何 の た め の 人 生



一度ではない人生

歳は幾つになっても何のための人生だろうと考えるときがある。思うに任せないとき,辛く苦しいとき,すべてがむなしく思えるとき人生とは何だろう,何のための人生かと・・・。人生は一度きりですべてが終わりと思っていたが、いろいろ読んだり聴いたりするなかでそうではなさそうだ。人生は一度ですべては終わりという人もいるが、このことを研究してきた人たちは『人は何度も転生する』と結論付けている博士が大方のようである。その輪廻転生は歴史的にヒンドゥ教,仏教,キリスト教など宗教における転生信仰があったが、20世紀になって転生の考えが甦って研究され実際に転生を裏付ける証拠がいろいろ出てきたと云う。そして世界の医学者,心理学者など多くの博士の方々が転生を研究して転生は存在すると信じるようになってきた。その一つとして前世療法(催眠状態で前世の記憶を呼び戻して心と身体の病を治す ’70年代中頃)で次第に明らかになってきて居り21世紀には誰もが信じるように解き明かされていることでしょう。お釈迦様は4〜500回もの転生をしたと云々されており、一体私達凡人は今生で何回目位なのだろうか!

『人生は一度きりではない』そうであるならば今生の人生,いろいろな失敗ややり直したいことや壁にぶち当たっていることなどそんなに深刻にそれだけに悩み苦しむことはないような気がしてくる。今生の肉体は今生限りのものかもしれないが魂(心・精神・・・)は永遠だという。それでは何故転生するのか! それは肉体が成長するように魂も成長(進化)するために種々のパターンで転生を繰り返して、いろいろな制約のもとそれらの経験を通して進化して行き、遠いいつに日にか現世での到達点に達したとき転生は終わりを告げると云う。そして別の高い次元の世界で新たなスタートを切ると云う。

何故転生するのか

高次元の世界は7次元とも9次元ともあるいは36次元とも云われるが時限の捉え方や分類,表現の違いであろうか定かではない。次元の中にも幾つかの階層があり自身で進化しないと上の階層にはあがれないという進化の度合いの位置付けもあると云う。そうとすれば最高次元に到達するのには転性の回数も考えると今生の時間概念からすると気の遠くなるような年月になるが、高次元では時間というものはないのだそうである。時間と言う概念がない世界は理解しがたいが無限・永遠と考えたほうが分かりやすいようだ。その無限・永遠と考える現世での時間軸のなかで人の一生はあまりにも短い。その短い一生の時間のなかで魂の進化のために何故何度も転生しないと高次元への到達ができないのか疑問が湧いてくる。それは喩えて考えれば次ぎのようなことではないかと思う。

自転車に乗れるようになるためには実際に自分で自転車に乗る練習をしないと乗れるようにはならない。いくら重心をとるためにハンドルを切るとか,曲がるときには車体を内側に倒して遠心力に抗する必要があるとか理論や理屈を頭で理解しても実際に自転車に乗れるようになるわけではない。知識はあってもそれを実際に実行してみなければ何の役にも立たない事と同じではないか。人生もいろいろな人生を実際体験ししなければ頭では理解し分かっているつもりでも本当のところは分からない。『我が身をつねって人の傷みを知れ』と言うことわざがあるがこれも同じ事といえる。自分がつねられたこともつねってみたこともない人にはその痛みとは何かわからない。自分をつねってその痛さとはどんなものかは分かっていても他人につねられたその痛みの程度やどんな痛みかたがしたかはつねられた本人しか具体的には分からない。身をもって本当の傷さを心で知ることで本当に分かったと云うことになる。悲しさや辛さだけでなく喜怒哀楽すべてについていろいろなパターンで身体を通して心で知るには人の一生の時間では転生を繰り返すしかないからと考えられる。だから裕福な人生,貧乏な人生、健康で丈夫な人生,病弱で病気がちな人生、混合された起伏の激しい人生いろいろあると思う。そうしたいろいろなパターンの人生を繰り返し本当に心で知ることで進化し人の喜怒哀楽,万物がすべてが自分のこととして理解し受け止められるようになるまで転生するようプログラムされているのではなかろうか。プログラムは真理と理解してもよいと思う。

