熒惑ケイコク心ヲ守ル

 「熒惑」は火星、「心」は中国の星座「二十八宿」の1つで、さそり座のアンタレスである。この2つの赤い大星が接近する現象は古代から注目されて来た。2016年にもこれが起こり、8月24日に最接近となった。今回は土星も近くにあり豪勢である。




 この時の各星の位置は次の通りである。
α:視赤経
δ:視赤緯
A:方位角
h:高度角
X=(90°−h)sinA
Y=(90°−h)cosA
 一方、画像上の座標(xp,yp)は次の通りである(ピクセル値)。

 この(xp,yp)と(X,Y)の間に次の1次関係式を考える。
  xp=xp0 + C X + S Y
  yp=yp0 − S X + C Y


 最小2乗法によってxp0,yp0,C,Sを求めると次のようである。
 これを用いて各星の(X,Y)を(xp,yp)に変換し、画像上にプロットしてみる。
星名pppestpest
は8月10日、20日、30日の火星位置

 熒惑(火星)と心(アンタレス)の接近が、それらが宵に南中する時期つまりグレゴリオ暦8月頃に起きるのは79年に1度のようである。これは火星の公転周期が1.880866年であることから容易に理解できる。
 実際、79年前の1937年、その前の1858年、さらに1779年、・・にこれが起こったことは天文ソフトで確認できる。そして1700年(元禄十三年)の例は、『隆光僧正日記』に記録が見られる。

元禄十三年七月十五日丙午(一七〇〇年八月二九日)
・・・・・・
【隆光僧正日記】二 七月十四日、被為召登城、星之御祈祷之儀弥可出精之旨被仰
付。〇中略且又、明十五日月蝕皆既也。月蝕ハ后妃二タゝル。三之丸・御台・五
之丸安全之御祈祷可修之旨被仰付侯。
一、十五日、螢惑星、心星敵対、又月蝕皆既也。月蝕之御祈祷愛染供修之。雨姫君
様・御台様・三之丸様・五之丸様へ御礼献之。
『近世日本天文史料』(大崎政次編 原書房)より

 隆光僧正とは、あの「生類憐みの令」を提唱した新義真言宗の僧である。その隆光の、元禄十三年七月十五日(1700年8月29日)日記に「 惑星、心星敵対」の記事が見えるのである。この時は陰暦十五日の満月で月蝕もあった。そして「月蝕ハ后妃二タゝル」と言ってそれに対する祈祷もしているのだが、それよりも「螢惑星、心星敵対」のほうが重視されている。「星之御祈祷」とはこちらに関するもののようである。では何故、祈祷が必要だったのか?

【景三慮以營國兮】『呂氏春秋』季夏紀制楽に「宋の景公に疾あり。
司馬子韋曰く、熒惑心を守る。心は宋の分野、君これに当たる。・・・
全釈漢文大系27 文選(文章編)二『思玄賦』註 小尾郊一、集英社

 先の隆光僧正は「螢惑星、心星敵対」としているのがこちらは「熒惑心を守る」と、正反対のようにも読み取れるが、内容は同じことである。
余談
 厚切りジェイソン氏は、「けもの偏に守」と書いて「狩」となることについて "Why Japanese people!?" と叫んでいる。いや、漢字に関しては Japanese people だって "Why Chinese people?" なので、ただ1500年も昔から使っているので今更言わないだけなのだが、しかし『呂氏春秋』の「守」の用例を知ればジェイソン氏も少しは納得するのではなかろうか?

 『呂氏春秋』は中国戦国時代というから紀元前の古い時代である。日本はまだ弥生の集落が点在していた程度であろう。しかし中国では既にこの「熒惑と心の接近」が注目されていたことがわかる。「心は宋の分野」というのは『分野説』である。すなわち中国では二十八宿にはそれぞれどこかの国が対応するとされた。これが「分野」で、宋国が心宿の分野だった。そして司馬子韋は熒惑の心宿への異常接近が景公の疾の原因とした。つまり星占であるが、後漢の張衡による『思玄賦』では、この時に景公が三慮したため熒惑が退いたという故事を引用しているのである。

 またこの故事は、続日本紀聖武天皇神亀二年(725)九月の詔にも見られる。そこでは「天示星異、地顕動震」といった災禍に際し「責深在予」としている。「宋景行仁弭熒惑之異」とこの故事を引き、それに比べて自らには徳がないとする自虐的な文言である。
、詔曰、・・・、天示星異、地顕動震。仰惟災 、責深在予。昔、殷宗楯コ、消雊雉之冤、宋景行仁、弭熒惑之異。

 このように、「熒惑心ヲ守ル」は宋の景公の故事に関連して古代から知られていた。それは分野説に基づく星占であった。

 ところで、元禄十三年より15年前の貞享二年(1685)には『貞享暦』が施行されている。これは、平安時代から使用されていた『宣明暦』を廃して823年ぶりに行われた暦法の改正であった。貞享暦は二代安井算哲(後に渋川春海と改名)による初の国産暦である。
 算哲はこれに先立つ延宝五年(1677)刊の『天文分野之図』で「日本版分野説」を提唱している。つまり二十八宿に日本の国名を充てたのである。

二十八宿
北方玄武分野
距星(一番西側の星)
いて座φ星
やぎ座β星
みずがめ座ε星
みずがめ座β星
みずがめ座α星
ペガスス座α星
ペガスス座γ星
陸奥 出羽
越前 若狭
因幡 隠岐
東方青龍分野
距星(一番西側の星)
おとめ座α星(スピカ)
おとめ座ε星
てんびん座α星
さそり座π星
さそり座σ星
さそり座μ星
いて座γ星
甲斐 信濃
常陸 武蔵
伊豆 駿河
西方白虎分野
距星(一番西側の星)
アンドロメダ座ζ星
おひつじ座β星
おひつじ座35番星
おうし座17番星(すばるの一つ)
おうし座ε星(ヒアデス星団の一つ)
オリオン座λ星
オリオン座δ星
周防 安芸
九州
南方朱雀分野
距星(一番西側の星)
ふたご座μ星
かに座θ星
うみへび座δ星
うみへび座α星
うみへび座υ星
コップ座α星
からす座γ星
四国
紀伊 和泉
伊勢
参考:Wikipedia,

 ここでは、心宿を含む「東方青龍」七宿は関東に対応している。将軍の居る武蔵も含まれる。
 つまり、「熒惑心ヲ守ル」が起こった時、徳川将軍綱吉が『呂氏春秋』宋の景公になぞらえられたものと解釈できる。隆光僧正「星之御祈祷」はこれに対するものだったのだろう。

 ところで、宣明暦時代には暦註として二十七宿が用いられていた。これは二十八宿から「牛宿」を除いたものである。それが貞享暦では二十八宿に変わった。これは、上の表のように東西南北に各七宿を配する分野説との整合性に配慮したものかと思われる。
 さて、二十七宿はインド起源の宿曜道に基づくものである。そして宿曜経はわが国には空海によってもたらされた。真言密教の開祖である。一方、隆光も『新義真言宗』の僧である。つまり、二十八宿=分野説は真言密教とは無関係と思われるのだが、新義真言宗の隆光が分野説に基づく祈祷を行っているのである。

Aug. 2016