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            日本現代中国学会史概要
                                        
              *原載は『現代中国』86号(日本現代中国学会 2012年9月30日)  PDF版
                                       
 ここに掲載する日本現代中国学会史概要は、2011年度現中学会大会で「創立60周年記念展示」をおこなった際、模造紙に印刷して会場に張り出したものである。瀬戸宏が執筆した。執筆の際、60周年記念シンポジウムに出席する学会顧問などの方々に原稿を送り、ご意見をいただいた。『現代中国』86号に掲載するに当たっては、常任理事会メーリングリストで事前回覧し、掲載の承認を受けた。(瀬戸宏)
                                       
はじめに
 日本現代中国学会は1951年5月26日に創立されました。本年は創立60周年にあたります。本大会では創立60周年の機会に記念展示をおこなうことにいたしました。内容は、創刊号以来各時期の『現代中国』、ニューズレター、刊行物などの現物展示と、学会の大まかな歴史を表示化したものです。
 初期の『現代中国』は現在では閲覧が困難なものが多く、特に『現代中国学会報』(『現代中国』の前身)創刊号は、ここに展示した号が現存する唯一のものと思われます。これらの油印あるいは粗末なタイプ印刷の『現代中国』を通して、私たちは学会の先人が厳しい物質・経済条件の中で現代中国研究に傾けた学問的情熱を知ることができるでしょう。
 ささやかな展示ではありますが、この機会に日本現代中国学会の歴史を振り返り、戦後日本現代中国研究の重要な一側面に理解を深めていただければ幸いです。
 
1.現代中国学会の創立(1951)
@創立の背景
 現中学会公式HP・「日本現代中国学会の沿革と概要」は日本現代中国学会(略称:現中学会)創立の背景を次のように述べている。
「現中学会が創立された1951年は、中華人民共和国成立2年後です。現中学会成立の背景として、侵略戦争に加担した戦前の中国研究への反省と中国革命成功−中華人民共和国成立がもたらした知的刺激があげられます。」
 
A創立の経過
 1951年5月26日、社団法人中国研究所第六回総会で、中国研究所の研究機能と学会機能を分離させ研究所としての機能を明確にするために、現代中国学会の創立が決議された。
 中研所員は同時に現中学会会員であり、中研所員は現中学会会員の中から選抜委嘱される、現中学会幹事長は平野義太郎中研所長が兼任する、幹事の3分の1は中研理事から選び、3分の2は平野幹事長がすぐれた専門家に委嘱する、と明記された。この手続きに基づいて、総会終了後幹事が委嘱され、幹事会が成立した。
 創立時の名称は現代中国学会、英語名はSociety of Contemporary China Researchだった。
 学術誌として、中国研究所が編集していた『中国研究』を14号(1951年6月)から現中学会が引き継いだ。
 『現代中国』の前身である『現代中国学会報』も1951年6月10日創刊された。この時の『現代中国学会報』は今日と異なり、ニューズレター的性格のものだった。
 
B中国研究所の影響
 現中学会創立の母体となった中国研究所は1946年1月に創立された民間研究所で、中国研究所メンバーは敗戦直後の日本ジャーナリズムで中国論調をリードする活躍を示していた。中国研究所の思想動向は、現代中国学会にも直接の強い影響を与えた。学会事務所も、長い間中国研究所内に置かれていた。
 
C第1回大会
 同年10月28日には第1回学術大会が東洋文庫で開催された。テーマは「新しい中国文化の特質」「新文字教育はなぜ識字教育にきりかえられたか」「数党専制論」だった。創立当初から文化を研究対象に含んでいた。
 こうして現代中国学会の活動がスタートした。
 
2.第3回大会前後の隆盛−1950年代前半
@第3回大会(1953年10月)
 第3回大会は大阪市立大学で開催された。初の地方大会で、大会日程も二日間に拡大された。共通論題は「中国における経済建設について」「新中国創成過程における知識人の役割について」。大会終了後、一般向け大会記念講演会が大阪中之島公会堂で開催された。
 第3回大会では、幹事の互選による幹事長を廃止し、総会が選出する会長を置いた。
 
A第3回大会前後の組織・活動状況
 第3回大会前後は、初期現中学会活動の一つのピークだった。会員数も拡大し、1952年の170名から1953年には350名に拡大した。
 1953年4月には、初の地方組織として関西支部が創立された。続いて関東支部(1954)、北海道支部(1954)、中部支部(結成日時不明)、高知支部(1955?)、西日本支部(1960)が創立された。
 1953年には、一般人を対象とした「現代中国研究講座」も、作家論・政治経済・近代史の三コース・四〜六週連続でおこなわれた。
 
