<うたのある風景>
<戦後小景>
立体音楽堂
荒鷲の歌
黄色いばらは咲いたけど
赤い夕日がガードを染めて
さすらい人
けやき
ここに幸あり
名曲喫茶
按摩釣りと叩き釣り
トランス
アベック
ゴム長靴の買えない時
手袋
ひとはそれぞれに、記憶のページに忘れがたく刻印された風景時には心象
風景として----をもっていよう。そしてそれが何かある音または音楽を伴っ
て、あるいはそのような音に導かれて、ふとした時に鮮やかに顕ち現れるこ
とがあろう。
昭和三十一年のある日曜日の午前十一時前、私は手作りの二台のラジオの
ダイアルをそれぞれ、NHKの第一、第二放送に会わせていた。ラジオとは
いっても当時「ロクハン」と呼ばれていた直径十六センチのスピーカーを独
立の箱に入れたもので、その二つが部屋の両隅に置いてあった。十一時の時
報に続いてある音楽が、大仰で華やかなピアノとオーケストラによって奏せ
られた。以来忘れ得ないものとなるラフマニノフ作曲、パガニーニの主題に
よる狂詩曲である。そして同様にこれまた、それ以来親しいものとなる後藤
美代子アナウンサーの声が流れた。『NHK立体音楽堂です。これからの一
時間を、NHK第一放送と第二放送を使ってお送りする立体音楽をお楽しみ
いただきます』。
ステレオという言葉はまだ市民権を得ておらず、FM放送も始まってはい
なかった。第一と第二の各電波が左右の音楽信号をそれぞれ分担して運び、
二台の受信機がそれらを再生して、今でいうステレオ音楽としたのである。
真ん中にピアノが置かれオーケストラの各楽器群の位置がおぼろに見えるよ
うな臨場感は感激的であり何よりも驚きであった。その後数年を経ずに始ま
ったFM放送によってステレオは日常的なものになって行くが、あの時のあ
の曲はNHKFM放送の日曜日『希望音楽会』のテーマ曲として引き継がれ、
やはり後藤アナの司会で私をしばし楽しい思いに浸らせてくれた。残念なこ
とにこの番組は十年位前にその長い幕を閉じた。しかし『立体音楽堂』の風
景は『パガニーニの主題による狂詩曲』のあの美しく華やかなピアノに導か
れ、後藤美代子アナウンサーの美声を点景として私の心にいつでも呼び起こ
すことのできる原風景としてあり続けるだろう。
進化して止まないエレクトロニクスがデジタル技術やレーザーを駆使して、
どんなに透明な音を可能にし、それを私が享受したとしても、それは原風景
となるには整理されて冷たく、そのくせ何か“うさん臭さ”をまとっている。
古いものへの郷愁を良しとする心理の故ではなく、アマチュアリズムを遥か
に越えた技術に対する素朴な反感、あるいは嫉妬の故かも知れない。
『ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ・・・・』とこの一節だけが耳の底に付いて
離れない。他の部分は詞もメロディーも全く唇に浮かんで来ない。きっと覚
えなかったのだろう、いや、覚える事を拒否する何かが私の中にあったのに
違いない。
太平洋戦争の最中に歌われた軍歌の一つであるこの歌と、私は幼い時に衝
撃的な出会いをした。昭和二十年初夏----多分五月か六月だったろう、ジャ
ガイモの白い花が咲いていた----五才になったばかりの私は近所の家で遊ん
でいた。大人たちが大声で騒いでいる。外に飛び出してみると飛行機が墜落
したと言う。場所はそこから五十メートルと離れていない私の家の畑だと言
う。多分大人たちの制止があったのだろう、私は現場には行かなかった。暫
しの後一台の担架が大勢の大人たちに担がれてやってきた。近付いて来るに
つれ大声で歌う声が聞こえてくる。はっきりとした、しかし若い感じの声だ
った。『ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ・・・』。その声の主がどんな状態でど
んな表情をしていたか記憶がない。恐らく近く寄って見る事を許されなかっ
たのだろう。
墜落機のパイロットは少年練習兵で、私の町から二十キロ程北にある熊谷
の飛行場を飛び発ったが、エンジン故障のため不時着を試みて失敗したので
あった。本来は五百メートル後方の小学校の校庭に降りるべく、その上空で
バンクしたのだが、丁度体操の授業中であった生徒達が一斉に手を振って校
庭を空けてくれず果たせなかったのだと言う。再び操縦かんを引いて必死で
