えっ!節分は2月3日じゃないの!?

 近年、節分というと「恵方巻」が大はやりである。あんな巻きずしをかぶって旨いのかどうか、筆者は知らない。
 一方、追儺ついな(豆まき)という風習はかなり昔から行われている。
モデル・はな、奈良で節分&茶会を楽しむ
 日本の節分は、もともと大晦日に行われていた「鬼遣(おにやらい=追儺)」という中国の行事から来たもので、これを陽暦の2月3日頃に移動させ、さらには色々な思想や行事と組み合わさり、鎌倉時代以降から日本に根付いていったのだとか。
2020.03.11 Asahi.com

 ところで、恵方巻売り場には「2月3日は節分です」と大々的に書かれている。たしかに節分はこのところ毎年2月3日であった。ところが、2021年には節分が2月2日になる。調べてみると、1897(明治30)年以来じつに124年ぶりのことである。これはどうゆうことなのか?
 もっとも簡単に言うと、これは「現在の暦が不正確だから」ということになる。まあ、とりあえずこれだけで恵方巻ギョーカイの人たちは納得するかもしれない。それ以上細かいことを知らなくても商売に差し障りはないだろうから。でも、それだけでは納得しない人のために、少し説明を加えよう。
 まず、 なのである。だから、「節分は2月3日」というのは「立春が2月4日」ということであり、「節分は2月2日になる」というのは「立春が2月3日になる」ということなのである。すべては立春が基準である。
 節分は立春の前日である。「追儺」は大晦日の行事であるが、一方で立春からを新年とする考え方も古くからあった。必然、その前日の節分が年越しの日となっていったのである。
 さて、 なのである。だからそれは「陽暦の2月3日頃に移動させ」てなどいない。陽暦(正確には“グレゴリオ暦”)では2月3日頃がちょうどその日になるのである。
 2021年は節分が2月2日となる。これは1897年以来実に124年ぶりであるが、こんなことが起きるのは、立春が2月3日23時59分となるためである。これは、国会で“令和おじさん”が決めたのではなく、 。立春は太陽の位置によって決められる。その定義は「太陽黄経が315°になる時」である。 である。

立春の太陽は「やぎ座」にある

 このように、立春(および二十四節気)というのは太陽の位置で決められているれっきとした太陽暦なのである。
 「陽暦(太陽暦)」という言葉をグレゴリオ暦の意味に使うのは正しくない。現在日本を含む多くの国で使われているグレゴリオ暦は太陽暦の一種ではあるが、これだけが太陽暦なのではない。既に述べたように、二十四節気も古代中国発祥の太陽暦なのである。細かいことを言えば、こちらのほうがグレゴリオ暦より正確な太陽暦である。

 と言っても、ほとんどの人には何のことかわからないだろう。筆者自身、「やぎ座のθ星」なんて見たこともない。だからここはたとえ話をしよう。
 まず、東京スカイツリー(TST)を太陽に見立てる。あなたが地球として、葛飾柴又あたりにいたら、TST は富士山の近くに見えるだろう。もし品川あたりにいたら、それは筑波山の方向だろうか。このようにTST が見える方向はあなた(=地球)のいる場所によって変わる。それをTST(=太陽)の見える方向で表現するのである。これは地動説なんぞなかった時代の名残だろう。
 次に、あなた(=地球)はTST(=太陽)の周りを1年かけてぐるっと1周するとする。TST が富士山の方向に見えるのが立春とすると、当然これは1年ごとに起こる。さてそれで、1年とは何日だろうか?365日? いや、閏年には366日になる。
 実は、 なのである。さてそこで、ある年の立春が2月4日0時0分だったとする。翌年の立春はその365日と5時間49分後だから、2月4日5時49分となる。その翌年は2月4日11時38分、そのまた翌年は2月4日17時27分、そしてそのまた翌年は2月4日23時16分かと思いきや、4年目には閏があるので、2月4日から翌年2月4日までは366日である。だから3年目から365日と5時間49分後は2月3日23時16分となる。つまり、最初の年(0年目)の立春が2月4日0時0分なら、4年目は2月3日23時16分で、4年前より44分早いがほぼ同じになる。実のところ、
 要するに、1年の長さが365日より5時間49分(6時間=1/4日弱)長いため、4年に1度の閏でそれを清算するのだが、今度はそれで4年前より44分早くなってしまう。だから2月4日だった立春が3日になったりするのである。それはある意味で暦が不正確ということになるが、5時間49分という端数があるために「立春は何月何日」と固定することができないのでこれは仕方がない。

