千葉卓三郎の棄教と復活祭
石原幸男

 新井勝紘『五日市憲法』(岩波新書)は、明治期の民間憲法のうちでも最も著名なものの草案の発見者による著であるが、その中で同憲法起草者である千葉卓三郎についても紙数を費やしている。中で本稿では卓三郎とキリスト教(ハリストス正教)の関係と、それが明治改暦の時期と重なることに注目し考察を加えたものである。
 千葉卓三郎は明治の初めハリストス正教に入信したが、ほどなくそこから離れている。筆者はその理由に復活祭の日程があるものと考える。そしてそれはユリウス暦とグレゴリオ暦の違いに起因するのだが、そのことは明治の改暦によって明らかになったのである。

千葉卓三郎の履歴書
 千葉卓三郎の履歴書が発見されている。それは1881(明治十四)年のもので、「其四月下旬ヨリ武州西多摩郡五日市ニ滞在シ、今日ニ至ル」で終わっているが、以下の論旨に関連する部分の抜粋と、その時代の歴史事項を併記してみる。

千葉卓三郎履歴歴史事項
1863〜1868大槻磐渓ニ従ヒ業ヲ受ケ
1868明治元年
1870〜1871櫻井恭伯ニ就キ浄土真宗ヲ聞キ
1871〜1876東京駿河台ニ於テ、魯人ニコライに就キテギリシャ教ヲ学ビ、兼テ魯学ヲ修メ
1873明治改暦
1873キリスト教解禁
1876復活祭がキリスト教宗派で食い違う
1876〜1877仏人ウヰグローニ就キカトリック教ヲ学ビ
1877福田理軒ニ就キ洋算相修メ
1877〜1879米人マグレーニ就キ、プロテスタントノ中ナル、イピスコプァール・メソ・ヂストヲ相学ビ


千葉卓三郎とハリストス正教
「同四年六月ヨリ同八年四月マデ、東京駿河台ニ於テ、魯人ニコライに就キテギリシャ教ヲ学ビ、兼テ魯学ヲ修メ」
 この件に関しては、JR御茶ノ水駅前の東京復活大聖堂教会(通称「ニコライ堂」)に残されていた資料でウラが取れている。それによれば、
「千葉卓三郎なる者、率先して教に進み、一千八百七十三年に上京して、掌院ニコライ師より領洗し、ペトルといへり」
ということで、上京が「同(明治)四年」ではなく六(1873)年という違いはあるが、ほぼ裏付けられている。もっとも上京前の明治四年頃から郷里で活動していたのかもしれない。
 また新井氏の調査によると、1873年4月には千葉と思われる「ニコライ生」らが多数の漢訳聖書を購入したことが「耶蘇教書肆日誌」にあるという。4月といえば復活祭イースターがある。それは磔刑に処されたイエスが復活した日で、それによって彼は救世主キリストとなったとされる。だからキリスト教では復活祭は最も重要な日であることを確認しておきたい。それはクリスマスを凌ぐものである。実際、ニコライ堂の正式名は『東京復活大聖堂教会』である。そしておそらく復活祭と前後して多くの人が受洗したのが大量の漢訳聖書購入の背景ではなかろうか。
 ところで、この1873(明治六)年というのは「明治改暦」の年である。すなわち政府は明治五年十二月二日の翌日を六年一月一日とした。したがって明治五年十二月は二日で終わってしまった。
 しかし、この「洋暦」は卓三郎の居たハリストス正教の暦とは違っていた。この時代西欧諸国がすべてグレゴリオ暦を採用していたわけではない。ハリストス正教のロシアはユリウス暦だった。これは当時(19世紀)でグレゴリオ暦と12日違う。ロシアがグレゴリオ暦に移行したのは革命後のソヴィエト連邦になってからであり、しかもハリストス正教(ロシア正教)を含む東方教会は現在でも宗教行事はユリウス暦に拠っている。
 つまり、改暦前の日本では和暦、グレゴリオ暦、ユリウス暦が併存していたのだが、改暦後は和暦はグレゴリオ暦と同じになりユリウス暦だけがそれと異なることになった。改暦がなければグレゴリオ暦1873年1月1日は和暦では前年の12月3日、ユリウス暦では12月20日だったはずが和暦はグレゴリオ暦と統合し、ひとりハリストス正教会のみがそれと異なることになった。そして千葉卓三郎はその異なる側に入信していた。その暦に違和感を抱いたことは想像に難くない。
 しかも、これが重要な意味を持つのは外ならぬ復活祭なのである。実際、グレゴリオ暦とユリウス暦とでは復活祭の日取りが異なることがしばしば起こる。

