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演劇書評 21世紀からみたアングラ演劇
  −梅山いつき『アングラ演劇論』
                                                                                                     
 
               瀬戸宏

 
*国際演劇評論家協会(AICT)日本センター関西支部機関誌『Act』24号(2013.8)掲載
 
 
 
 アングラ演劇の誕生を、梅山いつき氏は『アングラ演劇論』(以下、本書と略記)冒頭で1964年東京オリンピックの前後としている。五十年近い時間がすでに経過している。
 しかし、アングラ演劇の巨大な足跡は誰もが認めるにもかかわらず、アングラ演劇に関する研究書は、今日まで書かれることが無かった。アングラ演劇を扱った書物は皆無ではないが、それらは演劇評論家の手になるか、当事者の回想であった。演劇研究者、特にアングラ演劇を研究の範囲内にしている筈の日本近現代演劇研究者は、アングラ演劇を研究の対象とすることを避けてきたのである。
 
 これは、日本近現代演劇研究の研究方法論は、アングラ演劇を扱いかねたからだと思われる。日本近現代演劇研究の主流は、戯曲研究であった。日本近現代演劇の中核をなす新劇(近代劇)は、戯曲が先にありそれを忠実に舞台で再現することを目指す演劇だからであった。その戯曲は劇作家個人の精神世界の所産とされていた。だから、戯曲を劇作家と結びつけてその内容を分析することが、演劇研究と同義になりえたのである。これは、ある時期の作品研究にはたいへん効果をあげた方法論である。現在でも、たとえば永井愛の作品などはこの方法論で分析が可能だと思われる。
 
 しかし、アングラ演劇はそうではない。アングラ演劇は戯曲が先にある演劇ではなく、アングラ演劇戯曲は新劇研究の方法論では分析が不可能だったのである。残念ながら、日本近現代演劇研究者はアングラ演劇分析の方法論を新たに模索することも行わなかった。
 
 こうしてアングラ演劇は日本演劇研究の巨大な空白として残されることになった。日本現代演劇の極めて重要な部分を避けたことが、演劇研究を生きた演劇から遠ざけ、活力を削ぐ大きな要因の一つとなったことは否めない。
 
 本書は、著者の博士論文を基礎とすることに示されるように、明確に学術論文執筆の意図を持って書かれたものである。本書にはアングラ演劇最初の研究書を完成させようとする気迫と、「アングラ演劇への愛」(岡室美奈子氏の序文)に満ちあふれている。その結果、本書は第18回AICT演劇評論賞を受賞した。候補作推薦の会員投票で、私も一票を投じたことを記憶している。
 
 しかし、私は本書から上述の美点と共に、不満をも感じた。ここでは主にその不満について述べることにしたい。一言で言えば、本書が提起しているアングラ演劇の像が意外に不鮮明だと感じられたのである。
 
 本書は唐十郎、鈴木忠志、別役実、演劇センター68/71(黒テント)の3人と1集団に一章をあてて主要部分とし、それぞれ『ジョン・シルバー』『劇的なるものをめぐってU』『正午の伝説』『翼を燃やす天使たちの舞踏』を中心に論じている。それにアングラ演劇概説の序章と著者の結論である終章が付されている。購読して最初に通読した後まず感じた不満、疑問は、なぜこの3人と1集団を選んだのか、さらに各作品を選んだのか、本書からはその理由が読み取れないことであった。確かに取り上げられている人物、集団は著名だが、選択理由が示されないので、逆に取り上げられなかった人物や集団の姿が本書からは見えてこない。1971年大学入学の私は、アングラ演劇の最盛期には出会えなかったが、その末期は多少かすっている。アングラが生まれた時代相も、記憶している。その時代相が本書から感じ取れないことにも、いぶかしさを感じた。演劇の時代相を文章の中で再現する方法の一つは、当時の報道・劇評類を多数引用することなのだが、本書にはそれもほとんどない。巻末に略年表をつけたら、少しは時代がみえイメージが明らかになるのに、とも思った。記述に論理の飛躍があるのではと思われる部分もあった。
 
