2000/3/2
To be or Not to be


 十三湖を左手に据えた一葉の風景写真の中に入り込んでしまったかのような錯覚を覚えながら、バイクを走らせる。十三湖を過ぎてさらに南下を続けると、石器時代の遺跡で有名な亀ヶ岡を通るのだが、わざわざ立ち寄ってみようという気も起きず、結局足早に通り過ぎてしまった。今になって考えてみると、どうにも先を急ぐことばかりが頭にあって、しかも、北海道で散々走り回った後だっただけに、ちょっとやそっとの事柄では、俺をその場に立ち止まらせることは難しいようだった。
 どんな形であれ日本を一周する、という目的がある以上、まずはそのことが優先され、というよりは足枷になり、自分が何故今ここでこうして漫然とバイクを走らせているのか判らなくなる。スランプだ。何度となく襲ってくるこのスランプというヤツとだけは、どうにも縁が切れない。そしてそれは大抵、何かしらの目的を完遂した直後にやってくる。

「流離う」ことがいかに難しいか。「流離う」ことの定義も意義も見いだせないままにこの旅を始めてしまったことを、もう何度後悔したことだろう。思いのままにバイクを走らせること、思うままに時間を使うこと、そして思うままに生きること。そればかりを意識するが故にままならない日々。それはつまり、少年期のやり場のない憤りのようなもので、未だ闇の遙か向こうで明かりすら見えない未来に対する脅えと、山をひとつ越えてほっとしているところへ現れるさらなる高い山を目前にしたときの絶望感とに似ている。腹が満たされた後には、いずれ空腹がやってくるものだ。
 二十数年間の人生の中で染みついてしまった生活スタイルは、なかなか変えることが出来ない。人は誰でも楽なほうへと流されやすいものだ。そうしているうちに深い澱みへと入り込んでしまい、そうなって初めてそこから抜けだそうと喘ぎ、もがき、這い出る努力をすることを学ぶ。今まさに俺はもがき苦しみ、暗く湿った母親の子宮から這い出ようとする胎児のようだった。

 高校生の頃、哲学の授業が大嫌いだった。教師の話す全てが屁理屈のように思え、結局は誰にも正解を見いだせない事柄についての答えを、単位を取得するというただそれだけの目的のために、答案用紙に書き込まなければならないことが苦痛だった。生きることについて、または、生きていることについて悩むなんて、それほど馬鹿らしいことはないと思っていた。楽しけりゃいいじゃん。辛い思いをするなら死んだ方がましだ。どうせみんな死ぬんだ。死んだら灰になって後には何も残らないんだ。そうやって達観した気になっていた。赤面したくなるほど自惚れていた。
 だけど、右手に日本海を望み、ごつごつした岩肌に沿って曲がりくねった海岸線をバイクで走らせていたその時、俺には理由が必要だった。生きるなら生きる理由。死ぬなら死ぬだけの理由。そして今は、バイクで走る理由が欲しかった。粘着性を伴った夏の午後の空気が、開け放った窓から流れ込んでくる蒸し暑い教室の教壇で、哲学の教師が語った幾つかの難解な命題に対する回答を、今やっと考える気になっていた。

 日本海と聞いただけで、鉛色の空から雪が舞い降る中、今まさに朽ち果てんとした寂れた漁村を思い浮かべてしまうという、世俗にまみれた根拠のない既成概念に毒された俺を嘲笑うように、空は青々とどこまでも晴れ渡り、夏の名残の明るい太陽の光が降り注ぐワインディング・ロードが延々と続き、時折現れる、通り過ぎるのに一分とかからないイメージ通りの寂れた漁村を除いては、そこはまるで南の島を巡る周遊路のようだった。もっとも、南の島と聞いて頭に思い浮かべる風景すら、偏見に満ちているのだが。
 ほんのごく稀にそこを走る列車のために敷設された、錆びついたように見えるレールと何度も交差しながらさらに南下を続けるうちに、いつの間にか秋田に入っていた。国道七号線と合流するとすぐに道幅が広がるが、冬の間にそこを走る車に取り付けられたスパイク・タイアやチェーンによって深くえぐられた轍のせいで、酷く走り難い。全交通量の殆どを占める大型トラックからもうもうと吐き出される煤煙のせいで、空は濁り、シールド越しの目が痛んだ。
 ルートの選択を誤ったのは、地図を見るまでもなく明らかであったし、少しだけ内陸側に進路を取って阿仁の辺りでのんびりするつもりでもあったのに、スランプであったばかりにそうすることも出来ず、ただひたすらに前をみて突き進むだけだった。スランプから脱するには、それを全く止めてしまうか、とにかくがむしゃらにやり続けるかの二つしか方法がない。幸か不幸か、道は真っ直ぐどこまでも続いていたし、燃料は満タンだった。とにかく、バイクを停めるのが嫌でたまらなかった。空気が嫌い。道が嫌い。人が嫌い。そこを走る全ての車が嫌い。バイクが嫌い。なによりとにかく俺自身が嫌いだった。アクセルを開け続けることで、俺はそれらから一刻も早く逃げ出したかった。

 手のひらの中にすっぽりと収まりそうな秋田市街を通り過ぎると、交通量も減り、道は再び、錆びついたレールと絡み合いながら海岸線を走るようになる。耐えきれないほどの尿意に襲われてやっとバイクを停める気になり、金浦という駅のそばの公園にバイクを乗り入れた。
 用を足してトイレから出ると、ジーンと耳鳴りがして、そうしてやっと音が甦ってくる。途端に波の音が間近に聞こえ、誘われるように海辺へと歩く。キャンプ場が見え、その敷地内の東屋に腰を下ろし、煙草に火を着け、海風に吹かれていた。暫くそうやって頭の中を真っ白に塗りつぶしているうちに、何故だか無性におかしくなって、海に向かって独りでニヤついていた。俺は馬鹿だ、と。
 学習することが罪であるかのように、何度も何度も同じ過ちと後悔とを繰り返しながら、それでもなんとかここまで走ってこられたのは、全てはこのちっぽけな一台のバイクのおかげだった。この、地を駆けるための機械を、決して上手には乗りこなせていないけれども、それでも自分の内なる指針に従って進むことだけは出来る。でも、出来ることはそれだけ。今、俺に出来ることはバイクを走らせることだけ。そのバイクに荷物を積んで、寝る場所を探し、酒を呑み、飯を喰らう。誰もそれを止めようとはしないし、止めることは出来ない。そしてそれは、俺でさえもそうだ。
 馬鹿が馬鹿なりに馬鹿であることに固執しようと決心したら、もう何もかもが面倒になり、息をすることさえ煩わしくなり、しかしそれとは裏腹に体中に力が漲り、いてもたってもいられなくなり、バイクから剥ぎ取るように荷物を降ろし、キャンプをしようとする人だけでなく、もともとそうであったかのように管理人さえも居ないそのキャンプ場にテントを張り、荷物を放り込み、すぐ近くの金浦温泉の所在を地図で見つけ、タオルを一本首に巻き付けて、バイクに跨る。そしてそれから数十分後には、俺は独り、広い湯船の中で手足を思い切り伸ばしながら、「ホテル・カリフォルニア」を歌っていた。


←前のレポート →次のレポート

↑日本一周の目次

↑↑表紙