范党輝『ポスト『茶館』時代の芸術観察−《茶館》再読解及びその他』(《後『茶館』時代的芸術観察−《茶館》再解読及其他》、作家出版社、201611月、以下本書と略記)は、北京人民芸術劇院編『《茶館》的舞台芸術』(1980年、新版2007年)や劉章春編『《茶館》在世界』(2010年)のような資料集を除けば、老舎『茶館』を単独で扱った研究書として最初のもののようである。著者の范党輝氏は、中国作家協会創聯部に職員として長年勤務する傍ら、中央戯劇学院で博士の学位を得た人である。現在は『中国作家』編集部所属らしい。本書は、同書の約三分の二を占める「《茶館》再読解」と、著者がこれまで執筆してきた20編の劇評類および著者が執筆した戯曲「朦朧の中で見た生活」(《朦朧中所見的生活》)が上演された際の評論家との対談からなる。ここでは、明記されていないが氏の博士論文と思われる「《茶館》再読解」を中心に紹介することにしたい。

 

 だが、その前に筆者が范党輝氏を知ったきっかけについて、記しておきたい。

 

 20004月から20013月に在外研究で北京・中央戯劇学院に滞在していた時、当時の東城区東棉花胡同の中央戯劇学院キャンパスには専家楼がなく、東教学楼の一室を専家客房とし、そこに住んでいた。その関係で、時々表演系の授業を見学する機会があった。当時の表演系学生に班賛という男子学生がおり、それほど深くではないが、知り合いになった。班賛氏は卒業後北京人民芸術劇院に採用され(当時は分配制はもう終了していた)、卒業後もその姿を舞台で観る機会があった。『茶館』にも出演していたようである。北京の通りで偶然出会ったり北京人芸関係のシンポジウムで顔を合わせたりした時、お互いに覚えていて短い会話を交わしたことがある。

 

 そのうち、班賛氏は演出も手がけるようになった。首都劇場の看板に彼の名が導演で出ている時、ちょっと驚いたのを覚えている。最初の演出作品「朦朧の中で見た生活」は見逃してしまった(後で考えれば范党輝氏の作品だった)が、首都劇場実験劇場で観た『丁西林民国喜劇三則』はなかなかよかった。班賛氏に演出家の才能があるとは知らなかったが、『丁西林民国喜劇三則』は好評でその後再演されている。20194月から私は再び中央戯劇学院に訪問学者として滞在し、班賛演出の『エクウス』(《伊?斯》)も観た。これも佳作であった。

 

 ところが、9月初めにネットニュースで班賛氏が心臓発作のため41歳で急逝したことを知った。驚いてせめて弔電を打ちたいと思い、北京人芸に連絡先を問い合わせたところ、夫人の范党輝氏の携帯を紹介された。これが、私が范党輝氏を知った最初である。当時は范党輝氏がどのような人物か、まったく知らなかった。その後、私は新型コロナ感染症の関係で20201月に帰国した。そして自室の書棚に范党輝『ポスト『茶館』時代の芸術観察−《茶館》再読解及びその他』があることを発見したのである。私は范党輝氏が老舎研究者であることも知り、同書を紹介したいと思うようになった。

 

 前置きが長くなった。本書の特徴は、「『茶館』は“演”じられる名作であり、“読”まれる名作ではない」と冒頭に記されているように、『茶館』を文学作品よりも演劇作品として捉えているところにある。そのうえで、『茶館』が生まれた年代、いわゆる“十七年”の時期の文芸作品は、「延安解放区の“労農兵”の気風が審美の目標であり、まず政治的に正確で“文芸の労農兵に奉仕する”文芸の大方向に合致する」(p6)ものであったと指摘する。そして老舎の作品でも『春華秋実』『青年突撃隊』『西望長安』『女店員』『紅大院』などはもう舞台にあげようがなく、芸術価値や文化価値にも疑問が持たれている、と指摘する。しかし老舎劇作の中で『茶館』はそうではない。

 

 ここから著者はその理由を明らかにしていく。「第一章、『茶館』誕生のメカニズム考察」(『茶館』生成機制考察)では、『茶館』は『秦氏三兄弟』という作品から偶然に生まれたこと、それには曹禺と焦菊隠が大きな役割を果たしたこと、執筆時期がちょうど百花斉放百家争鳴の時期にあたっていたこと、『茶館』の舞台化には、焦菊隠および文革後の上演の演出を担った夏淳の努力が不可欠であったことなどが指摘される。

 

 「第二章、『茶館』の審美のメカニズム考察」(『茶館』審美機制考察)では、『茶館』の主題は何かが考察される。『茶館』の主題は「三つの時代を葬る」ことだ、とよく指摘される。三つの時代とは、清朝、軍閥割拠、国民党統治末期である。しかし著者は、老舎は時代の“変遷”を描く、と言ってはいるが、“時代を葬る”という発言はしていないことが指摘される。これは重要な指摘である。では“時代を葬る”はどこから来たのか。著者は、1958年初演当時の政治意識から演出の焦菊隠が逃れられなかったと述べる。しかし焦菊隠はそれを逆手にとって、北京市民の意識を舞台に盛り込むことに成功したのである。

 

 「第三章、北京の味−『茶館』の文化形態考察」(京味児−『茶館』的文化形態考察)では、著者は「『茶館』の名作としての価値は、老舎が独創的に北京の味の文化を中国話劇に注入したことから来ている」と述べる。確かに、中国話劇では『茶館』以前に北京を舞台にした作品はあるが、北京の地方色はそれほど濃厚ではなかった。曹禺『北京人』は家庭劇で若干の固有名詞を置き換えれば他の旧都市の劇としても通用する。同じ老舎作の『龍鬚溝』も、時代の変化を描くことに重点が置かれていた。著者は第三章で、言語や風俗習慣、ユーモアと風刺など『茶館』に描かれた“北京の味文化”を細かく指摘している。著者は、「曹禺が描いたのは知識分子の精神の困難状況、老舎が描いたのは旧い北京市民のユーモアの伝統と淡泊な心情」と述べている。