 この書評を書くため本書を再読して、上述の印象はいっそう強まった。なぜ梅山氏の文章自体は平明であるのに、描かれているアングラ演劇像は不鮮明なのか。
 
 念のため、本書とほぼ同時に出た岡室美奈子・梅山いつき編『六0年代演劇再考』を読んでみた。これは2008年に開催された早大演劇博物館GCOE主催「国際研究集会・六○年代演劇再考」の記録集なのだが、こちらは講演の記録ということもあろうが、非常によくわかった。特に第V部のアングラ演劇を直接体験した批評家による部分がそうである。佐伯隆幸氏の部分は講演速記そのままのようでいささか混濁しているが、それでも本書よりはイメージが伝わった。
 
 私は、当事者がまだ活動中にもかかわらず批評家全員がアングラ演劇はすでに終了した過去形の演劇だと考えその立場から発言しているのに対して、梅山氏はそうではないらしいことに気がついた。本書主要部分のT〜W章が「観客の誰もが登場を待つ英雄である」(唐十郎)、「まだ見ぬ観客を浮かび上がらせるためのものなのである」(演劇センター68/71)とすべて現在形で終わっているのである。
 
 そして『六0年代演劇再考』収録の「驚異の書物-ー六〇年代演劇の言葉を読む」と題された梅山氏の企画説明文章の中で、梅山氏が企画意図を「六〇年代演劇を『政治の季節』といわれた時代の文脈からいったん引き離し、今日の演劇とのブリッジをかけることだった」と述べているのを読んだ時、私はなぜ本書のアングラ演劇像が私にとって不鮮明なのか、理解できたように思った。本書あとがきでも、『六0年代演劇再考』と本書は密接な関係にあることが、著者自身によって指摘されている。1981年生まれの梅山氏は、アングラ演劇を当時の「時代の文脈」から切り離し現在形の演劇として扱おうとしたのである。そうであるなら、当時の報道・劇評を多数引用し略年表を付けてほしいという初読時の私の感想は、著者の執筆意図を理解しない空望みということになる。また、梅山氏がこの立場に立っていると考えた時、本書での梅山氏の発想自体は理解できる部分が多いのである。
 
 作品をそれが創作された時代の解釈によりかからず、今日の視点から新たな読みを提出することは研究上むしろ望ましいことである。しかし、本書でそのための研究上の手続きが十分に行われているだろうか。
 
 たとえば、本書60ページから63ページにかけて、横尾忠則が状況劇場や唐十郎の著書のために作成したポスター、挿絵が転載されている。表現の中心部分はシルエットとして黒塗りされた女性の全裸像なのだが、梅山氏はそれを何の前提もなくこう評する。
「挿絵とポスターに描かれた黒塗りの女性は、小説にみるシルバーの『女性』に対する相反する感情をあらわしているとともに、彼の思いを皮肉るかのように、それが実体を伴わない女性に対する表層的な幻想に過ぎないことも暗に示しているのである」(p59 下線部引用者)
 
 女性の全裸写真など珍しくもない時代に育った梅山氏が21世紀10年代の現在このポスター類をみてこう考えることは、納得できる。しかし、これらは1960年代後半に発表されたのだ。私はこの頃地方都市在住の中学生・高校生だった。当時の性表現に対する規制は今日よりはるかに厳しく、乳房が露わな女性の写真などは公開発表できなかった。そのような「時代の文脈」の中にこのポスターを置いたとき、それがいかにエロチックで猥雑な、実体を伴った女性像だったか、理解できるのではなかろうか。このポスターを前に1人ひそかに欲情する少年が当時いたとしても、不思議ではないと思う。
 
 梅山氏が引き離した「時代の文脈」は「政治」だけではない。21世紀の思考を前世紀60年代の発表時との距離をとらぬまま直接作品の解説としている本書の記述には、一種の論理の飛躍がある。
 