復活祭と春分
 復活祭の日取りは「春分の後の最初の満月のそのまた後の最初の日曜日」とされている。つまり春分を知ることが第一なわけだが、これがユリウス暦とグレゴリオ暦で違うのである。
 3世紀頃、春分はユリウス暦3月21日であった。このことから 。ところが、このユリウス暦の1年(365.25日)は実際よりやや長いのである。このため実際の(天文学上の)春分は3月21日より少しずつ早くなり、16世紀には3月11日になっていた。
 このことは数世紀前から問題となっていたが、1582年、ローマ教皇グレゴリウス]V世により改暦が行われた。それは同年の10月4日の翌日を10月15日とすることによって10日のずれをリセットし、さらに4年に一度だった閏年を400年に3回省いた。具体的には西暦年が100で割り切れて、400で割り切れない年は閏としない。つまり1600年は閏だが1700,1800,1900年は閏としない、2000年はまた閏だが2100,2200,2300年は閏としない、というものである。これがグレゴリオ暦(1年の長さは365.2425日)で、これによって春分は3月21日からほとんど動かなくなった。この経緯からわかるように、グレゴリオ改暦は春分を3月21日に固定し復活祭の日取りをニケーア公会議の時代に戻すことを目的としていた。
 このグレゴリオ暦は、まずはローマ・カトリック諸国で採用されたが、やや遅れてプロテスタント諸国にも広まった。しかし東方教会諸国は20世紀までユリウス暦を使用していた。そして宗教上は頑なに を春分として復活祭を決めた。したがって、グレゴリオ暦3月21日と4月2日の間に満月があると、宗派によって復活祭が1箇月ほども違ってしまう。
 1875年にはそれが起きた。満月が3月21日(日)だったため、カトリックやプロテスタントでは復活祭は次の日曜日の3月28日だったが、東方教会では次の満月の4月24日(土)の後の4月25日となった。
 そしてこの1875(明治8)年4月、千葉卓三郎の履歴書には「同八年四月マデ」と書かれており、卓三郎はハリストス正教会を離れている。

 筆者は、この復活祭の日取りの違いが原因ではないかと考える。なにしろキリスト教では最も重要な日なのに、それが宗派によって食い違うのだから。
 もっとも、この時期の卓三郎が他宗派の復活祭まで知っていたかどうかはわからない。ただ、明治改暦と同じ1873年にキリスト教は解禁されているので、他宗派の情報が入ってきたとしても不思議はない。
 また、春分は和暦でもわかる。春分は仏事の彼岸会であるばかりでなく、 では作暦のための重要な要素である。それは「二月中気」とされ、この日が必ず二月に含まれるように暦が作られる。このため「春分二月中気」は和暦には必ず記載されていた。たとえば明治六年和暦(改暦のためこれは使われなかったのだが)では、
 二月廿二かのとひつじ(辛未)春分二月中
とされているが、これはグレゴリオ暦1873年3月20日である。
 しかもこの時代の『天保暦』は既に西洋天文学を全面的に採用していたので、その春分はグレゴリオ暦のそれとほとんど違わない。そのことは知識層には知られていたはずである。

暦法春分満月(PFM)復活祭
ユリウス暦4月2日4月24日4月25日
グレゴリオ暦3月21日3月21日3月28日
和暦3月21日(3月23日) 
* 和暦は日本時間

 復活祭を決めるに際して明らかに異なる春分を用いる宗派に卓三郎は疑念を抱いた。そうなると、「神官・僧侶の妄説を排して、ハリストス教の真理を伝へ」たほどにのめり込んでいただけに、離れるのも早かったろう。実際ニコライの許に居たのは「同八年四月マデ」となっている。

