『按摩釣りと叩き釣り』

 終戦後暫く、昭和三十年頃まで川や沼の水はきれいだった。埼玉県中央部に荒川
の一支流で、入間川に注ぐ都幾川(ときがわ)と呼ばれる川がある。奥武蔵、都幾
川村を源流とし、小川町と嵐山町とを流れて来た槻川と東松山市の西端で合流して
都幾川となるが、同市内を流れ下って後、坂戸市手前で越辺川(おっぺがわ)と合
流、やがて川越市北縁で入間川に注いでいる。この都幾川は、東松山市内で堤防間
が約100m、水流は通常時で幅20〜30mであるが、底が砂利であるため水が
良く澄み、遡上する鮎も多く、ハヤ、その他多くの魚が群れていた。
 小学校、中学校の時代を昭和三十年迄の十年の間に送った私たちは、夏休みにな
ると、近所の同年台の連中と一緒に、しばしばこの川に水泳に、魚釣りにと出かけ
た。釣り道具として携えて行くのは、釣針一つを付けた1〜2mのテグス一本だけ
で、釣竿などは持って行かなかった。竿は川辺に生えている篠竹を肥後守小刀で切
り取って、枝を落としただけの簡単なものでよかった。この簡易釣竿の先端に、釣
針つきのテグスを結わい付ければ、仕掛けは完了であった。この仕掛けを手に、膝
程の深さまで流れに入り、水底の石を拾い上げて、餌となるべき川虫を見つけそれ
を針につける。最良の餌虫は、径1mm程の小砂利を固めて作った径3mm長さ
1cm位で袋状の巣に入っている虫、多分トビケラの幼虫であった。二番目の良餌
は、大きさ3〜5mmの黒い虫であったが、あれは何の幼虫だったのだろう。トン
ボの幼虫、やごも時には用いたが、これは余り良い餌ではなかった。釣場は流れの
早い瀬が良かった。餌を付けた釣糸を水流に乗せて流すためである。両脚を踏ん張
った姿勢で流れの中に立ち、中腰の姿勢の片手に竿を持って、手元だけを残して竿
を水中に入れる。釣糸先端の川虫を水流に乗って流し、糸がピンと張ったら直ちに、
竿を水中にしたまま手前に引く。この動作を何回か繰り返すわけだが、この間に瀬
を遡上するハヤが、テグス先端の餌を見つけて口に入れると、竿を引く手に大きな
震えがブルブルと伝わって来るので、かかった事がはっきり判る。そこで強く引き
上げて釣り上げるという、真に簡単な方法である。こんな安易な仕掛けで、10〜
20cmのハヤが何尾でも釣れた。
 浮きを用いず、手に伝わって来る感触だけ、目を全く用いない方法で、魚のかか
った事を判断するので、按摩なる呼び名がついたものだろうが、なかなかに巧い命
名ではないか、と感心する。
 流れに逆らって釣糸先端の魚を引くため、水流の抵抗が大きく、この手に伝わる
震えは、数センチの小さなハヤの場合でさえ、とても大きい。だから、20cmも
ある大物がかかった時の感触は凄いもので、釣り上げた時に勢い良く跳ねる銀色の
魚姿とともに忘れ難い。
 子供の事だから、釣った魚を入れる魚籠などは持っていない。釣ったハヤは大抵、
篠竹の枝に口から鰓に貫き通して、持ち帰った。暑い中を裸でぶら下げて来た魚は
傷みが速く、また腹を割いて腸を出すことも面倒だったので、飼っている鶏や猫の
餌にした。

 昭和30年台中期以降は、日本経済の高度成長期に入り、何処の河川でも護岸工
事、河川改修の名の下に土堤がコンクリート堤に変わって行った。同時に河川周辺
の田畑で使う農薬や、豊かになって行く生活の排水が河川に流れ込み、水質汚染が
進んだ。都幾川も例外ではなく、水量減少と水質汚染は避け難く、魚が減ってしま
った。近頃は按摩釣りなどを楽しむ子供達を見かけたこともない。

