1998/9/10
自分の事で精一杯


 不安な気持ちは拭えなかった。
 楽しもうと思う気持ちばかりが先行し、そう思えば思うほどますます不安が募るばかりだった。何故こんな気持ちになるのだろう。出発前夜の気分の高まりが嘘のようだ。どうにもやり切れない気持ちのまま、再び北へ向けてバイクを走らせる。
 空は快晴だった。走り出してしまえば、いくらか気も紛れるのだが、これでは本末転倒だ。気を紛らわすためにバイクで旅立った訳ではないのだ。「さすらう」等と言う言葉に酔っていた自分が恥ずかしかった。自ら進んで孤独を選択したはずなのに、今はその選択に疑問を感じ始めている。「負け犬」と言う言葉が、頭の中でせせら笑うようにぐるぐると渦巻いていた。
 ツーリングに出れば、それが一人であろうと二人であろうと、純粋に楽しかった。移りゆく景色も、道も、風も、全てをむき出しの体で感じることのできるこの乗り物が、たまらなく好きだった。その気持ちは、常に帰る場所があるという安心感に裏打ちされていたのだ、と言うことに初めて気が付いた。国道六号線を北に向かいながら、前を走る車の影に隠れるように、小さくなって走り続けた。

 いわきまで走り、そこから国道四九号線へ入る。半月前に友人達と走った道を、今度は逆走している。同じ道の筈なのに、反対側から走るだけで随分と印象が違う。木々のトンネルを抜ける長いストレートの終わりでバックミラーに写ったバイクを見たとき、それが友であることを願っていた。
 荷物を満載しているせいで切り返しが少し重く感じられたが、コーナーをクリアすることに集中しているうちに、いつの間にかただ純粋に、バイクを走らせることに夢中になっていた。さらにスピードを上げ、コーナーに進入していく。バンクセンサーがアスファルトに接地し、満載の荷物による遠心力の増大によって、リアタイアが、わずかにスライドし始める。
 ブラインド気味の左コーナーを抜けた途端、センターラインをはみ出して走ってきた巨大なトラックが目の前に立ちはだかった。驚いた表情のトラックの運転手と目が会った瞬間、心臓は鷲掴みにされたかのように凍り付き、手足の筋肉は石のように強ばり、無意識のうちに、やがて訪れるであろうその瞬間に備えていた。
 が、間一髪、トラックとの衝突は避けることができた。トラックの運転手が咄嗟に反対側へハンドルを切ったらしく、木の枝をなぎ倒しながら道路脇に突っ込んでいく様が、バックミラーに写った。道の端にバイクを停めて振り返ると、林の中へ頭を半分突っ込んだトラックがバックしているところだった。やがて完全に林の中から脱出したそのトラックは、けたたましい轟音と共に走り去ってしまった。  ヘルメットとグローブを脱ぎ捨て、その場にへたりこんでしまった。煙草に火を点けようとするのだが、手が震えてうまく点けられない。今までにも何度か危ない目には会っていた。これが初めてではなかったが、これほど恐怖を感じたことはなかった。
 やがて、無性に可笑しくなり、目に涙を浮かべながら一人で笑った。命拾いしたという安堵感が、いつの間にか、暗く影を落としていた不安感さえも打ち消してしまっていた。  再び走り出したが、もうスピードを上げる気にはなれなかった。コーナーの手前では十分に減速し、殆どバンクさせずにクリアするように努めた。ゆっくりと走り始めた途端に、それまで望遠レンズで覗いているように見えた景色が、広角レンズのそれになって見えた。風が戻ってきた。もやもやとした、説明のしようのない心のつかえが取れて、どこまでも晴れ渡るような、そんな気持ちになっていた。

 郡山で国道四号線に入り、公衆電話を見つけ、叔母の家に電話を入れる。その日は猪苗代の辺りで泊まるつもりだったのだが、まだ夕暮れまで大分時間があったのと、なにより人恋しさに負けてしまった。電話に出た叔母に近くまで来ていることと、今晩停めて欲しい旨を告げると、吃驚したようだったが、二つ返事で快く承諾してくれた。
 夕方近く、叔母の家に到着すると、叔母は破顔で出迎えてくれた。毎年お盆には、父親の実家のある新潟に行くのが慣わしなのだが、その叔母と会うのはいつもそこでだった。実は、この家を訪ねるのはこれが初めてだった。挨拶もそこそこに家に上がり込むと、よく冷えたビールと茹でた枝豆を勧められた。突然の来訪の真意を尋ねる叔母に、会社を辞めてバイクで日本中を旅すると答えると、ちょっと困った顔をして、「理由はどうあれ、よく来たねぇ」と、微笑んだ。
 暫くすると、従姉妹や叔父が仕事から戻ってきて、突然の訪問者に驚いていた。「やっちゃん、どうしたの? 仕事は? どこへ行くの?」当然のごとくに浴びせられる質問に苦い顔をしていると、俺のかわりに叔母が事の顛末を一通り説明してくれた。叔父はひたすら「呑め」とだけ言って、ビールを手から離そうとしない。普段は気難しい叔父が、この時ばかりは、陽気に酔っぱらっていたようだった。
 風呂に入れて貰い、アイスクリームを舐めながら、叔母と従姉妹と深夜まで喋り続けた。叔父は調子に乗って飲み過ぎたようで、早々と大いびきで寝入ってしまっていた。

 蒲団に横になり、天井の木目を見つめながら、色々な事を考えていた。家族のこと。友達のこと。恋人のこと。そう言えば彼女には、この旅のことで喧嘩してから一度も連絡していなかったことに気づいた。が、まぁ別にどうでもいいや、と思った。色々考えたところでどうにもならないことは、分かり切っていた。
 今は自分の事で精一杯なのだ。


←前のレポート →次のレポート

↑日本一周の目次

↑↑表紙