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なんばりょうすけの
おぼえがき日記 (7)


2000
[07-21] やっぱり「こころの時代」なのか

宮台氏の出ていた7月17日のサンデージャングルは友達から電話で通報があって途中から見ました。香山リカ(40歳) のメルマガ 『香山ココロ週報』 第25号によると、香山氏のコメントもあったようですね。

私の見た範囲では、宮台氏は脱社会的人格形成について以下のようなストーリーを提示していました。

A-1 「コンビニ化」「情報化」という社会条件
    ↓
A-2 浅いコミュニケーションだけで生きていける。
社会関係と自尊心が関連づけられない。
    ↓
A-3 「人と物の区別がつかない」人格が形成されがち

殺人などの犯罪を犯すのが男の子に多いことについては、

B-1 「学校化」という社会条件
    ↓
B-2 男の子は学校の勉強ができるだけで自尊心を満たすことができる。
(女の子は勉強よりも対人関係能力に対する要求が厳しい)
    ↓
(A-2 へ)

少年法の厳罰化については、

C-1 犯罪抑止効果はあるのか?
→ 性犯罪と軽犯罪には効くが、殺人には効かないという調査がある
C-2 被害者の感情回復効果はあるのか?
→ 被害者と加害者の対話という試みも支持されてきている
C-3 子供でも責任をとらせるべきなのか?
→ 責任はとらせるべきだが、それだけでは解決しない。

社会は何をすべきかについては、

D-1 これから育つ子供たちの脱社会化予防
→ 教育によって可能
D-2 すでに脱社会化してしまった人たちの犯罪予防
→ どうすればいいかよくわかっていない

という感じでした。酒鬼薔薇事件の頃の主張に比べると、犯行に踏み切らせる方向にプラスに働く要因よりも、犯罪を犯さず踏み止まろうとする力にマイナスに働く要因を重視しているようです。

普通は踏み止まろうと踏ん張る力が足りない、我慢強さが足りない、という話になりがちなところを、そもそも我慢する理由さえわからなくなっているという方向で説明するところには説得力を感じます。

でも、「社会環境が人格形成に悪影響を与え、異常人格が犯罪を引き起こす」という図式なので、結局少年犯罪は心の問題ってことになってるわけですね。だから既に異常人格になってしまった人に対しては対策が見いだせないでいます。

一度固まった人格が犯罪の原因なら、未然の矯正か隔離以外に予防策はありえないと思うけど、それって思いっ切り人権侵害ですからそうもいかないでしょう。

撒かれたタネ(異常人格)が芽(犯罪)を出したのだ。タネも問題だがタネを撒き続ける奴(人格形成に影響を与える社会環境)こそが元凶で、そいつに働き掛けることでこれ以上タネが撒かれることは防げるのだ。でも今落ちてるタネの始末はどうしようか? 。。。というわけでしょうか。

(宮台氏の例えだと火薬と引き金の例がありますが、人格は火薬と違って能動的で自律的なので例えを変えてみました。)

私はむしろ地面をどうにかできないものかと思うのです。人と物の区別がつかない人でも人を殺さずに済む社会環境は作れないものなのでしょうか。


[05-18] こころの暗黒時代

香山リカ 『「こころの時代」解体新書』 (創出版)を読みました。雑誌 『創』 で 1997 年 7 月号から 2000 年 5 月号までの連載していた時事ネタ(ワイドショーネタ?)の批評と、あとがきに椎名林檎 ネタが入っています。

ネタは 97 年の酒鬼薔薇事件から入るのですが、今読んでも十分新鮮な内容ですね。世の中あまり進歩してないせいもあるのでしょうけど。

全体を通してテーマになっているのは、世の中「こころの時代」とか言いつつもジャーナリズムの言説を見るに精神医学の真っ当な研究成果がほとんど生かされてない、精神医学の専門家は発言すべきだ、けど実際発言してみると結構難儀しますね、というような話です。

実際何か変わった事件が発生すると、コメントを求められるのは専ら精神科医や心理学者のような「こころ」の専門家。問題にされるのはとにかく心の問題。「十七歳の心の闇」とか。

一頃の宮台氏の努力の甲斐なく、社会学的な観点からのコメントが表に出ることは少ないのですが、これは単に人材不足というよりは、コメントを求める側が最初から「こころ」の話をして欲しがっているのだろうし、それはマスメディアの読者や視聴者が「こころ」の話なら納得してれるということでもあるのでしょうね。

私はこういう「こころ」がわかれば世の中がわかる、的な感覚はどうにもこわいのです。こういう感覚だと、不透明でわかりにくい今の世の中に対する不安を鎮めるためには、他人の心の中身を暴かないと気が済まないわけでしょう。盗聴法が受け入れられてしまっている背景にも、犯罪の原因は「こころ」にあるのだから、より「こころ」に近い私的通信を傍受するのは有効に決まっている、という発想があるのかも。

だとするなら香山氏がいくら事件の精神医学的に正しい解釈を開陳したところで、自分の安心のために他人の心を暴く傾向はおさまらないんじゃないかと危惧します。精神医学的のお墨付きがあるだけに暴かれる側からするといよいよ追い詰められてしまうのではないかとも思うのです。

ちなみにこの本は連休中東京に行ったときに買った三冊のうち一冊。残りの二冊は山形浩生 『新教養主義宣言』 と、苫米地英人 『洗脳原論』 。あんまり人の事は言えませんな。。。


[05-14] I LOVE YOU

連休明けに職場のメールボックスをチェックしたらラブレター であふれかえってた方もいらっしゃることと思いますが、私のところには一通も来てませんでした。なんだか悲しかったです。誰もボクのアドレスをアドレス帳に登録してなかったんだ![1]

こうやって人が自分をどう評価しているかを結構気にする私ですが、 宮台氏もご愛読らしい2 ちゃんねる に私を批判する声が!!