 もう一つ、ハヤを釣る面白いやり方があった。都幾川べり生まれの私の父が得意
としていた『叩き』という方法で、餌を食わせて釣るのでなく、撒き餌に寄って来
た魚を、小さい針で引っかけるもので、下記のような仕掛けを用いた。
 2〜3mmの返しのない鈎針の中間に、赤や黄色の細い糸を巻きつけた径1mm
程の玉をつけ、それを長さ1〜2mの細いテグスの先に結わえ付ける。竿は極めて
よく撓る全長1m程の数本繋ぎを用いる。漁法はこんな具合だった。
夜の未だ完全に明けきらない早朝、川の浅瀬に、粉末にした蛹の撒き餌をする。
暫くすると、大小のハヤが寄って来て、互いにぶつかり合う程に群れながら、撒い
た蛹粉を争って食い始める。釣り人は自分の影を水面に映さないように、河原に這
い蹲うか、極めて低い姿勢で屈む。手にした竿をサイドスローの様に振って糸を繰
り出し、ハヤの群れる水面に針を叩きつけ、直ちに竿を返して鈎針で魚を引っかけ
る。魚は釣り人の後方の河原に飛ばされるが、河原に落下寸前に竿を止めると、針
には返しがないので、自然に針が外れて魚だけが落ちる。再び竿を振って糸を繰り
出し、以下同様にする。釣り終わった後で、後方の河原に散らばったハヤを魚籠に
拾い集めればよい。
 この方法で、一時間程の間に父は、50尾はおろか時に200尾に及ぶハヤを釣
り上げた。尤もこの方法で釣れるハヤは10cm以下の小さなものが多く、15
cmもあるのは稀だった。

 食料、特に蛋白質とカルシュームが不足であった終戦後暫くの間、父はこうして
釣って来た小魚を、幼少の息子と娘達に与えた。出勤前の早朝に、自転車で生まれ
在所の都幾川へ行き、釣って帰った小魚の腹を割き腸を除去して、唐揚に出来る状
態にしておいてから、出勤した事が度々あった。
 成る程父は釣りが好きで名手でもあった。しかし、このような早朝の一仕事は、
好きで出来る事ではなかったに違いない。私が大学生になった頃、父はこの釣りを
私に伝授しようとしたが、その頃にはもう魚数が相当減少していた上に、私自身釣
りに余り熱心ではなかったので、結局私はそれを収得できなかった。卒寿を越えて
今も父は健在だが、もう釣りに行く体力を残していない。

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『トランス』

 小学校4年生になった頃、近所に間口2間程の小さな子供用科学部品を商う店
ができた。模型の電気機関車、飛行機、電気モーター、鉱石ラジオ、その他の組
立セットを始めとして、それらの部品やエナメル銅線を商っていた。店番は目鼻
立ちのはっきりした顔に化粧を施した、当時の田舎町では余り見られない類の女
性だった。私はその店に屡々近づき、店頭の品々を飽きずに眺めていたが、出来
上がった模型を買えるだけの小遣いなど貰える筈もなかった。
乾電池で回る小さなモーターを作ったのがその頃で、電気の模型に普通以上の
興味を持ち始めたいた。拾って来たトタン板や空缶のブリキ板から鋏を使って、
2極の回転子と界磁用の鉄心をそれぞれ何枚か切り出した。各鉄心の形は、科学
雑誌にでも掲載されていたのだろうが、詳しくは覚えていない。それらに捲くエ
ナメル銅線は、先の店で買って来た。それ位の小遣いは母親から貰えたのだろう。
 整流子は、毛筆用の細筆の軸を短く切って用い、それにエナメルを剥がした銅
線を縦に木綿糸で縛り付けて作った。モーターのシャフトは模型飛行機の翼用に
作られた竹ひごを用い、シャフトの支えはブリキかトタンで作った。
 この簡単なモーターでも、電池を繋げばとヨタヨタではあったが回った。しか
し2極モーターは力が無く、機械的負荷を回転させる動力には物足りなかった。
そこで同じ方法で3極のモーターの製作を試みたが、回転子鉄心と整流子の工作
が難しく、回転するものは作れなかった。3極モーターの模型は、両親に強請っ
て組立セットを買って貰った。
 このモーターを速く回転させるには、単一乾電池を何本か直列に接続して電圧
を高くしなければならなかった。また当時のマンガン電池は容量が小さかったの
で、短時間しかもたなかった。
 その頃、隣家に、工業高校を卒業してどこかの会社に勤め始め、電気の事に詳
しいお兄さんがいた。私は10歳も年長のそのお兄さんを屡々訪ねて、教えて貰
っていた。電池の代わりにトランスというものがあり、それを使えばモーターを
長く回す事ができるばかりか、電圧も加減できることを知った。トランスの構造
を教えて貰い、自分で工作できるかどうかの相談もした。彼は、廃品として捨て
たトランスの鉄心を工場から貰い受けて来て、私に呉れた。恐らくトランスの原
理や構造について、彼に教えて貰ったのだろうが、記憶がはっきりしない。兎も
角、一次巻線と二次巻線が必要なこと、入力電圧と出力電圧の比は、一次と二次
の巻線回数比となる事、などを私は知っていた。
 この巻線に用いるべきエナメル銅線は、トランスを作る目的を父に話して、先
述の店で買って貰った事を覚えている。尤も父はトランスの原理や構造を知って
いた訳ではなく、息子の熱心さに負けたのだったろう。
 こうして私はトランスなる物を作り上げた。きちんと動作するかどうか確かめ
る必要があった。既に工作済みのモーターを二次巻線に接続し、一次巻線に電灯
線の差込口に挿入すべき黒く丸いプラグを接続した。
 この準備が出来た時は、夕刻になっていて、両親と弟妹は銭湯に行き、私だけ
が家に残っていた。銭湯よりも、トランスの工作とそのテストに集中したかった
のだろう。
 さて、いよいよテストの段階になった。電灯線を二股ソケットで2分配し、そ
の一つが鴨居にかけられており、そこにはラジオから出た線が射し込まれていた。
私は卓袱台を持ち出してそれに乗り、まずラジオの電源ラインを引き抜いた。続
トランスの一次巻線を繋いだプラグを、差し込んだ。
 その途端、バチッという音と共に手元から青白い閃光が走り、電気が消えてし
まった。同時にどこからか焦げるような臭いがして来た。一瞬何が起こったのか、
私は分からなかった。トランスとモーターはと見てみると、二つとも黒焦げにな
っており、嫌な臭いを発していた。私は、暫く呆然としたが、ショートという状
況を既に知っていたらしく、開閉器を空けてヒューズが飛んでいることを見つけ た。
 トランスの初歩的な原理は隣家のお兄さんに教えて貰って、出力電圧と巻線回
数比との関係は理解したものの、電流とインピーダンスの概念、或いは交流と直
流の相違が全く理解の外にあり、それが失敗の原因であった事は明らかだった。