 もっとも、先の例ではわずか4年目に立春が2月3日になった。しかし我々は、2021年よりずっと以前から立春は2月4日だったことを知っている。これは何故だろう?
 実は100年ほど前には立春が2月5日だった年もあるのだ。たとえば1923(大正12)年である。この年の9月1日には関東大震災が起きた。9月1日というと“二百十日”と思われがちである。それは立春から数えて210日目(立春当日を1日目とする)であるが、平年で2月4日が立春なら9月1日となる。ところがこの年の立春は2月5日だったので、関東大震災が起きたのは二百九日なのである。
 古いところでは1902年に2月5日立春があった。ところで、先に見たように立春の時刻は4年目には44分早くなる。平均すれば毎年11分である。すると、131年では
つまりまる1日早くなる。1902年からは120年ほど経っているから、ほぼ1日近く立春が早くなり、かつては2月4〜5日だったのが3〜4日になったのである。そして2月3日立春はこの後だんだん増えていく。

 さて、立春が130年ほどで1日早くなると知ると、心配性の人は、いずれ2月3日から2日、1日へと早くなり、それに伴って節分も2月2日から1日、1月31日になって行くのではないかと思うかもしれない。
 しかしこれは杞憂である。何故かと言うと、閏が4年に1度ではないからである。閏が4年に1度だと、4年目の立春は初年より44分早くなった。しかしそこが閏でなければ、初年より23時間16分つまりほぼまる1日遅くなる。これを130年に1回くらい行えば、1日早くなることを防げるわけである。実際、次回は2100年にこれが起きる。その次は2200年、そして2300年である。
 このように、通常は西暦年が4の倍数の年が閏年であるが100の倍数の年は閏ではないのだ。いやしかし、現在30歳以上くらいの人なら、2000年が閏年だったことを記憶しているだろう。実は正確には
 西暦年が100の倍数で400の倍数でない年は閏としない
のである。こうすれば400年の間に閏が3回省かれる。平均すれば133年に1回の割である。だから131年で1日ほど立春が早くなることは長期的にはあり得ない。ただ、1900年に閏が省かれてから次は2100年まで4年に1度の閏が続く。この200年の間には1日半ほど早くなるのである。そしてそれは、2100年、2200年、2300年に閏を省くことによって1900年とほぼ同じに戻るのである。


節分、立春日時

 このように、4年に1度の閏を400年に3回省くという暦法を“グレゴリオ暦”という。これは1582年にローマ教皇グレゴリウス]V世によって制定されたためこの名がある。日本では天正十年、「本能寺の変」の年である。
 その本能寺の変は日本の暦では天正十年六月二日であるが、グレゴリオ暦にすると1582年7月1日である。もっともグレゴリオ暦が施行されたのは同年10月からなので、この時はまだその前の 。どちらの日付で考えるべきかであるが、当時の南蛮人は当然ユリウス暦を使っていたのだが、正確な季節はグレゴリオ暦でなければわからない。実際、中国暦(日本の旧暦)には“中気”という概念があり、夏至は五月中気で必ず五月なのである。当然、 でそのことはグレゴリオ暦で現在の夏至(6月21日頃)と比較しなければわからない。

 この時の教皇グレゴリウス]V世であるが、天正遣欧少年使節は謁見している。しかし江戸時代の天文書ではこの人のことを“学士グレゴリ”と呼んで天文学者と見做している。キリスト教禁教のため情報が伝わらなかったのだろう。

 節分も近い。今年は地球公転の影響で124年ぶりに2月2日だ。
「鬼は人の世とともに」(朝日新聞2021年1月25日)

立春回帰年
 地球公転周期は原則一定だが、月や木星、金星などの影響で僅かに変動する。立春回帰年(立春〜立春)は公転周期を立春で見たものであるが、調べてみると2020年〜2021年が2019年〜2020年より7分長い。したがって2021年立春は通常よりむしろ7分遅れたのであって、前年の4日から3日に早くなったのは地球公転の影響ではない。ただ、2020年が閏年で2月が29日あったため、その2月4日から365日後は2021年2月3日となったのである。
 124年前の1897年立春は1897/2/3/21:31(推定)。その4年後は1901/2/4/20:30(推定) で、23時間ほども遅くなっている。これはグレゴリオ暦の規則により1900年が閏年ではなかったためで、もしここが閏年だったら立春は2月3日となり、以降3日立春(2日節分)は頻出したはずである。つまり「124年ぶりの椿事」は地球公転周期と暦法の齟齬が原因なのである。

