遠く離れるという推論もあながち荒唐無稽とも言い切れないのではなかろうか?少なくとも疑ってみる余地はあるだろう。疑うことから科学が始まるはずである。

 もう一度整理してみると、
1.『キトラ天文図』とされる図−1における「老人星」の位置は図−4の B に相当する。
2.一方、図−4の原図である『天象列次分野之図』では、ニーダム掲載の図−5を見る限り、「老人星」は図−4の A のほうである。そして図−5では図−4の B に相当する星の名前が判読できない。
3.『天象列次分野之図』の元になった星図は、キトラ古墳とほぼ同時代の高句麗のものである。その頃日本には高句麗からの亡命者が来ていた。したがって両図はきわめて近い関係にあることが推量される。
4.図−1で「老人」とされる図−4の B は、正体不明ながら図−5にも見られる。一方、図−5で「老人」とされる図−4の A は図−1には見られない。
5.『天象列次分野之図』を信頼するなら、「老人」は A である。そしてこれは歳差による移動推定結果とも一致する。しかしこれが図−1には存在しない。
6.問題は B であるが、「老人」でないことは確かであるが、ともかく『天象列次分野之図』に描かれていることも確かである。これが客星であったという可能性も考えられるが、もしそうなら、図−1には「老人」が欠落していることになる。
7.B は李朝期に観測された「老人」を新たに書き加えたという可能性もあるのではないか?もしそうなら、それが『キトラ天文図』にあるということは全く不可解である。後世の捏造以外にこれはあり得ない。

歳差

Jul 7, 2010 改訂版
May 3, 2008 初版

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