B『現代中国』は学術誌に
 『中国研究』は16号(1952年9月)で休刊した。『現代中国学会報』を『現代中国』と改題し、16号(1953年2月)からほぼ月刊で刊行した。ガリ版だった。『現代中国』は、第30号(1954年10月)から月刊を目標に活版化された。
 
C論文集刊行
 第3回大会終了後、大会報告を基礎にした論文集『新中国の経済と文化』が1954年11月法律文化社から刊行された。第4回大会(愛知大学)論文集も、『新中国と過渡期の総路線』(愛知大学国際問題研究所、1955年)として刊行された。現中学会編の論文集は、この二冊を最後にその後長く刊行されなかった。
 
D活発な一般社会向け提言
 当時の現中学会は、一般社会向け提言も積極的におこなった。
「これまで私たちは、かつての“支那研究”への深い反省から、正しい中国研究の確立のために努力してきた。小さな問題かも知れないが、新聞雑誌が「中国」を「中共」ということに反省をうながしたり、一部の社会科の教科書が「中国人は不潔だ」とかいたり、小学校の世界地図の中国が昔のままに中華民国、首都南京とされていることにも忠告をあたえた。なぜなら歴史の現実や社会の実際を正確に見、つたえることが大切だし、こんな初歩的なことさえ実現できなかった昔の“支那研究”が、学問としての権威や科学性をもちえなかったことを反省するからである。」(『現代中国』第26号(1954年3月)巻頭言)
 
3.試行錯誤続く年代−50年代後半から60年代前半
@50年代後半の停滞
 第三回大会前後の盛況は、長くは続かなかった。『現代中国』活版化は二号で挫折した。1956年3月に一年ぶりに32号を刊行した後、1958年7月の33号まで、二年間『現代中国』は刊行できなかった。その後、年一回、大会特集号の発行形態が74号(二〇〇〇年)まで続いた。
 50年代後半の学会活動は記録が充分に残っておらず、不明な点が多い。
 
A会長制廃止、代表幹事制へ
 1960年には、平野義太郎会長の辞任に伴い、会長制を廃止して代表幹事を置いた。中研理事、大会開催校代表者などが代表幹事を務め、実質的に一年交替だった。関西支部関係者も、一年おきに代表幹事を担当している。
 
B積極的な一般社会向け決議、声明
 学会体制が立て直された1950年代末から、一般社会向け決議、声明も、積極的におこなわれた。
日米安保条約改定反対声明(1959)
日米安保条約抗議、日中国交回復促進声明(1960)
フォード・アジア両財団資金供与問題についての決議(1962)
米原潜の寄港に反対する声明(1964)
アジア財団資金による中国研究援助第一期計画の終了にあたり、あらためてA・F財団の「援助計画」に反対する声明(1964)
本学会と中国学術機関との学術交流の促進拡大についての決議(1964)
日韓条約批准に反対する声明(1965)
ベトナム侵略戦争に反対する声明(1965)
教科書検定による中国・日中関係記述の歪曲に対する反対ならびに中国研究者の社会的責任についての声明(1965)
 
Cフォード・アジア両財団資金供与問題(1962)
 アメリカの財団であるフォード財団、アジア財団が、日本の中国研究機関・個人に巨額の研究資金提供を申し出たことから、大きな反対運動が始まった。両財団提供の資金額は総計約1億1720万円、最初の三年間は一年平均約3000万円で、1962年当時の文部省中国研究関連科学研究費総額の一五倍以上であった。
「フォード・アジア両財団の資金による中国研究は,その参加者の主観的意図の如何にかかわらず,客観的には研究上の米日台三角同盟の形成を意味し,中国敵視の体制の一環となるものである。われわれはこれら両財団の計画にたいし,またすべての同様の計画にたいしつよく反対する。」(「フォード・アジア両財団資金供与問題についての決議」 1962 第12回大会 神戸大学)
 
4.文化大革命のなかで−60年代後半から70年代後半
@文化大革命開始(1966)
 文革の影響は日本にも及び、現中学会と同傾向の交流、研究団体は次々に分裂した。現中学会にも、1968年第18回大会(同志社大学)での「大安」(出版社名)出店拒否問題などのかたちで、文革の影響が現れた。
 
