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「延安文芸と20世紀中国文学国際シンポジウム」に参加して
 
        瀬戸宏
 
写真は2012年の魯迅芸術文学院旧址
 
 
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 本年は毛沢東『文芸講話』(延安文学芸術座談会での講話、中国での略称は『講話』)発表七〇周年にあたっており、五月にそれを記念する催しがいくつか開催された。「延安文芸と二十世紀中国文学国際シンポジウム」(“延安文芸与二十世紀中国文学”国際学術研討会)は、その中で最も規模の大きなものであった。私事にわたるが、私は学部卒業論文が「中国四十年代解放区文学と文芸講話」だった。その後『文芸講話』の中心課題である文芸大衆化をより深く研究したいと思い、修士論文には中国現代演劇(話劇)を選び今日に到っているのだが、私の研究の出発点からも延安文芸と『文芸講話』には関心があり、シンポジウムに参加することにしたのである。
 
 シンポジウムは五月十六日から十九日まで開催された。主催団体は陝西師範大学文学院、中国当代文学研究会、『文史哲』雑誌社、延安大学文学院である。実質的な主催者は陝西師範大学と延安大学であった。中国国内および、韓国、香港、マレーシア、シンガポール、日本の研究者百二十名あまりが参加した。このように大規模な延安文芸関係シンポジウムは、中国でも久しぶりとのことである。
 シンポジウム日程をまず紹介しておく。五月十五日西安市内の陝西師範大学到着、受付。宿舎は陝西師範大学ゲストハウスである。五月十六日午前、陝西師範大学で開幕式および大会(全体会)開催。開幕式では、各主催団体代表ら六名が祝辞を述べ、大会では、元中国社会科学院文学研究所所長張炯氏、韓国外国語大学教授朴宰雨氏ら八名が報告をおこなった。
 十六日午後および十七日午前は、三分科会(分組)に分かれ、論文発表、討論がおこなわれた。シンポジウムの主題は「延安文芸と中国現代文学」「延安文芸と中国当代文学」「延安文芸本体研究」の三つであったが、分科会はこのテーマで分けたのではなく、発言内容はさまざまであった。十七日午後は西安市内参観(曲江遺跡公園ほか)。私はかつて西安で半年ほど生活したことがあるので、この参観は参加せず自室で休息した。
 十八日は延安への移動および参観(黄帝陵)。宿泊は延安大学のゲストハウスである。このゲストハウスはヤオ洞を改造した趣のある部屋だった。十九日午前中は延安大学での閉幕式で、三分科会の討論内容報告、総括発言、延安大学副校長の祝辞などがあった。そのあと魯迅芸術文学院旧址、楊家嶺の中央弁公庁旧址(延安文芸座談会開催場所)など延安文芸ゆかりの場所を参観した。魯芸旧址では、過去には公開されていなかった各系の事務室、教室も整備され、見学することができた。
 十九日、西安への帰り道に陝西・山西省境の壺口瀑布(黄河が滝になっているところ)を参観した。帰途、バスの運転手が道を間違えたとのことで西安到着は深夜になったが、そのためバス中で参加者といろいろ意見交換ができた。二十日に解散、帰国した。
 
 私は、初日の大会報告および第二分科会十六日午後後半の司会を担当した。大会、分科会とも発言時間は一〇分程度だったが、大会、分科会とも評議人(コメンテーター)がつき、かつての中国の学会に多かった発言のやりっぱなしではなかった。分科会によっては、かなり激烈な討論がおこなわれたらしい。
 私は本シンポジウム案内を韓国・朴宰雨氏から受け取った。私は朴宰雨氏と面識はあったが、なぜ魯迅研究で知られる朴氏から招聘状が届いたのか、その理由がわからなかった。西安でその謎が解けた。朴宰雨氏は朝鮮半島が現在の体制になった後、一九八六年韓国国内で最初に趙星の筆名で『文芸講話』を翻訳した人だったのである。韓国では、一九四五年以降大韓民国建国以前の「史前活躍期」に『文芸講話』の訳はあったが、朴氏の訳が出るまで軍事独裁下の韓国では入手不能になっていた。朴氏は連絡のつく日本の中国現代文学研究者すべてに案内を送ったが、最終的に出席したのは私一人だったとのことである。朴氏は、日本の研究者は延安文芸にもう関心がないのか、と慨嘆していた。そのような傾向は否定できないが、授業期間中という時期的な問題もあったろう。このほか、韓国・池白雲氏、香港・黎活仁氏、マレーシア・莊華興氏、シンガポール・張サ貽氏が中国国外およびそれに準ずる地域からの参加者であった。
 