 銭湯から戻った父は大いに驚き、叱りもしたが、怪我がなく、火災にもならな
かった事に何よりも安心した。
 この後、父は私の無謀な電気工作を心配してか、トランスがそれ程欲しいなら
と、出力電圧タップのある小さな模型用変圧器を、先の店で購入して呉れた。そ
れとセレン整流器、ロータリー式切替スイッチ等を組み合わせて、電圧可変、交
直両用の模型用電源を、私は何かの雑誌で勉強して組み立てたのだが、それが何
時の事で、どんな雑誌でっあったのか記憶がない。
 成人して大学で電気を専門にし、電気に関わる仕事に就くようになる私の原点
は、この辺りにあったのであろう。

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『アベック』

 戦後4〜5年経つと、田舎町でも占領軍兵士は余り珍しくなくなり、アメリカ
文化の幾つかが町中で見聞きされるようになった。ダンスホールというものが二
つ開店して、若い人達が訪れていた。級友の一人の家がそのダンスホールを経営
していたので、誰々がダンスをしていたなどという話が、子供の間でも噂になっ
た。その噂の一人が、私達のクラスの若い担任女教師だった。当時は教員が不足
していたので、新制の高校を卒業したばかりで教員になった人が多く、彼女もそ
の一人だった。18〜19歳の先生は生徒にとって、時に兄か姉のような感じの
存在であった。
 小学校4年生というと、ませた生徒は男女の関係に敏感になって来る。当時は
遊び仲間は必ずしも同学齢の者とは限らず、近所に住む年齢差5〜6歳のガキ供
が、一緒につるんで遊ぶことも珍しいことではなかった。中学生がガキ大将にな
っている集団では、彼は禄に知りもしない性的な話を、年下の連中に得意になっ
てして見せたり、仲間を引き連れて若い男女をからかったりした。時には、草に
寝転んだ恋人らしい二人の近くへ潜んで、彼らを盗み見たりした。性的な関心は
とりわけ、この様なガキ仲間の遊びの中で、芽生えるものだろう。
 そんな少年達にとってダンスは、何か秘密めいた男女の行為に通うものを感じ
させたのだろう。自分達の担任教師のダンスホール通いは、格好の話題を供した
と言えた。
 私はダンスホールの建物さえ見たことはなく、無論、ダンスをしている先生の
姿を目にした訳ではなかった。しかし、級友達の話題に無関心だった訳ではなく、
ダンスとかアベックとかいう言葉に、想像をかき立てられていた。アベックの正
確な意味を知っているわけは無かったが、男女が二人で歩くこと、位には何とな
く理解していた。
 小学校4年の三学期が終わって、通知票を先生から渡された日、私はどうして、
「アベックって何?」と先生に尋ねたのだろう。級友たちとの話の中で、アベッ
クの意味についての議論でもあったのだろうか。おぼろげな記憶ながら、先生に
質問した際には、何か決然とした思いがあったように覚えている。通知票を手に
した後の帰り際に、先生をわざわざ呼び止めて、私はこの事を質したのだ。「二
人で一緒にいることよ」との答えに私は満足せず、敢然として、「嘘だ、男と女
が二人で歩くことだ」と反論した。先生がそれにどう答えたのか、或いは何も答
えなかったのか、全く記憶がない。
 私がませていたのかどうか分からないが、この頃から後、私は体育の時間に女
の子と手を繋いだり、腕を組んだりすることが、嫌で堪らなかった。恥ずかしい
という感情だったように憶えている。運動会で演じるダンスの時などは仕方なく、
指だけを出して握らせた。