A分裂しなかった現中学会
「成立時から1979年頃までの現中学会の活動は、当時の中華人民共和国の姿勢と日本の社会状況などにより、今日からみれば一定の傾向性がありました。同時に学術団体としての性格はあくまで堅持し、そのため1966年からの文化大革命の影響で現中学会と同傾向だった多くの研究・交流団体が分裂していく中で、現中学会は分裂することはありませんでした。」(「日本現代中国学会の沿革と概要」 学会HP)
 
B第19回大会(1969)
 現中学会は第19回大会で、長時間現代中国研究のあり方を討議した。
「自分の戦後の中国研究の歩みをふりかえると、中国を研究すること自体が反体制、反アメリカ占領軍的姿勢を意味した。そのなかで1951年に現代中国学会が成立した。また1962年のアジア財団・フォード財団資金問題でも、会としても反対の態度をとったし、多くの会員が反対運動をおこなった。これは学会としては稀有のことと思う。またこの学会は大学教師ばかりでなく、大学院生や高校教師も参加しており、学会の役員になることは、他の学会とちがい特権を意味してもいない。しかしこのことは逆にこの学会が革命的という自己満足におちいったことは否めないし、 また特権のない学会といっても、学会参加といえば出張旅費もでるし、主催校なら補助金も出る。だから大学体制と無関係だ、とはいいきれない面もある。」(「現代中国学会第19回全国学術大会総会討議メモ」)
 また、役員選挙規定を決定し、会員選挙の幹事20名、前項幹事推薦幹事を20名とし、それまでの役員選考委員会の幹事名簿を大会が承認する方式を改めた。
 
CNHK中国語講座問題(1970−1971)
 日中国交未回復の中で、NHKが教育テレビ中国語講座テキストの中国の地名などを架空のものに置き換えるよう講師に要求する事件が起きた。現中学会は学会全体でこの問題に取り組み、NHKと交渉を重ね、要求を撤回させた。
 
D文革後期の活動停滞
 1971年林彪事件以後活動停滞が顕著になった。1973年、1977年『現代中国』は刊行できなかった。1978年から1981年まで四年間、『現代中国』に替えて『現代中国学会会報』で代置した。学会の地方組織は、関西を除き崩壊した。
 この時期、現代中国学会教科書問題研究会編『中国の人びと−その理想とくらし』(大阪書籍 1975)が刊行された。本書は全国学校図書館協議会選定図書に選ばれた。
 
5.改革開放政策のなかで−70年代末期から80年代
@改革開放政策の開始と現中学会の変化
「その後、1972年の日中国交回復、1978年の日中平和友好条約の締結、1979年からの中国での改革開放政策の実行などによって、日中関係が拡大・安定化してゆくにつれ、中国語教育、中国研究の教育・研究者人口も拡大しました。中国の開放化と文革終結以前の中国研究に対する一定の反省から、現中学会でもより実証的な中国研究が重視されるようになりました。」(「日本現代中国学会の沿革と概要」 学会HP)
 一般社会向け声明類は、「再び教科書問題について 現代中国学会第32回全国学術大会声明」(1982)を最後にみられなくなった。(自然災害に対するものを除く)
 
A進む組織整備
 1981年には会費値上げが決定され、学会財政の好転をもたらした。
 『現代中国』は、1982年に復刊された。『現代中国学会会報』号数を『現代中国』に数え、復刊号は第56号となった。
 1987年、『現代中国』61号に「投稿要領」を掲載し、投稿論文受付を開始した。この時の投稿要領はごく簡素なものだったが、長い間全国大会報告集だった『現代中国』が、学術誌としての性格を強める端緒となった。
 
B六四天安門事件への対応
 学会はもはや社会向けアピールの類は出さなかった。第39回全国大会(1989秋、東京大学)共通論題を「改革10年−矛盾の構造」とし、政治研究・経済研究・文学研究の三方面から事件を引き起こした背景の分析・研究をおこなった。
 
C会員数の伸び
 1981年に久しぶりで作られた会員名簿では、会員数は316人だった。1989年には会員数は365人となった。
 
6.社会主義市場経済のなかで−1990年代
@加速する会員数拡大
 会員数の伸びは、1980年代を上回った。1991年に380名だった会員数は、2000年には659名へと拡大した。修士論文発表会実施(東京 1994年から)、関西部会研究会活発化、日本在住中国人研究者入会増加などが原因と考えられる。
 