前方の畑を目指した機は、しかし墜落点より五十メートル手前の私の家の上
空では既にプロペラは停止しており、屋根スレスレで飛びこえたが終に力尽
きて墜落に到ったとの事であった。パイロットは大怪我をしており、病院へ
着く前に担架の上で死んでしまったと言う。あんなに大声で若鷲の歌を歌っ
ていたのに。
最近の軍用飛行機では事故の際、パイロットは脱出して助かるがコントロ
ールを失った事故機の墜落により、別の大事故となることがある。かって厚
木で起きた米軍ジェット機がそれであった。この様な事故があると必ず私は
あの少年航空兵を思い出す。手を振っている子供達を避け、眼下の人家を必
死で避け、終いに力尽きた十五、六の少年兵を。勿論当時の遅くて、翼面積
の大きな飛行機と現今のジェット機とは同じではない。しかし、パイロット
のみ助かれば良しとする安全思想には強者のおごり或いは選民思想のような
ものを感じる。とは言え、パイロットを救い且つ落下機による事故を避ける
ことは、ハード的な技術の問題であるよりもむしろ航法や、航路といったソ
フトの問題であろう。
ともあれあの歌を、というよりあの一節を聞いて以来、飛行機乗り(パイ
ロットとは言わなかった)になると言って毎日、家のあちこちに小さな飛行
機の絵を書いて遊んでいた私はその事を二度と口にしなかったそうである。
また墜落地点となった私の家の畑には、直径数メートルの穴があき油が染み
込んだため、三年位の間農作物が何も出来なかった。
その後、また三ヵ月足らずで終結した戦争の後も私はあの歌を終わり迄聴い
た記憶がない。未だに『ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ・・・』という歌い出し
の部分のみが耳の底で鳴るばかりである。
音は、勿論一般的には文字で人に伝えることはできないけれど、簡単な旋
律やリズムの音楽なら、少し訓練を経た人には伝えることができる。例えば
こんな風に。----ドレミファソラソー ファソソファミー レファファミレ
ミレー シドシラシドレー----
そしてこれらの一音々々には『きいろいバラはさいたけど、あのひのうた
はわすれられない』と添えられて。だが、ここから先へはこのオタマジャク
それに添う詞も行かない。儚く逝った恋がそうであったように。
大学の二年を終えようとする頃、私は大手町の産経ホールに一人この歌を
聴いた。ある女性に会えるかも知れない----確率的には絶望的な賭と知りな
がら----と思って出かけたコンサートだった。その日そこでは中原美佐緒の
リサイタルが行われていた。シャンソンが好きなわけでもなく、況やその歌
手のファンでもなかった。ただその女性がここに来るかも知れないという全
根拠の薄い期待だけがそうさせていた。『労音』(勤労者音楽協会という組
織が当時あって毎月コンサートの催しがもたれていた。)の今度の例会に行
こうと思ってる、とその人から以前に聞いた。労音の例会はクラシックとか
ポピュラーとかのジャンル毎に毎月コンサートを催していた。彼女が行きた
いと言っていたのがシャンソンのそれだと知っていたわけではなかった。
もし行くとすればクラシックでもジャズでもなく中原美佐緒のシャンソンだ
ろうと勝手に決めただけだった。こんな賭はパスカルでなくても馬鹿げたこ
とだ。結果は単純な確率論の通りだった。勿論、彼女に会えた筈はなかった。
彼女は中学校の同窓生で高校を終えた後、東京のどこかの会社に就職をして
いると聞いていた。男子だけの高校生活を過ごして女性の顔をまともに見る
ことさえできなかった私を、一年前の成人式後の同窓会以来、普通の大学生
にしてあげると言ってはからかう彼女の言い方の中に、好意を感じとって来
た。彼女の気持ちを確かめるなどということは恐ろしくてできなかった。一
方的な恋情だったのだろう。しかしあれは恋だったのだろうか。『恋愛は性
欲の詩的表現だ』という龍之介のアフォリズムを、彼女の前でまるで自分の
言葉のようにうそぶくばかりで、詩的でないそれの露になることをいつも恐
れていた。あの当時の学生風表現で言えば、『上半身と下半身の矛盾を止揚
できなかった』恋情は所詮実ることのない恋の『萌芽』でしかなかった。春
先、ふとした街角の花屋に黄色いバラの花を見つける。『黄色いバラは咲い
たけど、あの日の歌は忘れられない---』、ああ!
