1998/9/8
一人きりの旅立ち


 朝、目が覚めると外はすっかり明るくなっていた。時計を見ると、もう昼に近い。
 だらだらと起きだし、着替える。階下に降りると、家族は皆出かけてしまったようで、ひっそりとしていた。冷蔵庫からパックの牛乳を取り出し、そのまま喉に流し込む。ひんやりと冷たい、なめらかな液体が喉を駆け下りて、胃袋に流れ込む。いつもの習慣で、台所の食卓に腰掛け、煙草に火を点ける。
 昨夜の酒が効いていた。というか抜けきっていなかった。煙草の煙が、頭の中や胃の中に広がっていく感覚が不快だった。二口、三口吸ったところで、煙草を流しに放り投げ、シャワーを浴びに行く。冷水のシャワーを頭から浴びると、少し頭がはっきりしてきた。

 昨夜は、会社の連中が送別会を開いてくれたのだった。居酒屋で始まり、カラオケに行き、行きつけのスナックで再びどんちゃん騒ぎをし、終電の時間ぎりぎりまで飲み続け、よたよたとだらしなく家に帰り着いた。誰もが口々に羨ましい、と言う。それほどまでに羨望の的となるとは、爪の先ほども考えていなかった。簡単なことなのだ。ほんの少しの勇気と、好奇心さえあれば、誰にでも実現可能なことなのだから。
 確かに、会社は辞める。この旅のために、車を売り払い、貯金の全てを使い、旅が終わった後のことなど何も考えていなかった。
「何故、日本一周しようと思ったんだ」と、社長が聞く。
「うーん、なんとなく、ですかね」と、答えた。
 バイクで日本を一周することに何かしらの意味があるわけではなかった。ただなんとなく、バイクで日本一周してみたい、と思っただけなのだ。
「オレも行ってみたい」誰かがそう言った。しかし、そう言っているうちは、本当に行きたいとは思っていないものだ。本当に行きたければ、とっくの昔にそうしているはずだ。なんやかんやと理由をつけて、勇気のない自分に言い訳をしているに過ぎない。そしてそれは、自分自身がそうだった。「行ってみたい」から「行く」になるまでに、どれほどの時間を費やしただろうか。キッカケは一冊の本との出会いだった。
「さすらう」この一言に参ってしまった。どうしたいのか自分でも解らなかったが、取り敢えず、日常というぬるま湯から出る決心はついた。
 そして、今日がその日だった。

 荷物は、一昨日のうちにまとめてあった。タンクバッグと、キャンプ用品や着替えの入った防水バッグと、テントとシュラフ。衣食住を賄う、これら全ての荷物をバイクにくくりつけてから、近所の喫茶店に昼飯を食べに行った。食事を終えて、コーヒーを飲みながら窓の外に目をやると、学校帰りの小学生達が見えた。無邪気に笑う彼等のどの顔にも、夏の名残の日焼けが残っていた。
 思い返してみると、あの頃の自分には無限の可能性が広がっていたのだ。年と共に夢と現実の境がはっきりしてきて、自分の可能性に自分自身で線を引くようになっていった。今やっとその線を越えようとしていた。いや、ひょっとしたら可能性の境界線を消し去りたかったのかも知れない。あのあどけない彼等のように。
 外へ出ると、夏はまだ終わっていなかった。強烈な陽射しが肌を射し、アスファルトからの照り返しが、まるでサウナのようだった。

 家に戻り、バイクのエンジンをかけ、煙草を吹かしながら地べたに座り込んでいるところへ、幼なじみがバイクでやってきた。
「よお」と声をかけると、そいつはバイクに跨ったままヘルメットのシールドを開き、「本当に行くのか」と聞いてきた。
「ああ、行く」
「そうか、気を付けてな」
「途中まで一緒に走ろう」
 ヘルメットを被り、グローブをつけ、バイクに跨る。静かにクラッチを繋ぎ、彼のバイクの後について北へ向かう。シールドを少しだけ開けると、木陰を通過する度に、少しだけひんやりとした空気を感じることができた。平日の昼間、比較的空いた道を、尚更ゆっくりとバイクを走らせる。急ぐことはない。時間だけは、ある。小一時間も走って国道六号線に出たところで、道の端にバイクを停めた。
「元気でな」
「おまえこそ」
 それだけ言って走り出した。バックミラーには、彼が立ちつくす姿が写っていた。そこから先は一人きりだった。

 国道六号線をひたすら北上した。今日の宿泊地はまだ決めていなかったが、おそらく大洗あたりのキャンプ場になるだろうとは思っていた。夕方の渋滞が始まろうとしている時間の国道を、荷物を満載したバイクですり抜けようという気にはならなかった。
 だんだんと夕暮れの時間が近づき、やはり大洗で泊まることに決め、国道を右折してキャンプ場を目指す。程なくキャンプ場に到着し受付へ行ってみたが、既に管理人は帰ったあとだった。キャンプ場には人影もなく、ひっそりとしている。どうせ管理人は朝まで来ないのだろう。
 炊事場のそばにバイクを停め、荷物を降ろし、テントを張る。夕食のカップ麺を作るために、EPIのガス・ストーブで沸かした湯をカップに注ぎ、出来上がるまでの時間を、膝を抱えて座り、煙草を吸って過ごした。日が暮れようとしていた。東の方の空を見上げると、その色は青から紺に変わり始めていた。不安だった。寂しかった。情けなかった。弱気になりそうな気持ちを振り払おうと、その場しのぎの満腹感のまますぐにシュラフに潜り込んだ。そうしたところで言い様のない寂寞感がこみ上げ、頭はだんだんと冴えてくる。テントの外の虫の声がやけに大きく聞こえ、まんじりともせずに一夜を過ごした。
 これが自由か。だとしたら、大変な勘違いをしていたことになる。


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