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日笠世志久さんの思い出
 
                                                                         
 
                  瀬戸宏
 
 
国際演劇評論家協会(AICT)日本センター関西支部機関誌『Act』22号(2012.9.14)
日笠世志久さんが2001年3月2日に世を去って、10年以上たつ。この機会に、日笠さんの思い出を書いてみたい。関西の演劇界(新劇界)とも関係が深かった人でもある。
 とはいえ、今日では日笠世志久さんと言ってもどのぐらいの人がその名を記憶しているだろうか。まず略歴を記しておこう。
 
 本名は日笠山慶尚。1928年3月14日朝鮮慶尚南道で生まれる。1945年4月旧制山口高校に入学。戦後、学生演劇に打ち込む。また学生運動にも参加し、1948年退学処分。この年日本共産党に参加。1952年劇団はぐるま座を組織。1966年文化大革命勃発とともに、日本共産党を離れる。翌67年文化大革命中の中国に訪中公演をおこない毛沢東、林彪、周恩来らが接見、人民日報は大きく報道しはぐるま座は一躍その名を知られる。1977年文革終結後の路線対立ではぐるま座を退団。1979年日中演劇交流話劇人社を設立し、以後逝去まで日中演劇交流活動に従事する。
 
 私が日笠さんと面識を得たのは、1984年孫浩然さんが日中学生舞台美術展のために来日して、私がアルバイトで通訳を担当した時である。孫浩然さんは当時中国舞台美術学会会長、上海戯劇学院副院長であった。その時日笠さんは日中演劇交流団体・話劇人社事務局長で、孫さん受け入れ責任者の一人であった。それが縁になって私は話劇人社に参加し、その関係で翌年三月上海戯劇学院に一ヶ月短期留学した。当時上海戯劇学院はまだ留学生を受け入れていなかったが、孫浩然さん来日の通訳をした、上海戯劇学院に短期留学したい、という手紙を戯劇学院宛に出したのである。日笠さんは面識のあった院長宛に推薦状を書いてくれた。たぶん日笠さんの推薦状のおかげで、私の短期留学希望は認められた。当時の中国は改革開放政策が深化しつつあったとはいえ、上海戯劇学院が外国人を受け入れるには、まだかなり高いハードルがあった筈である。毛沢東らとも会見し中国共産党とも繋がりのあった日笠さんの推薦状は相当な効果を発揮したと思われる。今日では中国は簡単に行ける国になったが、当時は一ヶ月間も戯劇学院に留学できるのは得がたい機会だと思われた。あの一ヶ月ほど勉強した時間は、私の人生でもそうなかったと思う。その後中央戯劇学院に短期留学したのも、やはり日中学生舞台美術展で来日した田文さん(当時、中央戯劇学院舞台美術系主任)との縁からである。
 
 それらを機に、東京都杉並区久我山にあった日笠さんの住居兼話劇人社事務所にもよく行くようになった。日笠さんの経歴をみれば「筋金入りの共産主義活動家」という表現がぴったりなのだが、実際の日笠さんからはそのような厳めしさはまったく感じられず、むしろ気さくな近寄りやすい印象であった。まもなく私は長崎の大学に着任し東京を離れるが、上京した時は時々日笠さんの家に泊めていただいたりした。そのような時、日笠さんは私に日中演劇交流、さらには日笠さんが参加していた日本共産主義運動の裏話をよくしてくれた。
 日笠さんが特に繰り返し語ったのは、1967年の三ヶ月以上にわたる訪中公演であった。日笠さん自身にも強烈な記憶が残っていたのだろう。日笠さんは形式上は副団長、事実上のリーダーだったのだが、はぐるま座訪中団内部では演目内容などを巡って激しく批判されていたという。そのほか、記憶に残っているのは、1950年代前半の日本共産党分裂期の活動、60年安保闘争後の共産党系文化運動内の対立、文革終結直後のはぐるま座・日本共産党(左派)離脱時期のことなどである。また、フルシチョフのスターリン批判、演劇のリアリズムなど社会主義運動、社会主義芸術運動の理論問題などでもいろいろ意見を聞いた。
 
 私が日笠さんと知り合った時期は、中国が改革開放政策を進め、旧来イメージの社会主義からどんどん離れていった時期でもあった。日笠さんの経歴をみれば、戦後すぐ以来一貫して日本共産党系文化活動家としての道を歩み、その一帰結として文革支持があった。正真正銘の文革派として、1980年代以降の中国の歩みには否定的な感覚を持たざるを得なかった筈である。しかし、一方では日笠さんはもはや中国と切れることはできなかった。その矛盾からくるやるせない感情を、時々私に漏らしたこともある。日笠さんはまた、中国演劇にやはり50年代社会主義の影を追い求めたのか、趙尋という「保守派」の中国演劇界幹部をひどく持ち上げていた。これには、私は否定的だった。だからといって、私と感情的な対立に陥ることはなかった。
 
 日笠さんの夫人恭子さんは、1977年日笠さんが文革後中国の評価などを巡ってそれまで所属していた日本共産党(左派)を離れる前後にくも膜下出血で倒れた。私も何回かお会いしたことがあるが、後遺症で思考が正常でないこともあった。日笠さん逝去後、今もはぐるま座にいる日笠さんの実妹が山口県でお世話をしているとだけ聞いた。今はどうしておられるのか。
 
 日笠さんは演劇、中国、社会主義に確固たる意見を持ちながら、文章・論文はあまり書かなかった。少なくとも私と知り合った1980年代以降はそうであった。私はある時、日笠さんに回想録をぜひ書くようにと勧めたことがある。日笠さんは、もうかなり書いていると答えた。しかし日笠さんは回想録を完成させ刊行する前に、逝去してしまった。その原稿はどこに行ってしまったのだろうか。没後に日笠さんと同世代の友人によって『面影 日笠世志久』という私家版の追悼文集が刊行された。日笠さんの晩年の文章四編も収録されているが、日笠さんの仕事のごく一部に過ぎない。『面影』も私家版のため知る人はごくわずかであろう。
 
 日笠さんの歩んだ道に否定的な印象を持つ人の方が、今日では多いかも知れない。しかしそうであっても、このような道が忘れられてしまっていいのかという思いが私にはある。いつか、日笠さんの人生と仕事についてまとまった論文を書いてみたい。
                          (せと・ひろし 摂南大学教授/中国演劇研究・演劇評論)