また古い話です。あの時本当に有楽町駅のガードが夕日に赤く染まってい
ました。あれは私が中学二年生の秋、日比谷公園で行われた『全国中学生工
作展』にその年大学を卒業したばかりの理科の担任教師に連れられて行った
時の事でした。昭和二十九年のことです。ラジオ受信機の五球スーパー程度
の電気回路は虚で書くことの出来たラジオ少年であった私に、全国の同年令
の子供達のレベルを見せてやろうと言うのが、その先生の意図だったと思い
ます。しかし四十年以上経た今、展覧会にどんな作品が出品されていたのか
は何も覚えておりません。ただ展覧会を見ての帰り、有楽町駅の付近で聞い
たこの歌だけは鮮やかに記憶の糸を辿ることが出来るのです。『赤い夕日が
ガードを染めてビルの向こうに沈む頃・・・』----この歌を知らない人には
続くフレーズを想像することはできないでしょう。恋人たちのデートの待ち
合わせの情景を思わせる歌い出しはこう続くのです、『町にゃネオンの花が
咲く、おいら貧しい靴磨き、ああ夜になっても帰れない』。「ガード下の靴
磨き」と題されたこの歌は宮城まり子に歌われてヒットしていました。あの
時確かに有楽町駅のガード下には靴磨きの少年達が何人か蹲っていました。
そごう百貨店はまだ無く、戦後の無秩序なマーケット街が残っていた有楽町
界隈はこの歌の通りでした。田舎の戦火の及ばなかった町で、両親が居り、
小遣いを溜めれば電気工作の部品を買う事の出来た少年の心に、この光景は
何かを残しました。前年まで続いた朝鮮戦争による特需景気が日本の経済復
興を早めつつあったとは言え、誰もが一様に貧しかったので、貧しさそのも
のが私を感じ易くしたとは思いません。恐らく保護者を失ったであろう同じ
年頃の靴磨きの少年達の姿に、強く心を動かされ、その年頃の少年に顕著な
正義感で彼らの健気さと哀れさを感じ取ったのだと思います。
豊かさと引き換えに現今の社会が失ったものは、貧しさや弱さへの共在感
をベースに持つ優しさのように思われます。『にんじんの種吹き運ぶ風にし
て孤児と夕陽とわれをつなげり』。これは寺山修二の短歌の一つですが、彼
が宮城まり子の先の歌を意識したか否かはともかく、浮浪児への共感が表明
されています。
貧しさを克服する事は主義の如何を問わずあらゆる社会の目標には違いな
いのですが、一方、あり余る社会は、厚着をした皮膚が外界に対する反応を
鈍くするように、その外部や内部の貧しさや弱さに対する感受性を弱めがち
になるのだと思います。この歌を歌った当の宮城まり子が、疾うの昔に歌手
を辞めて、『ねむの木学園』というこの社会の弱者のための施設を自ら経営
するようになったのは、(勿論何の根拠も有りませんが)あるいはこの歌の
せいかも知れないと言うのは笑うべき想像でしょうか?