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『ゴム長靴の買えない時』

 昭和20年代前半、私が小学校に入学した頃は、雨の日には裸足で通学する生
徒が大勢いた。足駄という歯の少し高い下駄を履いて来る者もいたが、低学年で
は少数だった。雨傘はと言えば、誰もが竹骨に油紙を貼った番傘の、それも破れ
かかったのをさしていた。朝、学校に着くと教室に入る前に泥だらけの足を井戸
のある洗い場で洗った。雪の降った朝の通学は流石に裸足というわけには行かな
かったが、ゴム長を履いて来る者は、昭和20年代の終わり頃でさえ、50人の
クラスで2〜3人であった。
 私が小学校5年生の冬、大雪の降ったことがあった。ゴム長を持っていない私
は高下駄、それも母の赤い鼻緒のそれを履いて学校へ行った。歯の薄い高下駄は、
雨ならまだしも、雪道では2枚の歯の間に雪が詰まり、団子状に固まってまこと
に歩き難い。家から普通なら5分程の学校だったが、この高下駄故に校門の手前
十数メートルの所で立ち往生してしまった。高下駄の歯に詰まった雪を除かなけ
れば動けないのだった。歯の間に詰まった雪を取り除きたくても、番傘をさした
まま、片足で立つ事など到底できはしない。私はどうにも仕方なく、高下駄を脱
ぎ、片手にぶら下げて裸足で歩いて行った。
 その姿を、その学校の教員をしていた私の父が、教室の中から見ていたのだそ
うだ。この雪の中を鼻緒の赤い高下駄を履いた男の生徒が来る。どこの子か知ら
ぬが、よく女物の高下駄などを履いたものだ。ゴム長が無いので仕方ないのだろ
うが、それにしても可愛そうに随分歩き難そうだ、と思いつつ暫く眺めていたと
いう。近づいて来れば、何と自分の息子だった、という次第で、あの時は涙が出
たと後になって話してくれた。

  地球温暖化などの起こり得ない日本であった故か、気候変動の低温周期であっ
たのか、この時代は雪が多かった。
 翌年6年生の時にも何度か大雪が降った。昼休みに、クラスの男生徒が全員で、
雪合戦をした。ゴム長を履いているのは2〜3人だったので、殆どの者は合戦の
途中から裸足になって雪上を走り回った。追いかけるにせよ、逃げるにせよ足駄
や高下駄では速く走れないからだ。私もその一人であった。雪の上を裸足で歩く
のは、初めはそれは冷たい。しかし何分か走り回っているうちに、足の感覚が全
く失われてしまって、冷たく感じなくなる。この雪合戦では私を含む数名が、何
故か他のクラスメートたちの標的にされ、雪玉を何度も一斉にぶつけられた。避
けようと必死で校庭を逃げ回ったのだが、とうとう校庭から追い出され、更に追
いかけられて、最後は学校から1km程の鉄道駅の待合室に逃げ込んだ。追っ手
はここで諦めて解散したのだが、我々が逃げ込んだ待合室で、面白いものに出く
わした。雪を避けるために待合室へ飛び込んで来た数羽の雀が、窓ガラスで三方
を閉じられた室を飛び回っていたが、透明な窓ガラスが見えなかったらしく、勢
いよくそれに激突して落下する光景だった。私たちは落武者であることを忘れ、
落下して死んだか、瀕死の状態の雀を、まるで戦利品のごとく教室に持ち帰った。
 ところが、クラスメート達は、持ち帰った雀とその話に感心するどころか、お
前らは逃げた卑怯者だから放課後に制裁を加える、と宣まったのだ。我々に対し、
彼ら一人につき100発の雪玉をぶつけるという。放課後、この制裁は実際に行
われたが、一人につき100発という事はなく、またクラスメート全員が制裁に
加わったわけでもなかった。もし宣告通りなら、20名が100発づつだから、
2000発の雪玉を投げつけられる事になり、これは酷すぎると気が付いたのだ
ろう。それでも私は間違いなく合計100発以上はぶつけられた。両手で防いだ
が防ぎ切れず、顔や首、耳の一部に青痣を生じた。帰宅して母に見咎められたが、
雪合戦で雪玉が当たっただけで大したことない、と言い逃れた。
 この事は、翌朝までには担任教師が知るところとなったので、制裁に加わった
者達は大目玉を喰らい、我々に謝罪する事で一件落着した。この後、何故我々数
名が、雪合戦で追われる羽目になったのかが分かったのだが、それは、我々が教
師におべっかを使うが故に、その覚えが目出度いのが気にいらない、というもの
だった。無論、私にはそのような謂われは全く心外であった。現今なら、さしず
め虐めだろうし、不登校の生徒が出たかも知れない事態だろう。親達が大騒ぎを
したということもなかった。