 ところで、閏が4年に1度なら立春の日付が徐々に早くなることを述べたが、歴史的にはこれは実際に起きたことである、それはグレゴリオ暦の前のユリウス暦の時代である。
 ユリウス暦は、BC45年にローマのユリウス・カエサル Julius Caesar によって制定された。 。この暦が使われ続けるうちに、こちらは春分の日付が次第に早くなった。
 春分とは、「昼と夜の長さが同じ日」などとも言われるが、より厳密な定義は、 である。そしてこの時を太陽黄経0°とする。現在では「うお座のω星」という4等星の少し南が春分点(春分に太陽がある位置)であるが、2000年以上昔にはおひつじ座とうお座の境界付近が春分点だった。それで「白羊宮(おひつじ座)初度」 prima stella Arietis という語は長く春分点の意味で使われていた。
 この春分点経過の日が次第に早くなったことがグレゴリオ暦制定の契機となった。それというのも、キリスト教では春分が重視されるからである。
 イエスはゴルゴダで処刑された後復活したとされ、これが“神の子キリスト”の起源である。イエスはユダヤ人だったから、その事跡は当然ユダヤ暦で記述されていた。それは一種の で、 。一方、キリスト教が広まったローマは太陽暦のユリウス暦だった。それが国教となった3世紀頃、春分はユリウス暦3月21日だった。そしてこの日付が“ニケーア公会議(325年)”で固定されてしまったのである。
 ユリウス暦の1年は実際より少し長いので春分の日付が次第に早くなる。これは既に述べた立春と全く同じことである。そして16世紀には本当の春分がユリウス暦3月11日となった。つまり10日も早くなってしまったのである。
 このことは少し以前から認識され問題となっていた。16世紀はコペルニクスが現れ地動説を提唱した時代で、 がようやく発達しはじめていた。コペルニクスにもローマ教会から改暦の打診があったが断っている。しかし1582年になって遂に改暦が行われた。それは、
(1) 1582年10月4日の翌日を10月15日とする。
(2) 西暦年が100の倍数で400の倍数でない年は閏としない。
というもので、このうちの(1)によって春分の10日のずれを解消し、(2)によって のである。

 このように、グレゴリオ暦はローマ(カトリック)教会によって制定された。ところで、この16世紀というのはマルティン・ルターが宗教改革を始めた時代でもある。ルターらによるプロテスタントも勢力を拡大していたが、こちらを奉ずる国はカトリックによる改暦に従わず、しばらくの間ユリウス暦を使用していた。たとえば
 ローマ教会から早くに分かれていた東方教会もグレゴリオ暦を受け入れなかった。ロシアは、革命によってソヴィエト連邦が成立した後の1918年から移行した。
 非キリスト教圏で比較的早かったのが日本で、1873(明治6)年である。もっともこの時には閏は4年に1度とされていたが、グレゴリオ暦の例外規定が適用される1900年の直前の1898(明治31)年になって
  たものが100で割り切れて400で割り切れない場合は平年とする、とした。「神武天皇即位紀元年数ヨリ六百六十ヲ減シ」とは西暦(キリスト教紀元)に他ならないが、明治の大日本帝国はあくまで“皇紀”で表現したのである。そしてこの閏年の規定は現在でも法的に有効とされる。

 ところで、明治6年にグレゴリオ暦を採用した日本には、ハリストス正教(ロシア正教)も入っていた。JR御茶ノ水駅前の東京復活大聖堂教会(通称「ニコライ堂」)はこの正教に属する。こちらは(現在も)ユリウス暦を使用し、春分をその暦での3月21日とするので、他の会派とは復活祭の日取りが違うことがある。1875(明治8)年にはそれが起きた。 「春分の後の満月」が他会派と1箇月違ったのである(Paschal Full Moon(PFM)参照)。
 この時、ハリストス正教会に千葉卓三郎という人物がいた。後に明治期の民間憲法のうちでも最も著名な『五日市憲法』を起草した人とされる。その卓三郎はこの直後に同教会を離れている。筆者は彼がユリウス暦による誤った春分(および復活祭)に疑問を持ったのが理由ではないかと考えている( 千葉卓三郎の棄教と復活祭 )。