102 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/05/08(月) 14:10
宮台信者を分析するなら、宮台信者の筆頭・なんばりょうすけさんを忘れちゃダメだよ〜。
http://www.asahi-net.or.jp/~ix7r-nnb/Horobi/Miyadai/
どうでもいい内容の自分の日記まで宮台コンテンツとして公開して、自己顕示欲を満たすのに必死です。
宮台公式ページが公開された今、もうなんばりょうすけさんの存在価値なんてないのにね。
本人には自覚はないでしょうが、及川健二さんの操り人形なのも痛すぎ。

↓特にこの日記は大笑い
http://www.asahi-net.or.jp/~ix7r-nnb/Horobi/Miyadai/diary-5.html#9-7

2 ちゃんねる/社会学/分析!宮台信者 より。

忘れないでいてくれてありがとう! っていうか結構へこみましたわ、これ読んで。実際、世紀末的宮台掲示板(今は閉鎖)ができて以来、宮台情報サイトとしての当サイトの存在意義って急激に薄れてきたな、というのは自覚していました。その頃からタレコミメールが目に見えて激減しましたから。でもこうやって人から言われるとより一層こたえますね。実際ここって宮台をダシにして自分の日記読ませる詐欺サイト だよなぁ(自虐史観)、と思うことしきり。

でもよく考えるとこのサイトって元々冗談で始めたサイトなんですよね。著作一覧とかのコンテンツがあったせいか、「よく頑張っている」とか「心酔してて気持ち悪い」とか言われましたが。

その後宮台氏がみるみるメジャーになるにつれて情報サイトとして応援してくれる声が多くなったのでついついその気になってしまいましたが、本来はジョークサイトっぽいスタンスでやってたわけで、あまり実用性を求められても困るというのが本音。

おかげさまで忘れかけていた初心に帰ることができました。 ありがとう。あと「及川健二さんの操り人形」とか、人の病気を平気で笑うところとか、とっても 2 ちゃんねる らしくてオカしいやらムカつくやら。。。



[1]報道ではきちんと触れられていないケースが多いのですが、例の I LOVE YOU ウィルスメールは Windows 用のメーラー Outlook 及び OutlookExpress のアドレス帳をたどって他人のマシンに伝染します。その仕組み及び対策については、Outlook の製造元である Microsoft のウィルス情報のページをどうぞ。

[05-07] 狙撃

連休中バスジャック事件についてワイドショーで狙撃の話が出ていました。いわく、あの状況では狙撃以外ありえない、説得・突入なんてヌルイことでは日本はテロリストを殺さない国としてなめられてしまい危険、サミットの警備が心配だ、とのこと。

もっともな話だと思った[2]のですが、どうしても異和感がぬぐいきれません。理屈は通っているのですが、何か根本的に的外れな気もします。

そもそもあれは「テロ」だったのでしょうか? いや、テロには違いないのですが、メディアであの事件に接した多くの日本人にとってはどうだったのでしょう?

実のところは、あれはテロ事件と言うよりは少年事件として見られていたはずです。犯人は一般社会の外からやってきたテロリストではなく、社会から見れば身内であり保護育成の対象である少年であると。

つまり、あの事件はあくまで大人対子供の対決の場であって、市民対テロリストの対決ではなかったわけです。だとすると狙撃なんてもっての他です。いくらテロ事件を速やかに解決できても、「大人は子供よりエライ」ということを世間に納得させられないようでは勝負としては負けなのです。 子供相手に一撃必殺の飛び道具を使うなんて大人げないというわけです。

そういうわけで、やはり狙撃でカタをつけるというのは今の日本ではまだ無理があるのではないでしょうか。狙撃は現場の安全確保のためには最善の策かもしれませんが、社会の中での大人と子供の関係についての前提をぶち壊してしまいかねないという意味では最悪でしょう。それはいずれ壊さなくてはいけないマボロシではあるのだけど。

だいたい企業にしても官公庁にしても日本では身内の犯罪に甘いのはご存じの通り。こういう場合「世間体を気にして」などと言われますが、これは言い換えると共同体の内部矛盾が明るみに出るのを恐れて、ということでしょう。

自尊心が共同体に依存している状態では、共同体の矛盾はすなわちアイデンティティの危機なのですが、正しさの根拠も共同体の視線以外に存在しないので、矛盾していても身内同士で目をつぶれば平気。でも目をそらせないくらいあからさまな矛盾がでてきたり、身内以外の世間の皆様の視線にさらされるとさすがにまずいので、なんとかごまかそうとするわけです。

世間の大人たちは「少年法改正で子供にも厳罰を」などと言っていますが、あんなのはごまかしに過ぎません。少なくとも「責任をとらせる」ということを本気で考えているとはとても思えません。あれはむしろ、被害者に対して、加害者の保護者たる大人が、加害者の子供に罰を与えるという形で責任をとったことにしてもらおう、という話でしょう。

17 歳の少年といえば、児童ポルノ規制法では 自分で自分のハダカを見せることについてさえ責任能力がないことになっているのに、人殺しの責任はとらせようというのも無茶な話です。



[1]とはいえ、狭いバスの中で流れ弾が人質に当たらないようにするのは難しいのではないかとか、万一外したときはかえって危険なのではないかとか、いくら悪いやつだといえ 6 歳の幼児の目の前で人一人射殺しちゃっていいのかとか、いろいろ疑問もなくはない。


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