こんな事を言っている奴は所詮弱者でしかないという意見もあり得るでし
ょう。そのような意見には次の警句を送りたいと思います。『弱者には一つ
の武器がある。自らを強者と考える人達の誤りがそれだ。』(G.Bidault:
Observer,1962)
若者は時として不幸を気取る。悲劇とは言わないまでも、自分で書いたち
っぽけな台本の不幸な主人公や脇役を演じて悲壮ぶる。社会が安定を欠く時
代においては殊にそうだ。この様な若者は大抵、彼が演じているほど実際は
不幸ではない。だから真実不幸な立場にいる人達からみると笑止で鼻もちな
らない事が多い。しかし若者のこの様な性癖は、彼らが社会参加をする際の
一つの大きなモーティべーションとなっているとも言えよう。蓋し、若者に
とって正義とは不幸や貧しさをもたらすものへの憤りを第一義とするだろう
から。いやここは第一義としたと過去形にすべきかも知れない。現今の若者
にとって、不幸や貧困は厭うべき恰好悪さでこそあれ、正義の対象などでは
ないかも知れないのだから。私が二十代の初めであった頃は、しかし確かに、
若者らしさは幸福よりも寧ろ不幸を捜す者において著しかったように思う。
私もそんな若者の一人であったのだろうか。"Dort,wo du nicht bist, dort
ist das Gluck !"(『おまえの居ない所、そこに幸いがある』)。
シューベルトの"Der Wanderer"(さすらい人)という歌曲のこの最後のフ
レーズを、その頃私は好んで口ずさんだ。日本中を騒然とさせた安保反対運
動----殆ど訳も分からずにその中に自分を放り込んで来た----が結局は挫折
して、学友たちのある者はいよいよ先鋭化し、しかし殆どは何事も無かった
様に教室に戻って行った。政治や経済について理解力も批判力も決して充分
とは言えないのに、私はかなりラジカルに運動に関わって来たので、自分の
行動を自ら論理付けたいばかりに、社会科学の本を読み漁っていた。それら
は二十才そこそこの若造にとってミイラ取りをミイラにせしめるに充分な代
物だった。客観的にみれば私は不幸ではなかったろうが、社会に不幸をもた
らす根源を見つけた、と信じた若者は、まるで風車に挑むドンキホーテよろ
しく己を律し振る舞った。友人達はやがて遠のき、両親からは激しい叱責を
浴び、風車どころか一人の女性の心さえ微動だにさせ得ないと知らねばなら
なかった。そしてサルトルの著作の中に『自尊とは裏返した屈辱だ』と言う
一文を見つけた時、私は自らを矜む力さえ失った様に思った。甚だしい挫折
感と自信喪失に陥って、(馬鹿馬鹿しい限りだが)主観的には私は不幸の直
中にいた。教室を出て近くの林をさまよいながら、口許を襲ってくるのは決
まって、"Dort, wo du nicht bist, dort ist das Gluck!" の一節であった。
青春----この言葉を私は好まない、余りに通俗的で手垢にまみれている語
感が安っぽいので。しかしやがて、皆に後れる事何年かして私も、自分の資
質が所詮はこんな風に、極めて主観的で感傷的な「青春」的特性に他ならな
かったと気付いた時、私は教室に戻った。 今、これを書いている私の部屋
で、フィッシャー・ディースカウが新しく録音したCDで、"Der Wanderer"
を歌っている。四半世紀を経て、世の中は随分変わった。私も変わった----
(いや私は変わっただろうか?)----少くともこの歌が思い出となる程には。
けやき
けやきが好きだ。家から駅まで約一キロの道沿いに、五、六本のけやきが
大地より木は木、人間は人間の水汲み上げてふつふつと冬
これは歌人、馬場あき子の何年か前の年頭詠だが、冬の大けやきを見ると
天いかに地の末いかに冬けやき
−例えば冬の−
あり、通勤の毎朝それを見ながら行く。駅の改札を出て、右すぐの所にある
枝を大きく張った巨木が、ことに好もしい。この木は上りホームの先頭の位
置からも良く見えるので、大抵は早めに行って、電車を待つ間眺めている。