 ユリウス暦の(不正確さの)痕跡はハロウィーンにも見られる。それはかつてはケルトの新年であったが、その時期はまさに“立冬”だったのだ。

秋分と冬至の中間にあたる日10月31日〜11月1日
聖ブリギットの祝日
冬至と春分の中間にあたる日1月31日〜2月1日
春分と夏至の中間にあたる日4月30日〜5月1日
夏至と秋分の中間にあたる日7月31日〜8月1日

 「秋分と冬至の中間にあたる日」などという回りくどい言い方は、日本(東アジア)では“立冬”と言えば済むことである。以下も“立春”、“立夏”、“立秋”であり、つまりケルトの祭はこれら四立を意識しているのである。
 しかし、これらの日付は現在の四立と数日違っている。たとえば立冬は近年は11月8日頃であるし、立春は既に述べたように2月4日頃(今後3日が増える)である。これがユリウス暦の痕跡なのである。
 ブリテン(現英国)やアイルランドのケルト系住民にキリスト教が浸透し、その祭もキリスト教に採り入れられたのは9世紀頃で、たとえば“サウィン”は“万聖節 All Hallow's Day”となった。ハロウィーン Halloween はその前夜である(その意味では“節分”というべきであろうか)。ところがこの時代には立冬がユリウス暦11月1日頃だったのである。ニケーア公会議の325年から500年ほど経っているためである。そしてグレゴリオ暦になった後もこの日付がそのまま残っているのである。

 さて、四立しりゅうつまり立春、立夏、立秋、立冬という概念が中国(東アジア)と同様にケルトにもあったことがわかった。これはどういうことなのか?そもそも四立とは何なのか?
 先に答えを言うと、これは冬至、夏至の“二至”と春分、秋分の“二分”の中間点なのである。古代の人々は、洋の東西を問わずまず二至を認識した。次にその真ん中である二分を認識した。さらにその至と分の真ん中として四立を考えた。中国ではさらに至、分、立の間を3等分した。それが“二十四節気”である。

 実際、虫が活動するのは4月の声を聞いてから、1日の最高気温が15℃ぐらいのころですので、旧暦ならドンピシャリ。現在の暦では、本当の「啓蟄」は1カ月ほど先なのです。薄手のコートもそれまでお預けです。
 かつてNHKの天気予報で人気のあった半井小絵氏の書『お天気彩時記』の一節である。これによれば、「(旧暦の)本当の啓蟄」というのがあってそれは「現在の暦の啓蟄」よりは1箇月ほど先であるようだ。同書は10年以上前のものだが、つい最近も「旧暦の啓蟄があるんですか?」という質問を受けた。これがばかげた間違いであることは二十四節気の意味を知っていれば容易にわかるだろう。それは二至二分という太陽の位置で決まる時の間を細分しただけのものなので、旧暦だろうが新暦だろうが違う道理がないのである。「啓蟄は地中の虫が出てくる頃」などという注釈に惑わされてはいけない。

  旧年ふるとしに春立ちける日よめる       在原元方
   年の内に春はきにけり一とせを去年こぞとやいはん今年とやいはん

 この歌のように、立春は旧暦では年の内(十二月)であったり年明け(正月)であったりと変動が大きい。しかし新暦では2月4日頃にほぼ固定する。太陽暦だからである。ちなみに、この歌の「年内立春」というのは旧暦ではそれほど珍しいことではない。およそ半分の確率で起こることである。
 赤穂事件の元禄十五年十二月十四日は、グレゴリオ暦では1703年1月30日である。この年は十二月廿日(1703年2月5日)が立春だったので、 ではなかったろうか。