 シンポジウムでは、上下二冊八〇編以上におよぶ分厚い論文集が配布された。その全貌をここで要約するのは困難であり、また正式の論文集が本年末に公開発行されるとのことなので、ここでは大会報告に絞って紹介したい。
 張炯「延安“講話”と二十世紀中国文学」は、「新中国文芸は・・延安文芸の直接の延長である」ことを指摘し『講話』の意義を確認すると同時に、「左傾の誤りと『講話』の曲解が我が国の文学にもたらした弊害から目をそらすことはできない」点も強調した。生活は文芸の源泉であることへの過度に狭い理解、創作の主体作用を過度に強調したこと、政治と文芸を同じものとみなしたこと、などである。
 劉増傑(河南大学)「四種類の史料の発掘と整理をより強めよう」は、延安文芸の原始史料、延安文芸研究のこれまでの成果、まだ健在である延安文芸当事者の口述史料、専門的性質の延安文芸史料の発掘整理を強調した。専門的性質の史料整理には、『講話』各版本研究の必要性も含まれる。
 朴宰雨「延安に向かう韓国作家−韓国での延安文芸」は、抗日戦争期の延安で活動した韓国(朝鮮)人作家の紹介と、『文芸講話』、延安文芸の韓国での紹介状況を論じた。韓国ではすでにかなりの数の延安文芸に関する学位論文が書かれ、一九八〇年代には趙樹理、丁玲らの作品も翻訳紹介された。しかし一九九〇年代後半以降の韓国社会は革命文芸に対して冷淡になり、出版社は出版したがらず、研究者の数も激減しているという。
 瀬戸宏「延安“大作劇ブーム”試論」は、一九四〇年一月から文芸座談会までの延安での大作劇ブームの内容を検討し、その主な上演作品は西洋近代劇と曹禺ら中国名作話劇であったこと、“大作劇ブーム”には正・反両側面があること、大作劇ブームのきっかけとなった曹禺『日の出』上演は毛沢東が命じたことなどを述べた。
 黎活仁(香港大学)「ルカーチ・福本イズムの中国文芸政策への影響」は、福本イズムと第三期創造社の関係、毛沢東『講話』版本問題などについて述べた。
 趙学勇(陝西師範大学)「延安文芸と二十世紀中国文学論綱」は、「長期にわたって学術界に存在する非常に流行している観点、すなわち延安文芸は五四新文学の伝統を中断させた。延安文芸は文学の現代的性質を備えていないだけでなく、大きな程度に新文学の発展を阻害した」に対する反論である。しかし、趙氏は「延安文芸のマイナス面の経験もはっきり認識する必要がある」ことも指摘している。
 梁向陽(延安大学)「歴史の現場に戻って『講話』をみる」は、延安文芸座談会開催によって延安文芸界の諸問題がたちどころに解決されたのではなく、中共中央各部門は繰り返し通達、決定を出してようやく『講話』の地位が確立したことを説明した。さらに歴史の現場に戻って『講話』をみるには、延安時期の歴史記録の研究が必要なこと、それは歴史記録公開の程度とも関係することを指摘した。
 呉敏(華南師範大学)「延安文芸研究に関するいくつかの感想」は、延安文芸は非常に特殊な話題であり、単純に純粋文芸の方式を用いるだけでは複雑な延安問題を説明することは困難なことをまず指摘した。さらに延安研究には今日も多くのタブー(禁区)があり、自己の著書『延安文人研究』は確かな資料に基づいたまじめな研究であるにもかかわらず、結局国内の出版社では出版できず、香港で刊行せざるを得なかった体験を語った。
 
 この種の記念シンポジウムは対象の礼賛に終始することが多い。しかし、ここで紹介した大会発言からも、本シンポジウム論文発表の主な傾向は、延安文芸・『文芸講話』の冷静な学術的検討や研究上の問題点の指摘であることが理解できると思われる。今回のシンポジウムの学術性はかなり高いように見受けられた。これまで中国の研究者が『文芸講話』に言及する場合は、一九五〇年代の『毛沢東選集』版に拠るのが常だった。今回は一九四三年版に触れたり引用したりしている中国国内研究者もかなりいた。
 中国での学術会議参加の意義の一つに、会議主題と関連する書籍などを入手できることがある。今回も何人かの中国人研究者から著作などをいただいた。その中で延安文芸、『文芸講話』と関連するものに、梁向陽・王俊虎主編『延安文芸研究論叢』第一輯(陝西人民出版社 二〇一二年)、高慧琳編著『群星閃耀延河辺』(人民文学出版社 二〇一二年)がある。
 
 『延安文芸研究論叢』は、延安大学文学院が中心となって発行したもので、四十五本の論文を収録し、四百八十八ページにも達する膨大なものである。延安大学は今後延安文芸の研究センターをめざすとのことで、その意気込みが伺われるものであった。ここでは、二〇〇八年に五十一歳で逝去した延安大学教授高浦棠氏の『文芸講話』に関する一連の論文を故人の記念のため再録した特集から、「『講話』公開発表過程の歴史内情探析」だけを紹介する。この論文は、『講話』の正式公開発表がなぜ文芸座談会が終了して一年半後だったかを考察したものである。他の整風運動関係論文は、毛沢東の演説後二ヶ月から長くても半年程度で公表されている。高浦棠氏は、胡喬木らが言うように毛沢東が多忙で整理に時間がかかったのではなく、文芸界の思想整頓、秧歌劇の出現に示される芸術実践の成功、文芸界の組織整頓という三段階を経て、『講話』が十分に作家芸術家に受け入れられる時期が到達したと毛沢東が判断したからだとみなしている。
 高慧琳編著『群星は延河のほとりに輝く』は、まず延安文芸座談会参加者を可能な限り調査し参加者が百三十四名であることを考証した後、毛沢東、朱徳ら党・政府関係者二十名を除く百十四名について、延安到達以前、延安時期、延安以後の三部に分けてその略伝を作成し、内容にふさわしい写真を添えた労作である。高慧琳氏は、延安革命旧址の説明員から鳳凰山革命旧址管理処主任となった人である。
 
 このように、今回のシンポジウムは延安文芸および『文芸講話』研究の最新の状況を伝えるものとなった。残された問題も多いが、このシンポジウムを機に、研究がいっそう進展していくことは間違いあるまい。
 なお、シンポジウムを報道した新華社の記事は、私を最初の『文芸講話』日本語版翻訳者として紹介している。これは私と朴宰雨氏を混同した誤りである。この記事は、今も新華網陝西頻道に掲載されている。近年の中国マスコミは、新華社ですらこのような初歩的ミスを犯すのかと、私は驚いた。
               (原載『東方』380号 2012年10月 東方書店)
                                
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