けやきは落葉樹なので四季それぞれの表情に富み、いつ見ても飽きない。
例えば冬。『冷ゆ』を語源とするとも言われる冬は、冷たく、寒く、もの
みな枯れて寂しいと言うのが冬の本意だと、俳句の歳時記などに書いてある
が、私はけやきを眺めてそのように感じたことはない。むしろ、葉をすべて
落として裸木となっても枝々を大きく広げたその姿は、小枝の隅々にまで神
経を行きわたらせて、凛然として力を溜めているように感じて来た。
私は、この歌ともども生命あるものの営みに心を動かされる。生きとし生け
るものが大地から汲み上げる凍ることのない水は、生命の水脈なのだと納得
する。そしてこの水脈が小枝の先一本一本にまでかよっているので、冷たい
風にも、時に襲う雪にも毅然として耐え、やがて来る生命の発露たる春を待
つ事ができるのだとも。
古代の日本人にとっては、大きな木、とりわけ葉の落ちない常緑樹----楠、
樫、椿などは生命を保ち続けるものとして、崇められたと言う。けやきは落
葉樹ではあるが、豊かな枝々を大きく広げ、葉のある時季には黒々と密集し
てその偉を天に張るので、この木も生命力の象徴として眺められたらしい。
実際、けやきの別名は『つき槻)』だが、これに神聖、清浄を意味する『い
(斎)』という接頭辞を冠してしばしば、『いつき(斎槻)』とよばれ、信
仰の対象とされたことが万葉集などから分かると言う。尤も、このような宗
教民俗学的な知識がけやきを好ましいものとしているわけでは勿論ない。
ただ、古代の人々が感じたと同じようなものを、多少なりとも私も感じてい
るというに過ぎない。そして更に想像の広がる時、冬空に大きく広ごる大け
やきは、時には血管の露な心臓のようであり、時には地から天に伸びる巨大
神経網のようでもあり、また時には、天からの信号を待ち設ける受信網のよ
うでもある。
「嵐も吹けば風も吹く、女の道よ何故険し・・・」。高校一年生の秋だっ
た。学校の文化祭の準備のため講堂に合宿していた私の耳に、自ら持ち込んだ
ラジオから流れて来た歌だった。私は物理部に属していたが、物理とは言って
も、当時の高校生の関心はアマチュア無線と、流行の兆しを見せ初めていた「
ハイファイ」が主だった。ハイファイとは、High Fidelity (高忠実度)のこ
とで、できるだけ原音に近い再生音を出す音響装置を意味していた。ラジオや、
アンプの回路から始まって、使用する部品やスピーカーユニットを選び、それ
らを自分で組み立てた。アマチュア無線も似たようなもので、高校生では、2
級無線局の免許をとった後、無線用の送信機と受信機、或いはアンテナを自作
した。級友の一人は、アマチュア局を自宅で運営していたので、その装置一式
を持ちこんでいたし、私は少ない小遣いを貯めて作った、ハイファイラジオを
持ちこんだ。FM放送はまだ試験放送も始まっておらず、ステレオ放送もNH
Kの第一と第二放送が別々に送信する左右の音楽信号を、2台の受信機で受信
するというものだった。私の受信機と先輩の受信機とで、このステレオ放送を
受信し、立体音楽なるものを、文化祭の観客に聞かせる企だった。一年生から
三年生までの部員全員が講堂で合宿したある一夜夜のことだった。私が持ち込
んだラジオと先輩が持ち込んだラジオとを聴きながら、ハイファイ回路につい
ての議論をしていた。その時、ラジオから流れてきたのがこの曲だった。
クラシックを好んでいた私だったが、一遍聴いただけで覚えてしまった。冒
頭の歌詞は「君を頼りに私は生きる、ここに幸あり青い空」と続いた。
このような歌詞の曲が多くの人々の心を捉えた時代からほぼ半世紀が過ぎた。
スポーツや芸術に、そしてビジネス或いは政治に自らを恃む女性が陸続と輩出
する現今、この歌のような生き方を「ここに幸あり」と感じる女性は少ないだ
ろう。いや当時でさえ、これは寧ろ男の主観的願望に過ぎなかったのかも知れ
ない。ナツメロという範疇でさえ滅多に聴かれなくなったのも故なしとしない。
何時だったか、NHKテレビ日曜夜の音楽番組の中で、渋谷の某喫茶店が紹介