 二至とは何かというと、太陽が最も北または最も南に来る時である。北半球では、最も北の時が夏至で最も南の時が冬至。南半球ではその逆である。今は北半球で考えよう。
 この二至は日出や日没を観測すればわかる。 。同様の“ストーンサークル”は他にも各地で知られている。
 また中国では垂直な棒(“表”という)を立て太陽南中時の影を測った。最も長い日が冬至、最も短い日が夏至である。
 春分、秋分は夏至、冬至の真ん中である。つまり、日出・日没の方位がこの両日のちょうど真ん中になる日である。それはまた真東・真西でもある。
 注意を要するのは、これは夏至、冬至の「真ん中の日」ではないことである。これは“ケプラーの第2法則”(1609)でようやく理解されるようになったことなのだが、 、かなり古くから知られていた。
 そして四立である。これは至と分の真ん中であるが、こちらは二分のように幾何学的に「方位の真ん中」とするわけにはいかない。方位の変化は春秋分の頃には早く冬至夏至の頃は遅いからである。こちらは「至と分の真ん中の日」で決めたと思われる。ともかくそれはケルトでも中国でも同様に知られていたのである。

 既に述べたように、二至とは太陽が最も北または南に“至る時”である。最も北に至るのが北半球の夏至で、その時太陽は北緯23.5°の“北回帰線”の真上にある。これを「赤緯23.5°にある」と言う。最も南に至る北半球の冬至には南緯23.5°の“南回帰線”の真上で、これは赤緯-23.5°である。春分と秋分には赤道の真上、赤緯0°である。
 太陽の赤緯がδの時の太陽の南中高度を求めてみよう。無論それは各地点の緯度φによる。その地点の真上が赤緯φなので、南中時の太陽は真上からφ−δ、地平面からは90°−(φ−δ)の高さにある。
 京都や古代中国の都・洛陽はどちらも北緯35°付近である。この緯度では高度角hは、
 夏至:h=90°−(35°−23.5°)=78.5°
 冬至:h=90°−(35°+23.5°)=31.5°


太陽南中高度角hと棒の影(冬至の場合)
 高さHの棒(“表”という)の影の長さLは、
  。この場合、

一寸千里の説
 前漢時代の『淮南子』では、「夏至の日の高さ1丈(10尺≒3m)の表の影の長さは南に1000里行くと1寸(≒3cm)短くなる」としている。
日夏至始出與北表參即是東與東北表等也・・・
欲知天之高樹表高一丈正南北相去千里同日度其陰北表二尺南表尺九寸是南千里陰短寸南二萬里即無影是直日下也陰二尺而得高一丈者南一高五也即置從是南至日下里數因而五之爲十萬里即天高也
 北緯35°において夏至の日の1丈の表の影は
 これは「其陰北表二尺」に一致する。そして『淮南子』では「南表尺九寸是南千里陰短寸」としているのだが、実際はどうか?緯度を0.5°小さくして34.5°とすると、h=79°なので、
 緯度1°は111kmなので、これは55.5kmである。当時の中国では
  1里=1800寸=540m
なので、これは約100里である。つまり「一寸千里」は1桁大きすぎる。
 淮南子には「地球」という概念がなく、「地平説」に立っている。そして太陽の高さを18000里としているのである。

 ところで、江戸時代の有名な数学書『塵劫記』を著した吉田光由がこの「一寸千里説」を主張していたという。それは に見られる。重遠は、初の国産暦『貞享暦』を作った二代安井算哲(後に渋川春海と改名)の弟子であるが、その重遠が春海の話として書き残しているところによれば、
 七十歳を過ぎた吉田光由が算哲の所へ来て「日本の地、北に流るること五百里」と言った。その理由は「吾少年の時、八尺の表を立て、冬至のひかげを測る。今これを測るに、前に比して五分長し。一寸千里の説をもってこれを視るに、北に流るること五百里なりと」ということである。
 淮南子では夏至の日の1丈の表なのに対して光由は冬至の日の8尺で条件が全く違う。にもかかわらず、「一寸千里の説」をもって「前に比して五分長し」から「北に流るること五百里」と結論付けているのである。算哲は“北極度数”を問う。北極星の高度角はそのまま地点の緯度である。しかし光由は知らない。算哲曰く「足下よく書を読まざるの過ちなり。国何すれぞ流移せんや。足下用ひて俄然たるなかれ」と。光由老人、けちょんけちょんである。
 同じく北緯35°の京都で8尺の表の冬至の晷は、
 つまり、0.1°(=11km)北へ移動するだけで晷は5分以上長くなる。
  。隠居して10kmほど北に住んだとすればこの程度の差になっただろう。
 一方、算哲(渋川春海)は既に“地球説”を知っており、その直径まで算出している。だからこの5分の差の理由を解説することもできたはずである。もっともこの頃は用もないのに長居をする光由老人に閉口していたようなので、そんな気にもならなかったろうか。歳はとりたくないものだ。

