2002/8/26
ミッドナイト・ラン


 目覚めた時にはもうすでに陽は高く昇り、時計の針は中天を指し示そうとしていて、俺は交互に襲ってくる頭痛と吐き気に耐えていた。少しでも事態が改善することを期待してテントから這い出てみるが、生温い潮風が不快感を増幅したに過ぎない。
 宿酔いなど何年ぶりだろう。生来そんなに酒が強い方ではないので、自然と飲む量は限られている。嘔吐するほどの酒量でなければ、飲み過ぎという訳でもなかった。
 結局その日はそのままテントの中で寝て過ごし、腹に収めたものと言えば自動販売機で買ったコーラ一本であった。

 そのまた翌日。空腹とともに目覚める。頭はすっかりはっきりとしている。風が強く、空は晴れ渡っていた。血糖値の低下による気分の悪さを払拭するために急いで出発の準備を済ませ、バイクに跨り、暖気さえも惜しんで走り始める。
 国道七号線に戻り、コンビニを見つけて飛び込む。おにぎりを二つと麦茶をむせびながら食らい、胃に下がりきった血流の代わりに煙で頭の中を満たすべく、煙草に着火する。体中の細胞が活性し始め、熱を帯びてくる。冷たい麦茶でそれをなだめると、それが指先にまで伝わり、じわりと何かが満ちていく奇妙な感覚が脊髄を貫く。

 再び南下を続け、酒田で国道七号線から分岐して国道百十二号線へ乗り入れる。出来たばかりの庄内空港の滑走路をくぐるトンネルを抜けてしばらくすると、道は再び海沿いを走るようになる。その辺りで湯野浜温泉の看板を見つけ、一軒の観光旅館の駐車場にバイクを止めた。
 平日の昼下がり、貸し切り状態の湯船に身を横たえると後はもう、何も考えず感じず、ただひたすら時が過ぎるのを待つだけだった。
 湯煙を纏い、ロビー(と思わしき場所)の肘掛けがすり切れたソファに居住まいを落ち着けて、自動販売機の缶コーヒーを飲んでいるうち、いつの間にか浅い眠りに落ちてしまっていた。浅い眠りは現実と夢との境目を曖昧にし、その夢の場所には何もなく、けれども全てが満たされていて、闇の存在が光の所在を明らかにするように、良いことと悪いこと、出来ることと出来ないこと、義務と権利、そういった社会通念上の表裏を、やろうと思うかそうでないかに置き換えてしまうことで、俺の気持ちを曖昧なものに変えていくのだった。
 目覚めた時には、外はすでに夕暮れ時を迎えようとしていた。一瞬、このままこの旅館に留まってしまおうかと考えたが、体はバイクで走ることを欲している。夜を走るのも悪くない。そんな風に考えてエンジンに火を入れた。

 夕日を右肩の辺りに感じながら、海沿いの道を行く。国道を外れて海辺の観光道路に入ると、交通量はさらに少なくなり、再び国道七号線と合流したところで完全に陽が落ちた。
 月の無い夜だった。街灯もまばらだ。闇が濃くなり、黒い海が、ヘッドライトの光に白く立ちはだかるカードレールの向こうで舌なめずりをするように波の音を響かせている。行く先の道路の様子を伺うには、先行車のテールランプか対向車の明かりだけが頼りだったが、その明かりもぽつりぽつりと流れてくるだけになり、センターラインをなぞっている俺のバイクのライトの光が頼りなげに見えた。

 集蛾灯のようなドライブインの明かりが眩しいほどに浮かび上がり、甲高い羽音を響かせながら吸い寄せられるようにウィンカーを出し、駐車場に乗り入れる。ヘルメットとグローブをもどかしく脱いでいると、きちんとスーツを着たサラリーマンと思しき特徴のない中年の男性が話しかけてきて、ナンバーを確認しながら「ツーリングかい」と言う。ええまあそんなもんです、と答えると、苦笑いをしながら自動販売機の方へ歩いていき、缶コーヒーを手に戻ってきて、「そんなに警戒しなさんな。ほら」と手にした缶コーヒーを差し出してくる。どうも、と短く答えてその暖かい缶コーヒーを受け取り、プルタブを引いて飲み下し、ジャンパーのポケットから煙草を取り出すと、百円ライターの火が差し出されてくる。目で会釈しながら火を煙草に移し、深く吸い込んで暗い空に向かって吐き出すと、なんだか久しぶりに会話をしたのだということに思い当たった。
「わけありなのかい」と聞かれてようやく、ツーリング装備の他県ナンバーのバイクが夜中に一台きりで走っていることの不自然さに気が付いた。
「いや、もうずっと昼間ばかり走っていたんで、たまには夜も良いかなって」そう答えると、彼はただ「そうかい」とだけ返事をし、伏し目がちに自分の煙草に火を着けた。
「独りで寂しくはないのかい」彼のセリフは、雨だれのようにぽつぽつと短くとめどない。
「こうして話しかけてくれる人がたまにいるんで、割と寂しくは無いんです」
「そうか。そうだったな」
「ひょっとして、バイクに乗られるんですか」
「まあ、昔の話だ。じゃあ、気をつけて」そう言い残して彼は、自分の車へと戻っていった。
 いつか読んだハードボイルド小説の主人公のような彼のそぶりがなんだか可笑しくて、でも、例えば十年後の自分がひょっとしたらあんな風になっているのかも知れないと思い直し、その後ろ姿に軽く頭を下げ、飲み干したコーヒー缶をゴミ箱に捨て、エンジンのキーを捻った。

 小雨が降り始めた闇の中をしばらく走り、岩盤をくり抜いて作られたようなトンネルに入り、そこでバックミラーに追いすがってくる車のヘッドライトが見えた。
 バイクを左に振り、車をやり過ごす。ふと追い抜いて行く車のドライバーに目をやると、そこにはさっきの彼がいて、追い抜きざまに左手を上げ、口元だけで笑った。俺は遠ざかっていくその車にパッシングで返事をし、トンネル内のオレンジ色の明かりを反射するスピードメーターに目を落とした。
 不確かな夜の記憶が、スピードメーターの針の先で揺れていた。


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