 本書の副題の一つにもなっている「偽りの肉体」もそうである。梅山氏は、たとえば唐十郎『ジョン・シルバー』や『由比正雪』に本物のシルバーや正雪は現れず彼らを名乗る偽りの人物が登場することをとらえ、彼らは「自分の肉体を他者の者と騙るものたち」(p55)とし、彼らを「偽物の肉体」と呼ぶ。だが、登場人物が偽物のヒーローであることと、彼ら自身の肉体が偽物であることは、別である。どんな無名の人物でも、その一人一人がかけがえのない肉体を備えているというところから、唐十郎の演劇は出発しているのではなかったか。唐十郎だけではない。本書に登場するアングラ演劇人の誰もが、前世紀60年代に自己の舞台の人物を「偽りの肉体」という用語、概念を使って説明したことはなかった筈である。梅山氏が21世紀の視点からアングラ演劇の「偽りの肉体」を指摘することは、アングラ演劇の系譜を引く維新派の今日の舞台などを思う時、理解できなくもない。だからといって、「偽りの肉体」概念をただちに20世紀60年代のアングラ演劇と結びつけるのは、やはり論理の飛躍ではなかろうか。
 
 本書の中で、梅山氏は自己の視点あるいは方法論に必ずしも自覚的ではないと思われる。方法論の無自覚は、アングラ演劇を「時代の文脈」から引き離すという明確な研究上の立場が本書には記されておらず、別の本を読んで始めてわかることからも伺われる。作品をそれが生み出された時代の文脈から引き離して現在の立場から分析するには、まず創作時の受容・解釈の正確な理解が前提となる。次に、創作時と現在の時代状況の変化、距離感を把握することが必要になる。この作業が本書の中で不十分なため、記述の不透明さや論理の飛躍という印象を与えることになるのではなかろうか。特に演劇の場合は、作品それ自体は上演終了の瞬間に消滅し論者の頭の中で再構成するほかないため、この印象がいっそう強くなるのである。
 
 『六〇年代演劇再考』を編集し、現在もアングラ演劇の資料整備を続けているという梅山氏が、アングラ演劇創作時の受容・解釈の正確な理解の必要性を理解していないとは思えない。しかし、本書には歴史記述として疑問な部分も見受けられる。たとえば、梅山氏は唐十郎『由比正雪』の岸田戯曲賞落選を、演劇界のアングラ演劇無理解の例としてあげる。だが、岸田戯曲賞の同じ審査員が、わずか一年後には唐十郎『少女仮面』を受賞させているのだ。唐の岸田戯曲賞受賞を梅山氏は黙殺しているが、アングラ演劇受容の歴史記述としては、明らかに不当であろう。
 
 私自身は、アングラ演劇を20世紀60年代の文脈、すなわち当時の政治運動、性意識、人間関係意識などから切り離し、一種の様式美として取り出して「現代の演劇とブリッジをかける」ことが何をもたらすか、疑問を感じないでもない。しかし、これ以上は書評の域を超えるため、ここでは控えたい。
 
 本書でも触れられているように、アングラ演劇という言葉はもともと蔑称であった。今日、ポストコロニアリズム研究者に面と向かってポスコロ研究と言えば、恐らく不快感を示されるだろう。しかし、今日では本書の題名に端的に示されるように、誰もアングラ演劇という呼称を怪しまない。これはアングラ演劇と言われた当事者たちが、その芸術的達成、持続性、社会的認知度のどれをとっても浅薄な侮蔑をはね返してしまう巨大な達成を実現したからである。だが、冒頭で述べた日本近現代演劇研究の構造上の問題により、アングラ演劇は今日まで研究上の大きな空白として残されてきた。本書は、その空白を埋める端緒となる「素手で猛獣に近づく」(竹本幹夫氏の序文)知的格闘、知的試行錯誤の成果として、やはり研究史上に大きな意義を持つものである。梅山氏の今後の研究の進展が強く期待される。
 
梅山いつき『アングラ演劇論 叛乱する言葉、偽りの肉体、運動する躯』 作品社 2012年4月20日発行 2200円
                              (せと・ひろし 摂南大学 中国演劇研究/演劇評論)