 夏至、冬至は太陽が最も北、南に至る時であった。一方、太陽は1年かかって星座の間を巡る。春分には現在は「うお座ω星」あたりだが、2000年以上前には「おひつじ座」の西端だった。そして1年かけて巡る星座が西洋占星術に見られる“黄道十二宮”である。この太陽の巡る道である“黄道”に、春分点を0°として地球の経度と同様の目盛を付けたものが“黄経”である。夏至の黄経は90°、秋分は180°、冬至は270°となる。ちなみに立春は冬至と春分(0°または360°)の真ん中なので315°。立夏、立秋、立冬もそれぞれその前後の至と分の真ん中として決められ、さらに二十四節気も至と立、立と分の3等分点として決められる。
 本来、至や分は太陽の南北方向の位置つまり赤緯で決められていたが、それは黄経によっても一律に決まる。その間には次の関係があるからである。
  太陽赤緯=asin(sin23.5°×sin(太陽黄経))
 ここでasin()はsinの逆関数で、上式は
  sin(太陽赤緯)=sin23.5°×sin(太陽黄経)
と同じ意味である。一見コムズカシイようだが、現在では Microsoft Excell などで容易に計算できる。そんなわけで、太陽の位置は太陽黄経で表示するのが一般的である。

 冬至の太陽黄経は270°、立春のそれは315°だから、この間に太陽は黄経45°進む。同様に夏至は90°、立秋は135°で、その間は45°である。ところが、同じ45°進む時間は3日ほども違う。
 これは“ケプラーの第2法則”のためである。まず、地球(および惑星)の公転軌道は真円ではなく「太陽を1つの焦点とする楕円」なのである(ケプラーの第1法則)。このため地球〜太陽の距離rは一定ではない。そして第2法則によると、角速度(=黄経変化の速度)ωは
となる。そして地球が太陽に最も近付くのは(近日点)冬至と小寒の間頃で、そこで最も速くなり、その反対の夏至と小暑の間で最も遅くなるのである。
 最も近付く/遠ざかるというのがどれくらいかというと、それは“離心率e”で表され、
  r=_(1−e)〜_(1+e)
 ここで_は平均距離で、そしてe≒1/60 である。したがって、
 つまり速さは1/15 違う。
 冬至〜立春、夏至〜立秋にはともに黄経が45°進むが、速さが1/15 違うとすれば所要時間も1/15 違う。一方、45°進むに要する平均時間は、
 これの1/15 は約3日で、上記の結果はたしかにケプラーの第2法則と合致する。


Mar. 2019 改訂
Dec. 2014
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Paschal Full Moon(PFM)
 復活祭の日取りは“春分の直後の満月”の後の日曜日とされるが、この満月の決め方が一様ではない。グレゴリオ暦を用いるローマ・カトリックやプロテスタントではほぼ実際の天文学上の満月と一致するが、ユリウス暦を用いる東方教会はそうではない。
 復活祭を決めるための満月は Paschal Full Moon (PFM) https://www.assa.org.au/edm#OrthCalculatorによる。これは
 19太陽年=235朔望月
という『メトーン周期』を応用したもので、現代天文学での満月のように厳密なものではない。また時差も考慮されていない。最終的には復活祭の日曜日を決定すれば良いので、満月の多少の誤差は問題とされないようである。
 18〜19世紀のPFMは次表のようである。PFM Julian は時代によって変化しない。ただし、その日付はユリウス暦なので、グレゴリオ暦とはこの時代12日の差がある。
 1875(明治8)年のPFMは、グレゴリオ暦の諸会派では3月21日だったが、ユリウス暦のハリストス正教会では(グレゴリオ暦)4月24日となった。

