1999/4/12
太公望の憂鬱


 午前八時、カメラマン氏の出発を見送ってから朝食を簡単に済ませ、XLRの学生くんと共に金山ダムを目指して出発する。出発などと大仰に書いたが、キャンプ場からダムまではほんの五キロ程、時間にして十分足らずであった。あっと言う間にポイントに到着し、竿とリールと仕掛けを渡される。

「あ、ルアーなんだ」
「そっすよ、何か問題でも?」
「い、いやぁ、なんでもないよ」

 ルアーは、昔っから苦手なのだ。どうにも信用ならないというか胡散臭いというか、要するに釣れた試しがないのだ。ルアーでは。
 他人に何から何まで世話になっておいて今更何を言うのだ、とも思ったが、岩魚釣りと言えばやはり毛針で、と言うのが王道ではないのか。だがまぁ、フライフィッシングと言うのは一朝一夕に極めることなど出来るものではないことは、釣りキチ三平愛読者の俺であるからしてまぁ、諦めもつくというものだ。が、それならばせめて、竿は一平爺さん作の寸分の狂いもなく接合される芸術品とも言うべき継ぎ竿。ミチイトは一・五号。カミツブシにヨリモドシだけのシンプルな仕掛けに、ハリスは〇・二号。針は小さめの渓流針、カエシなし。餌はザザムシといったところか。でもって勝負の時間は、朝まずめから夕まずめの間。魚信さ〜んっ! などと叫んだり叫ばなかったり。まぁ、叫ばなかったけど。
 とにかく釣り始めた。ルアーを投げてはゆっくりとリールでライン巻き取り、また投げて巻き取る。何度やっても一向に魚がかかる気配はない。学生くんはちょっと投げては場所を移動し、あちこち動き回って忙しない。ラインを巻き取りながら水中のルアーをぼんやりと眺め、ときどき煙草に火を着けて、ビールに手を延ばす。良い天気だ。風が心地よい。これ以上、何を望むというのだろう。時間は、その湖の淵のように淀み、時計の針は、未来に抗うように遅々として進まない。ほの明るい雲の切れ目から差し込む一条の陽の光が、湖面をまるく照らす。とそこへ突然、魚が水面で跳ねた。そしてその一匹の魚は、小賢しい釣り人を嘲笑うように身をよじらせて、紺碧の湖の深淵へと消えていった。

 一向に魚信すらないのに業を煮やした学生くんが、幾寅の方へ移動しよう、と言ってきた。去年はその辺りでヒメマスを釣り上げた実績があるのだそうだ。一も二もなく同意して、竿を畳もうとリールを巻いたその瞬間、ガツンという手応えがあった。手応えがあまりにも大きかったので根がかりだろうと思ったのだが、どうやらそうではなかった。ラインが右に左に走る。相当大きな魚のようだ。慌てて竿を引き絞り、リールのストッパーをフリーにする。が、ラインは出て行く一方で、止まる気配はない。大きく一度竿を立て、その間にストッパーをロックし、再び竿を水面と平行になるように降ろす。一瞬、ラインが緊張し、乾いた音を立てて弾け切れた。切れ残ったラインが、ガイドの間をからからと音を立てながら戻ってきて、二人の釣り人は呆然とその場に立ちすくんだ。
 闘志に火が着いた学生くんは、昼頃までその場所で粘ったのだが、結局一匹も釣れずに終わった。取り敢えず幾寅へ移動することにして、途中の雑貨屋でソーセージとあんパンと牛乳を買い込み、湖を見下ろす土手の草むらに座って食べた。
 学生くんが頬を紅潮させて、釣り逃がした魚のことを、まるで自分の出来事のように話すのを聞きながら、俺は雲を眺めていた。その雲は、魚になり、あんパンになり、バイクになった。なんだか無性に可笑しくなって笑い出すと、初めは気味悪がっていた彼も、つられて笑い出した。草むらに寝ころんで大きな空を見上げた。大きく深呼吸をして目を瞑ると、途端にぐるぐると目が回って、慌てて目を開けると、空がぐるぐる回った。なんだかとても気持ちが良かった。

 たっぷりと三時間ほど昼寝をして、さっきのダムとは正反対の、湖へと流れ込む川までやってきた。バイクを降りて、その川を湖の方へ下る。ぬかるみに足を取られながら三十分ほど歩いたところで竿を出すと、いきなり魚信が来た。竿を合わせると、軽い手応えとともにラインが緊張し、竿先がしなる。慎重にリールを巻き上げ、ギィギィという鳴き声を発する、うぐいを釣り上げた。
 な〜んだうぐいかよ、と思い、リリースしようとすると、学生くんが、「ダメっす。持ち帰って焼いて食べるっす」と言う。「えええっうぐいを食べるの?」と聞くと、「釣った魚は食わなきゃダメっす」などと言う。はぁ、うぐいねぇ。んなもん泥臭くって食えねぇよ。とは思ったが、ここは彼に従うことにした。
 魚籠にそのうぐいを入れ、再び竿を振る。が、それからはさっぱりだった。学生くんはその後、やはりうぐいばかりを三匹釣り上げ、釣り人としての面目を保った。
 やがて真っ赤な夕焼け空が、俺達と川面とを赤く染め、太陽がゆっくりと西の空に沈もうとしていた。二台のバイクが、その夕日に向かって走って行った。映画のワンシーンのようなその情景に酔っていた。鉄橋を渡る電車の音が聞こえた。

 案の定、うぐいは不味かった。学生くんは、ちゃんと食べてやることがその魚の命を奪った事への罪滅ぼしになるのだ、という意味のことを繰り返し力説した。だが、そう言えば言うほど彼の言葉が白々しく聞こえた。そんなに罪悪感を感じるならば、その辺で売っている加工食品でも食べてろよ。お前はローマ法王か。生きることも死ぬことも、所詮は主観でしかないんだ。生殺与奪の権利を主張するならば、それは思い上がりというものだ。俺は、同じ罪を背負うのならば旨い方が良いと思っただけなのだ。ということを、上手く彼に伝える自信がなかったので、俺は、彼の話を黙って聞いていた。
 その夜の酒は、ほんの少し苦かった。


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