弥生都市・朝日遺跡


長年の調査によって、朝日遺跡のイメージが少しずつつかめてきています。弥生時代(約2300-1700年前)の集落といえば、「農村」、「田んぼ」、「平和」、という感覚で考えられていましたが、実はそうではなかったことが明らかになってきました。朝日遺跡もその例にもれず、「人口過密」、「物流の中心」、「戦争」、といったキーワードで表現できそうです。

朝日遺跡の最盛期は弥生時代中頃と考えられます。そのころの集落内の溝などを埋めていた土の中には、人や大型ほ乳類の糞を食べる糞虫や、ゴミムシなどの都市型昆虫、寄生虫の卵などがたくさんみつかっており、推定1000人ともいわれる人口をかかえ、環境汚染がすすんでいたことがわかります。

この集落内では、集落の外から製品を入手して、自分たちで使うだけでなく、周辺の集落にも分配していたようです。例えばアクセサリーの玉は、原石を入手して、朝日遺跡の中の工房で生産していました。玉作りといえば日本海側が中心なだけに、この地方における玉の生産、供給の中心であった、と考えられます。このようなことは、他の道具についても同じように言えそうです。
さらに、大形方形周溝墓(写真上)などの存在は集落内において特殊な階層の人物が生まれはじめたことを思わせます。逆茂木(さかもぎ、写真下は復元)などのバリケードによって守られていた、都市の中心部の姿はどのようなものだったのでしょう。今後の調査が期待されます。


参考文献 (財)愛知県埋蔵文化財センター(1995)「朝日遺跡への招待」


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