Paschal Full Moon(PFM)
year%19 は year÷19 の剰余
M:March, A:April

「おらんだ正月」とグレゴリオ暦
 江戸時代、蘭学者達は「 (新元会)」というのに参集したという。主催者は大槻玄沢で、寛政六年より天保八年までに44回開催された。第1回は寛政六年閏十一月十一日で、この日はグレゴリオ暦1795年1月1日(これを1795/1/1Gと表記する。以下同)に当たる。まさに「おらんだ正月」西洋の年明けの日だったのである。参会者には前野良沢、杉田伯元(玄白の養子)、司馬江漢、大黒屋光太夫らの名が見える。光太夫は伊勢の船頭でアリューシャンへ漂流した後、ロシアのエカチェリナ女帝にも謁見した人で、こちらはユリウス暦を体験したわけだが、やはりこのグレゴリオ暦正月に参加しているのである。
 ところで、第1回新元会から19年目の文化十年にも、 やはり閏十一月十一日に新元会が開催された。19年目にまた閏十一月があったというのは“メトーン周期”から納得できることであるが、面白いことに今回は閏十一月十一日が1814/1/2G、つまり第1回とはグレゴリオ暦日付が1日異なる。
 そもそも「閏十一月」とは何か?中国暦(日本暦を含む)などの太陰太陽暦には時々「閏月」がある。それは通常19年間に7回置かれる。つまり19年は
  19×12+7=235箇月
となる。陰暦の1箇月である朔望月つまり朔(新月)から望(満月)を経て次の朔までは平均29.53日なので、
一方、
なので、両者がほぼ一致する。このことは古くから世界各地で知られていた。これをギリシャでは「メトーン周期」、中国では19年を「1章」とするため「章法」と呼ばれた。さらに中国暦では「中気」という概念がある。まず冬至が「十一月中気」で、この日は必ず十一月である。そしてそこから2つ目の二十四節気である「大寒」が「十二月中気」でこちらは必ず十二月なのであるが、時々、冬至より後に始まって大寒より前に終わる月が現れる。つまりこれは中気を含まないわけで、このような月が閏月なのであるが、十一月の後に入るので「閏十一月」とされる。
 上記から、閏十一月は冬至の直後に始まることがわかる。冬至〜大寒は太陽年の1/12で、
 陰暦の1箇月は29日または30日なので、それが冬至と大寒の間に収まるのは冬至の直後に始まる場合に限られるのである。そしてそれは冬至が十一月末頃ということでもある。太陽暦の冬至が太陰十一月の末になるのだから、メトーン周期からこれは19年ごとに起こるはずであるが、寛政六年と文化十年はまさにその一例である。
 寛政六年は閏十一月十一日が1795/1/1Gだったということは、閏十一月朔日ついたちは1794/12/22G、冬至はその直前だったはずである。実際この年の冬至は12/21Gだった。一方、文化十年の閏十一月十一日は1813/1/2Gだったということは朔日は1812/12/23G、冬至は12/22Gだったのである。
 このように、19年目に現れた同じ閏十一月でも、その朔日のグレゴリオ暦日は1日違う。無論、メトーン周期は厳密に成り立つものではないから、このようなことも時々起こるのであるが、この例の場合は別の理由がある。それはグレゴリオ暦の置潤法の特殊性である。すなわち、グレゴリオ暦では原則、西暦年が4の倍数の場合を閏年(2月を29日まで)とするが、1800年は閏年ではなかったのである。表 は寛政六〜文化十年の間の毎年の冬至のグレゴリオ暦日であるが、寛政十一(1799)年まではすべて12/21Gなのに対し、それ以降はほとんどが12/22Gとなっている。もしも1800年が閏だったら、寛政十二年以降も12/21Gになったはずである。そしてその場合は、文化十年も閏十一月十一日が1814/1/1Gとなる。


日本暦
(十一月)
グレゴリオ暦

  という。寛政六年、文化十年の閏十一月十一日はいずれも冬至(を1日目として)から12日目である。そしてグレゴリオ暦で1800年が閏だったらいずれも1/1Gとなるところだった。しかし寛政十二(1800)年以降は、むしろ「冬至から11日目」とすべきだったのである。
 このことは、この時代の蘭学者達がグレゴリオ暦の正確な置潤規則を周知していなかった可能性を示唆するだろう。それはまた、明治改暦時に
 一年三百六十五日十二ヶ月ニ分チ
とだけ記されていることにも関連するのかもしれない。実際それは、 のである。


二十四節気
(日付は2019〜2020年)
節気節/中日付太陽黄経(°)太陽赤緯(°)
節気節/中日付太陽黄経(°)太陽赤緯(°)