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『手袋』

 風邪が引き金になって、漸く克服できた様に見えた小児喘息を呼び戻してしま
ったのかも知れない。小学校3年生の冬、数日間学校を休んだ事があった。この
間、私は入浴しなかった。と言うより、正確に言えば銭湯に行けなかった。
当時の町場では、家風呂のある家庭は少なかったので、毎日入浴できないのは珍
しい事ではなかったが、それでも数日以上、10日前後も風呂を浴びないのは異
常であった。
 どうやら健康を取り戻した私が登校した時、私の両手は垢で黒く汚れていたば
かりか、酷い皹となっていた。温湯で石鹸を付けて洗いたくても、皹に石鹸が沁
みて痛むために、できなかった。私はその手を級友達の目に曝すことを恥じ、か
つ恐れたので、黒い布製の手袋をはめ、授業中も脱がずにいた。背の低かった私
は教室の最前列席だったので、教卓の先生から良く見えた。鉛筆を持つ手の黒い
手袋は直ぐに目に付いただろう。先生は、私の手袋を訝り、外すよう命じた。私
は垢だらけ皹だらけの手が恥ずかしい、とは答えることができなかった。何と答
えたか正確に覚えてはいないが、恐らく素手で鉛筆を握れない様な怪我をしてい
る、とでも言ったのだろう。先生は当然ながら私の答えを納得しなかった。先生
にすれば、手袋をしたまま授業を受ける生徒を、そのままにしておく事はできな
かったに違いないのだが、どうしても手袋を取らない私を扱い兼ねた様だった。
未だ二十歳に達して居なかったであろう若い女教師は、しかしそれ以上の糾問は
せず、無理矢理、手袋を取らせることもしなかった。クラスの者達がどう感じた
かは、分からない。今ならきっと虐められるに十分の状況だったろう。
 あれから半世紀、「あかぎれ」も「ひび」も、今では俳句の歳時記に載ってい
るばかりで、殆ど死語に等しくなった。風呂の無い家庭も殆どなくなった。無論
よいことだが、清潔好きも行き過ぎると妙な事になる。朝のシャンプーをせずに
登校する中学生はなく、抗菌処理をしない筆記用具は売れなくなったという。汚
いこと、臭いことが虐めの大きな理由だと言われる。何かの理由で一時的にそう
なる者がいるかも知れないが、本当に汚かったり臭かったりする子供など居りは
しないだろう。
 それなのに、高校生達が電車の床や道路に直に尻を着けてしゃがんだり、下着
を換えない女子生徒がいたり、とはどうしたわけだろう。絶滅したかと思われた
頭虱さへ、最近再び、数を増やし始めたとの新聞記事も目にした。衣食にしろ、
清潔感にしろ、「過猶不及」と嘯いてばかりはいられない。尤も虱の増加は、主
に保育園や幼稚園における事態らしく、必ずしも不潔が原因ではないようではあ
る。
 虱といえば、嘗て教室で、頭からDDTを浴びせられた事を直ちに思い出すの
だが、この万能殺虫剤のDDTが、害虫と同時に人間自体の健康をも滅ぼし、地
球規模の環境汚染に繋がるものだとは誰も考えなかった。何と言っても、DDT
の害虫駆除能力は抜群だった。この殺虫作用を発見したP・ミュラーはノーベル
医学・生理学賞を与えらてもいる。レイチェル・カーソンが『沈黙の春』によっ
てDDTの危険性を告発するには、これより10年が必要で、昭和37年(19
62年)迄待たねばならなかった。

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