進化への課題は自ら選択する

転生してどのような人生を送るかは、前世を省みて自分の進化のためにどんな課題を課すか自らが決めなければならないという。そうすると現世での人生は自分で決めてきたことを歩んでいることになる。だから誰のせいでもなく自らが課した進化のための、自分で決めて生まれてきた人生である。自ら高い目標に向かって課題を課すものもあれば、比較的楽な目標の人もあれば堅実に一歩いっぽ上り詰めていく目標の人と様々なことでしょう。速く進化するもゆっくり進化するも本人次第ということになる。いずれにしてもあるレベルに達すれば自ずと高レベルに到達したいという意欲に駆られいつまでものらりくらりと転生を繰り返すようなことはないのでしょう。また課題に対する相談やアドバイスをしてくれる指導者がいるということだから。

人間関係は難しいものであるが人それぞれに人生の課題を持って、その人に相応しい人との関係の役割をはたし合っていると考えれば好きな人や好感の持てる人は別にして嫌な奴とか、憎むとか,恨むとかが余りできなくなってくる。しかしながら自ら選んだ課題を持って転生するとしても、その課題がどう云う課題なのか分からないまま人生を送らなければならない。中には自分の人生の課題はこうじゃないかと,それとなく感じる人もいるとか。魂(心・精神)の進化の課題であるなら、楽しいこともあるのだろうが,きっとこの世で私達が考えている困難なことを乗り越えなければならないのであろう。『困難は人を作り安逸は悪魔を作る』諺どうり。何か人生は困難の連続で愉しさ,喜びがないように思われてくる。・・・がしかし、困難があるから喜びがある表裏一体のことで、陰があれば陽がある陰陽の世界観に通じてくる。

転生や進化を信じようと信じまいと、こうして考えてくるとやはりその人の『こころの在り様』で人生が良くも悪しくも送れる起点にになる。たとえ人生が一度切りだったとしても転生や進化はあると信じて生きていくほうが自分のためにも人との係わり合いの中でも、人のためにも良い方向に向いて行くと信じている。

転生して何故前世の記憶がないのか

転生しても前世の記憶は通常、顕在意識下では思い出せないが潜在意識の中には記憶があると云う。深い瞑想や退行催眠で前世の記憶は甦らせることもできるが通常は無理のようである。ただ,あるきっかけで突然に前世の記憶が甦ることもあり,経験したはずのないピアノが弾けたり遠い昔の他国の言語を話したりする人がいることからすると前世での経験と考えてもおかしくはない。・・・と云うのも、その人の話す前世での家族構成やら生活の出来事など、細かいところまで調査すると一致していたというからである。だから,私達の顕在意識のほかに潜在意識として今までの転生を繰り返してきた記憶はすべてあるのかも知れません。ただ容易に私達がその記憶を呼び起こすことができないだけではなかろうか。

では何故前世の記憶が呼び戻せないのか。それは魂(心・精神)の進化のための課題を果たす妨げになるからではないかと考えられる。幾度も転生している人々がその記憶を容易に思い出せるのであれば、お互いが関係し影響し合ってきたことが今生での課題を果たすのに非常に不都合が生じることになるからである。前世であの人にはひどいことをされているから今生では仕返しをしてやろうとか,近づかずかかわりを持たないようにしようとか・・・いろいろな支障がでてくる。前世で果たしてきたいろいろな課題から一段高い課題を果たすにはやはり記憶のない白紙のスタートのほうが、また自分の課題が何であるかもわからないままのスタートのほうが真の意味での課題の取り組みができたか否か分かるのではないか・・・そんなふうに考えるからです。

不可侵の人生の経ち切り

自らが決めてきた前世での課題の重荷に耐えかねて、課題を果たせずして今生の人生を自ら経ち切る人が増加してきている。今生でのその課題が何であるか分かっていれば、もっともっと頑張れたのかもしれないが、耐えられたのかもしれないが残念ながらそれは分からないことになっている。だから苦しいときも辛いときも、そのことが自分で課してきた問題と捉えて,自分で決めたことだから耐え忍び努力し,いろいろと考え何とか乗り越えようと踏ん張ってこそ進化に繋がると思う。たとえ課題が果たせずとも転生しもう一度挑戦できるのであれば与えられた今生の天寿を全うしよう。約束した課題は果たせなくとも何度でも転生するのだから・・・しかし命ある限り挑戦し続けること、そのこと自体もまた大切なことと思う。だから自ら放棄して自ら人生を経ち切ることは侵してはならない・・・実際にそのようね状況におかれた経験はないので本当のところは分からないが、私はそう思う。