されたことがあった。所謂、名曲喫茶でクラシック音楽を聴かせる喫茶店だ。戦
後から昭和30年代の末頃まで、音質の良いレコード再生装置を家庭に有してい
る者はそう多くはなかった。音楽好きな学生やサラリーマンがコーヒーを飲みな
がら、静かに音楽を聴くことのできるこの種の店が東京はもちろん、地方の大き
な町にはあった。常連になるとコーヒー一杯で半日はおろか、一日中を読書や書
き物に過ごすこともできた。面白いのは客が自分の聴きたい曲のレコードをリク
エストできることだった。渋谷のその店も、無論その当時からあったもので、他
の同種の喫茶店が殆ど閉店してしまった今でも、昔のままにやっているという珍
しい店だった。店の看板はもとより、造作、什器、備品、再生装置に至るまで昔
のままに、歳をとった経営者夫妻が店を続けているという。テレビ画面は、店の
奥の高い位置にデンと据え置かれた大きなスピーカーや、D社製と思われるレコ
ードプレイヤーコンソールや、年期の入った増幅器などを映し出して行き、歳と
ったマスターの手元の古そうなコーヒーカップとスプーンを暫く映し続けた。
40年ほど昔、学生だった私には行きつけの喫茶店が幾つかあった。その一つ
が新宿駅中央口を出て数100メートル、追分交差点の手前の名曲喫茶『らんぶ
る』だった。大学受験のため埼玉から上京して入試の終わった日の夕刻、何の目
的だったか忘れたが、途中乗換駅の新宿で下車した。当時、駅ビルはまだ無かっ
たし、中央口を出た辺りはネオンサインも少なく寂しかった。薄暮の新宿の街は
田舎者の私にとって不安で、わずかに駅の周辺を歩いたに過ぎなかった。一浪中
の一時期、東京の予備校に通いはしたが、新宿を歩いたことはなかった。キョロ
キョロしながら歩くうちに『名曲喫茶らんぶる』の看板が目に入った。それまで
喫茶店に入ったことはなかったので少し臆したが、名曲なる語はクラシック音楽
好きには抗しかねた。ドアを押して入ると聴こえてきたのはブラームスのバイオ
リン協奏曲だった。入口右壁際のガラスで仕切られた小屋の中では、コンソール
のターンテーブル上でLPが廻り、赤く点った真空管と黒く重厚な出力トランスを
乗せたアンプが如何にもハイファイ装置然としていた。またガラス窓には、演奏
中のレコードのジャケットが客に見えるように立て架けられていた。音楽好きで
あると同時に、当時言う処のハイファイマニアであった私には興味津々、垂涎の
装置と言えた。入って少し進んで左に曲がると、前方に暗い部屋があり、その奥
に大きな箱のスピーカーが見えた。
初めて入った喫茶店だったが、大きなスピーカーに釣られるように私は、薄暗い
この奥の部屋に席をとった。青地に白い鳩がデザインされたピースの箱を空けて
銀紙を破り、覚えたての煙草を一本取り出して、灰皿と共に置いてある店のマッ
チで火をつけた。これが私にとっての名曲喫茶事始めであった。
大学に入った私はその後屡々この店の客となり、ウエイトレスの何人かや、レ
コードをかけて簡単な解説をアナウンスするレコード係の女性と顔見知りとなっ
た。常連客の一人に東大大学院の学生がいたが、彼とも口をきく仲になった。あ
る時など私は午前中から夜まで、ここに居座ってレポートを書いていたことがあ
った。昼食時に、本を机に残したまま顔馴染みのウエイトレスに、昼飯を食べて
来ると告げて店を出た。戻って来ると机上に置いた本が無くなっていたが、やや
あって先程のウエイトレスが『大事なご本だと思ってお預かりしていました』と
その本を持って来てくれた。午前の入りしなと午後にコーヒーを注文しただけで、
夕食前までそのままネバっていたのに、厭な顔ひとつもされなかったのだから、
世の中がのんびりしていたのだろう。
このような名曲喫茶の大方は、その後のバブル経済期に存続が許されなくなっ
て姿を消した。或いは名だけは残しているが、営業方針を変えて客の回転の速い
店になった。近頃は東京の街を歩いて疲れても、落ち着いて一休みできる場所が
なくなったのが寂しい。