資料庫へ  電脳龍の会表紙へ
 
 
 
 
 
宝塚音楽学校96期裁判を考える
−書評『ドキュメント タカラヅカいじめ裁判』
                                                                       
 
瀬戸 宏
                                                                               
*国際演劇評論家協会(AICT)日本センター関西支部機関誌『Act』(あくと)20号(2011年7月)原載。
 
 
 2009年11月5日、新聞各紙は「元生徒、宝塚音楽学校を提訴、『ウソの告げ口で退学』」(朝日新聞)などの見出しで、宝塚音楽学校96期元生徒が退学取消裁判を起こしたことを報じた。私もこの報道で初めて裁判のことを知った。いじめという語句と共に、元生徒が二回仮処分裁判を起こしいずれも勝訴した、とあるのが私の注意を引いた。二回負けるのは、音校側に問題があったからではないか。
 
 私の疑問は、約一週間後に音校がHPに発表した「当校元生徒からの提訴に関するマスコミ報道について」と題する文書で確信に変わった。私も教師の端くれであるが、文書からは生徒を退学させざるを得なかった教育者の痛みがまったく感じられなかったからである。それまで宝塚とのつきあいは数年に一回舞台を観る程度のごく浅いものであったが、これ以後私は関連情報に注意し、裁判記録閲覧のため神戸地裁にも通った。調べれば調べるほど、狭山裁判などと共通する冤罪事件、人権問題の要素を強く感じた。
 
 昨年11月出版の山下教介『ドキュメント タカラヅカいじめ裁判−乙女の花園は今−』(鹿砦社、1143円+税、以下本書と略記)は、現在のところこの裁判に関する唯一の書籍である。
 
 本書や関連資料に基づき、裁判の経過を紹介しておこう。2008年4月原告が音校入学後、さまざまないじめを受けるようになった。一説には、原告の美貌に対する同期生の嫉妬という、ある意味ではたわいもないことが原因という。いじめはエスカレートし、9月には同期生らにコンビニで万引きしたと学校側に報告され、同校は11月、これと他の理由をあわせ原告を退学処分にした。原告は事実誤認だと仮処分を申し立て、神戸地裁は二度にわたって生徒の主張を認める仮処分を出したが、音校は復学を認めなかった。そのため、原告は正式裁判を起こしたのである。音校は13名の96期生を音校側証人として出廷させ、裁判は広く宝塚ファンの注目を集めた。音校は、原告は集団生活に対する協調性を欠き、常習的盗癖があったと主張したが、原告の中・高校時代の担任教師はそろって原告はクラスのリーダー的存在で、盗癖などまったくなかったことを文書証言した。
 
 その過程で、ある96期生のブログが暴露され、そこに掲載された音校生活の写真のため、その生徒が自主退学に追い込まれることも起きた。制服であぐらをかくなどの写真が、宝塚のイメージと大きくかけ離れていたとされたのである。この生徒は一時はいじめの主犯と誤解されたが、裁判の過程で原告に謝り、音校の主張を否定する文書証言をおこなった。結局2010年7月に裁判所の斡旋で音校は退学処分を撤回し、原告に卒業証書を発行し、原告も宝塚歌劇団に入団を求めないという調停が成立し、裁判は決着した。調停内容は音校の要請で一部非公開だが、非公開部分には原告への謝罪などがあることが容易に想像できる。実質的に原告勝訴であった。
 
 裁判の中で、音校の対応は極めて不適切なものであることが示された。音校は六つの退学処分理由をあげたが、その一つの「万引き」をみると、コンビニも警察も万引きの事実はないと認識していること、コンビニの防犯ビデオにもその場面は映っていないこと、その現場を見たと報告した同期生も、実は決定的な場面は見ておらずそれまでの状況−自主退学生徒の表現を使えば集団ヒステリー状態−からそう思い込んだにすぎないことが、裁判で明らかになった。しかし、音校はもはや聞く耳を持たず原告が万引きをしたと断定したのである。その他の五つについても、「万引き」と同様にその事実が存在しないか軽微なミスで、退学処分にはあたらないものであった。これらはすでに仮処分段階で裁判所から指摘されていたが、音校はかたくなに誤りを認めなかったのである。音校は歌劇団員養成の特殊な学校だから一般的教育倫理を当てはめることはできないという声もある。しかし興行会社−企業の危機管理としてみても、音校の措置は落第点であろう。
 
 このような音校(実質的に宝塚歌劇団)の姿勢は多くのファンを失望させ、ファンの宝塚離れを加速させた。証人を引き受けた生徒が入団後不可解な抜擢を受けたことも、それに拍車をかけた。この裁判は間違いなく、あれが宝塚の転換点だったと後世から評されるであろう。現時点で唯一の関係書籍として本書の意味は大きい。
 
 本書からは“暴露本”の要素も感じられるが、商業出版を成立させるためにはやむをえないのかもしれない。私が集めた資料と照らしても、事件の経過を基本的にはその通りに伝えている。だが、問題のある記述も多い。
 
 たとえば、自主退学生徒の文書証言を同書は「学校側は・・強く反発したため、結局は証拠採用とはならなかった」(p107)と書くが、この証言は甲オ15号証と証言番号がついて証拠採用され、神戸地裁に行けば今でも読むことができる。全体として原告に好意的な内容だが、一部に批判めいた記述もある。“バランス感覚”かもしれぬが、原告側には異議があるかもしれない。随所に「女の世界独特の妬み」(p65)など「女」を強調した記述があるのも気になる。このような事件は、男性の集団でも起こりうることである。この裁判と宝塚歌劇の将来など、裁判への大局的な考察が欠けていることにも不満が残る。
 
 裁判記録は五年たてば廃棄される。ブログ類はいつ無くなるかわからない。本書を今後音校96期裁判に関する唯一の文書資料としてはならないと、強く感じる。
                  (せと・ひろし/摂南大学・中国現代演劇研究・演劇評論