仏教と春分
 もっとも、このような疑念は同じ頃ハリストス正教に入信した日本人全般に及んでもおかしくない。しかし、卓三郎以外に正教を離れた者は知られていない。むしろ「友人たちからの諫めの手紙」が残っているというくらいである。なにか卓三郎に固有の事情があったのだろうか?
 ひとつ考えられるのは「(明治三年)十二月ヨリ同四年四月マデ、櫻井恭伯ニ就キ浄土真宗ヲ聞キ」である。この宗派は彼岸会を「夕日が西方浄土の方角に沈む日」として重視する。すなわち『観無量寿経』に説かれる「日想観」である。そして夕日が真西に沈むのは無論春分(および秋分)である。
 いや、それ以前に釈迦入滅の「涅槃会」は(中国暦)二月十五日であるが、それは春分に最も近い満月の日である。こちらは春分より前のこともあるが、復活祭と通ずるものがある。
 このように仏教でもキリスト教でも春分が重視されることを卓三郎は知っていた。しかしその春分をハリストス正教会だけが別の日とする、そのことが疑念を益々高めたであろうことは想像に難くない。

大槻玄沢と『おらんだ正月』
 履歴書には「大槻磐渓ニ従ヒ業ヲ受ケ」とあるが、この磐渓の父は蘭学者大槻玄沢である。 。その始まりは寛政六年閏十一月十一日で、これはグレゴリオ暦1795年1月1日にあたる。つまり玄沢はグレゴリオ暦を明確に意識していた。そしておらんだ正月はその後数十年続いたので、息子の磐渓も知っていたはずである。
 
福田理軒
 その後、1877年には「福田理軒ニ就キ洋算相修メ」とある。 とされるが、Wikipedia によると、福田理軒は
 「1842年には土御門家に仕え」
とある。土御門家とは、江戸時代の初めまで朝廷で暦を担当していた家である。渋川春海が『貞享暦』(1685)を作ってからは幕府天文方が主導することとなったが、 作暦の実権を奪回しようとした。最終的には洋暦(グレゴリオ暦)が採用されたためこれは叶わなかったわけだが、ともかく和暦に関しては力があったのである。
。天保改暦直前の福田理軒の入門は似ているように見える。
 近年、 。同書はフランスの天文学者 J-J.L de Lalande による"Astronomie"のオランダ語訳からの重訳であるが、そもそもは『寛政暦』を作った高橋至時、その子息の景保、同じく子息で『天保暦』を作った渋川景佑らによって『新巧暦書』として翻訳され、これをもとに天保改暦が行われたのだが、それをさらに小出兼正、小出光教らが別途訳したものである。それの新出のものに「測量史 福田泉校」とあるという。理軒はその訳業には携わっていなかったとしても校訂に加わったもののようである。当然その内容は理解していただろう。
 天保暦はこの『新巧暦書』によって西洋天文学を本格的に採り入れた暦法である。それだから、この和暦とグレゴリオ暦では春分も当然一致するのだが、福田理軒はその事情を正確に知っていただろう。卓三郎は理軒に師事してこのことを確認したのではないか?
 和暦の本家とも言うべき土御門に仕えた後、さらに洋算や天文学も修めていた福田理軒は、春分や復活祭に関する卓三郎の疑念を解くためには最適の人物であったろう。

結び
 千葉卓三郎の履歴には一見何の脈絡もなさそうに思える事項が並んでいるが、復活祭および春分をキーワードとして考えると、かなりの部分に繋がりが見えてくることを述べてきた。要約すれば、初期に入信したハリストス正教は古いユリウス暦を使用していること、その特異性は明治の改暦によって際立ったこと、その結果として卓三郎は疑念を抱いたと考えることができる。もっともすべては情況証拠でしかないわけだが。
 「福田理軒ニ就キ・・」の前後には、グレゴリオ暦を使用するカトリックおよびプロテスタントに近付いている。そこでベーコンやモンテスキューにも触れ、五日市村との縁も生まれているわけで、もしハリストス正教を離れなかったなら民権家・千葉卓三郎は生まれなかったかもしれない。これをすべて、復活祭の日取りへの疑問から始まったとするのは単純すぎるかもしれないが、それでも一考の余地はあるのではないかと筆者は愚考するものである。


 復活祭を決めるための満月は Paschal Full Moon (PFM) https://www.assa.org.au/edm#OrthCalculatorによる。これは
 19太陽年=235朔望月
という『メトーン周期』を応用したもので、現代天文学での満月のように厳密なものではない。また時差も考慮されていない。最終的には復活祭の日曜日を決定すれば良いので、満月の多少の誤差は問題とされないようである。

M:March, A:April