 

 「第四章、『茶館』の芸術完全性の考察」(『茶館』的芸術完整性考察)では、第三章で述べられた“北京の味文化”が舞台でいかにして表現されているか、が分析されている。その第一は焦菊隠の演出であり、次に俳優の演技である。筆者はそのほかにも舞台美術や音響効果も非常に優れており、“北京の味”を形成するのに重要な役割を果たしていることを指摘している。

 

 しかしここまでなら、すでに中国のさまざまな論者によって断片的だが指摘されてきたことであった。本書が貴重であるのは、「第五章、『茶館』の歴史的影響と現実の困難状況」(『茶館』的歴史影響与現実困境)で、『茶館』が中国話劇を代表する舞台という評価をかちえた後の北京人芸の上演状況を批判的に検討していることである。

 

 著者は、于是之、英若誠ら名優が年齢の関係でいなくなった後の北京人芸は、「後継者に力が乏しく、“茶館モデル”を守っているだけに陥って抜け出せず、文学、演出、演技、舞台美術などは創造力が欠乏する困った状態に陥っている」(p133)と問題を投げかける。『茶館』上演も、第一世代の俳優の舞台に比べて質が落ちているし、『茶館』以後それを上まわる作品を作り出せてもいないのである。著者はこう述べる

80年代の北京人芸の舞台劇目を振り返ると、本当に“黄金時代”だった。『左隣右舎』『咸享酒店』から『小井胡同』『紅白喜事』『犬だんなの涅槃』『天下第一楼』など、ほとんど毎年新しい創作劇が上演され、観客の強烈な反響を受け、ポスト茶館時代の演劇の高峰段階を切り開いた。しかし今は絶えまなく重複された北京の味題材、精密で美しい舞台美術、細緻な生活のイルージョン・・・たとえチケット売り上げが極めて良かろうと、観客はいつも現在の北京人芸は何か欠けていると感じている。次々と繰り広げられる北京の味の生活絵巻は細緻になればなるほど、魂はますます薄弱になっていった。」(p146

 

 著者は、現在の北京人芸に最も必要なものは進取の精神だと述べて、「《茶館》再読解」を締めくくっている。

 

 駆け足で「《茶館》再読解」を紹介した。著者の記述は丁寧で、『茶館』の魅力の来源を解明しており、たいへん参考になる。いくつか、新しい指摘もしている。本書に対するまとまった書評は出ていないようだが、『茶館』研究に新しい段階を画する本であることは、確かであろう。

 

 同時に私は、本書に対していくつか不満をも感じた。

 第一に、中国の作家論によくあるのだが、対象に対して礼賛、絶賛ともいうべき姿勢である。著者は「『茶館』は中国話劇百年の上演史上の最高峰であり、中国百年の話劇芸術の最高の成就である」(p3)という。上演の観点から見た場合、私はこの評価自体には異議はない。しかし老舎作品の『茶館』は百年の中国話劇史の中で最高の戯曲(劇文学)とは言えない。なぜそうなのか、戯曲『茶館』の弱点をもう少し丁寧に分析しても良かったのではないか。

 

 第二に、著者は1999年から2004年まで北京人芸で上演された林兆華演出『茶館』に対して沈黙していることである。“時代を葬る”という観点が老舎にはなく、焦菊隠が1958年の時代思潮の影響でやむを得ず加えたものであるなら、林兆華演出はその観点を削りとり、老舎の“変遷”の観点を生かしたものであった。2005年に焦菊隠演出に戻されたこと自体は、焦菊隠演出の完成度とそれが歴史的に果たした役割を考えれば肯定できるものだったが、それでは林兆華演出をどう考えたらいいのか。林兆華演出は進取の精神の現れではないのか。著者の考えを聞きたかった。

 

 第三に、『茶館』が曹禺『雷雨』と異なるのは、近年まで『茶館』は基本的に北京人芸だけが上演してきたのに対して、『雷雨』は中国語圏のあらゆる地域で、さまざまな劇団で上演されてきたことである。北京人芸の夏淳演出の『雷雨』の舞台は、中国話劇史上でやはり規範的な地位にあるが、『茶館』との相違は明らかである。『茶館』は近年になって、ようやく李六乙(2017年)、孟京輝(2018年)によって新演出が試みられるようになった。本書がこれらの新演出『茶館』に触れていないのは、刊行時期からみて当然だが、そのような新演出『茶館』の可能性については想像して欲しかった。

 

 第四に、書名にもなっている“ポスト『茶館』時代”の意味が、私には不鮮明なことである。『茶館』の次の時代、ということだが、“ポスト”が『茶館』の上演形式や内容が古くなってしまったと著者は考えているのか、そうでないのか、が今一つわからないのである。

 

 第五に、関紀新らが論じている、老舎作品の持つ少数民族(満族)文学の要素にほぼ沈黙している(常四爺、松二爺が旗人であると書かれているだけ)のも、残念なことである。

 

 もちろん、これらの点を差し引いても、本書はまとまった『茶館』論として貴重であろう。今後も、舞台の老舎作品を論じる研究、評論がいくつも書かれることを期待したい。

 
 
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范党輝『ポスト『茶館』時代の芸術観察

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瀬戸宏

 

*『老舎研究会会報』第34号(2021年9月12日)掲載。

 

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