A学会名称など変更−1990年代の組織整備・活動
 1991年、幹事を理事、代表者を代表幹事から理事長とした。
 1992年、中国などとの交流が活発化したため、学会名称を日本現代中国学会と改めた。
 1993年、第43回大会(神戸商科大学)で、孫中山記念会から資金提供を受け、中国など三名の海外学者を招き、同会共催国際シンポジウム「台湾海峡の両岸−孫文と中国の統一」を実施した。(孫中山記念会共催国際シンポジウムは、2009年第59回大会(神戸大学)でも行われた。)
 1993年、学会名・学会誌英語名をそれぞれ The Japan Association for Modern China Studies、Modern China とした。
 1999年、会員数増大により、理事会定数を50名とした。
 
B『現代中国』は研究年報へ
 『現代中国』74号(2000年)に「投稿規定」「執筆要領」を掲載し、投稿論文のレフリー制を明確にした。翌年発行の『現代中国』75号は、表紙には「研究年報」と刷り込み、『現代中国』の学術誌としての変化を明示した。
 
C地方組織の整備、拡充
 1999年、関西部会研究会を春・夏二回の関西部会研究集会とした。
 2000年には関西部会ニューズレターを創刊した。
 2000年、西日本部会の創立が決定された。
 
D全国大会共通論題にみられる変化
 第42回大会(1992年、東海大学)「改革開放の新段階と中国社会主義の行方」を最後に、共通論題からは社会主義という字句が現れなくなった。前年のソ連崩壊が日本社会に与えた影響の反映とみることもできよう。
 第50回大会(2000年、京都大学)は「現代中国研究の50年」を共通論題とした。この大会から、記録として残される形で共通論題趣旨説明文書が作られるようになった。
 
7.大国化する中国と共に−21世紀初年代から現在
@引き続き組織整備追求
 1990年代のような大幅な会員拡大はなくなったが、基本的に拡大は続き、小規模学会から中規模学会へと成長した。21世紀初年代は、中規模学会にみあった組織整備が引き続き追求された。
 2001年、関西部会ニューズレターを発展させ、全国ニューズレターが発行された。
 2001年、学会公式ホームページが開設された。ニューズレター、ホームページは、学会活動の概要を学会内外に知らせるうえで大きな力を発揮している。
 2003年、会員数775名。(名義上最高の会員数、ただし滞納者多数含む)
 2006年関西在住者が理事長、事務局長に選任されたのを機に、それまでの関東理事会中心から常任理事会を中心とした学会運営が追求され、定着した。
 再入会規定(2008年)など内規の整備も、組織検討委員会を設置しおこなわれた。
 
A大学生協学会支援センターへの業務委託ほか
 2007年2月、学会事務円滑化のため、大学生協学会支援センターに全面業務委託し、学会所在地も同センター内とした。
 業務委託により、会費滞納会員の除籍措置が厳格に行われるようになった。2008年には会員数は662名となったが、会費三年以上滞納会員を整理した結果である。整理が一段落した2009年からは、会員数は再び上昇に転じた。
 2011年、日本学術振興会科学研究費補助金(学術刊行物助成)を獲得した。
 2011年10月1日現在、会員数は725名である。
 
B54年ぶりの論文集刊行
 2009年、現中学会編としては54年ぶりに、全国大会共通論題報告を基礎とした論文集『新中国の60年 毛沢東から胡錦濤までの連続と不連続』(創土社)を刊行した。
 2011年、会員配布で『資料・日本現代中国の60年』を刊行した。(一部市販)
 
C21世紀における現中学会の課題
「ここ数十年来の中国の飛躍的な高度経済発展につれ、日中の経済交流、大衆文化交流が進み、日本の大学での中国語学習者数も増大しています。しかし一方では、日中双方で、無理解・無関心がはびこりだし、「嫌中」、「嫌日」感情の強まりが起きている事態には、憂慮すべきものがあります。日本側の問題として、これまでのような日本の一方的な経済的優位が望めず「歴史認識」問題が未解決であることも関係して、根拠のない「政治的優位」にしがみついた一面的な中国認識ができつつあるようにみえます。そうした傾向の改変のためにも、現代中国を総合的かつ学際的に研究する本学会として、研究者間の冷静な相互交流・相互批判・相互理解の場として、現中学会の組織・活動内容をより強化・改善していくことが求められています。」(「日本現代中国学会の沿革と概要」 学会HP)
                                                                (執筆:瀬戸宏)