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国泰大戯院−郭沫若『屈原』を上演した劇場
              瀬戸宏
 
日本郭沫若研究会編『日本郭沫若研究会報』第12号 2011.3.31)
 
*左の写真は取り壊し前の国泰電影院。2005年12月、瀬戸宏撮影
一九四二年四月に上演された『屈原』は、郭沫若の代表作の一つであるだけではなく、抗戦期中国演劇の代表作の一つでもあることは、すでに多くの人が認めている。『屈原』は重慶・国泰大戯院で上演されたが、国泰大戯院については日本ではあまり紹介されているとはいえない。国泰大戯院について、私の知るところを記してみたい。
 
 国泰大戯院は、重慶の資本家鄭石均、趙巨旭らが資金を拠出して建設した民間劇場である。当時の金で一四万銀元が投資されたという。一九三七年二月八日正式に開業した。所在地は柴家巷である。柴家巷は現在は存在しない地名で、今日の渝中区鄒容路とほぼ等しい。重慶のシンボル解放碑のすぐそばで、当時も今日も重慶一の繁華街である。
 国泰大戯院は座席数一五〇〇で、天井からは磨りガラスの大シャンデリアが六個下がり、その他の室内灯は両側の壁面につけた板の間から光が出るようになっていた。両側の壁には、さらにそれぞれ四つの扇風機が取り付けられていた。劇場入り口には、“国泰大戯院”の五字のネオンサインが輝いていたという。このような設備は、一九三七年当時の重慶では極めてモダンなものであった。
 国泰大戯院はまた、この時期の重慶にまだ残っていた客席での物売りなどを廃止し、入り口でのチケット販売、座席指定制をとり、良好な鑑賞条件の保持を作り出した。
 
 国泰大戯院という名称は、明らかに上海・淮海路に一九三二年開業した国泰大戯院(CATHAY THEATRE)をまねている。重慶の国泰大戯院も映画館を兼ねたものであったが、今日この劇場が全中国で広く知られ、現在では国泰大戯院というばふつう重慶のものを指すのは、話劇上演のためである。国泰大戯院は抗戦期重慶の中心的劇場となり、今日調査されているところでは抗戦期中に九四の話劇を上演した。重慶での抗日話劇運動の開始とされる一九三八年十月の曹禺・宋之的『全民総動員』(『黒字二十八』)も、国泰大戯院での上演である。郭沫若『屈原』は、その最も著名な上演の一つである。
 なぜ国泰大戯院は重慶話劇運動の中心劇場となったのか。その大きな理由は、地の利の良さであることはいうまでもない。
 
 しかし、国泰大戯院がその役割を発揮できたのは、それだけではない。抗戦期中に経理(支配人)となった夏雲瑚の貢献と切り離すことはできない。
 夏雲瑚(一九〇三ー一九六八)は重慶巴県(現、南岸区)出身で、上海崑崙影業公司董事長となるなど映画人として知られているが、抗戦期の話劇運動にも大きな役割を果たしている。国泰大戯院成立時、彼も出資を求められ応じたが、その額は総株式発行高の二%に過ぎなかった。一九三八年五月の日本による重慶爆撃で国泰大戯院が破損すると、夏雲瑚は映画上映の関係などで国泰大戯院の経営を引き受けざるをえなくなった。夏雲瑚は同年十月国泰大戯院の修理を終えると、話劇上演も積極的におこなった。映画会社経営を通して作り上げていた俳優らとの人間関係が、話劇上演の組織にも役だった。国泰大戯院は民間経営劇場で、政府とはやや距離があったことも、反国民党政府の色彩が濃厚だった話劇の上演に有利に働いた。夏雲瑚や抗戦期国泰大戯院については、夏瑞春《夏雲瑚与中国現代戯劇和電影的不了縁》(《中国話劇研究》第十二集)、許浩然《戦時重慶国泰大戯院話劇演出活動》(重慶師範大学碩士論文、CNKIで閲覧可)などに詳しい。
 
 こうして、国泰大戯院での活発な話劇活動は、一九四三年六月に話劇運動を恐れた国民党政府が国泰大戯院に対して話劇上演の禁止令を出すまで続いた。
 その後、国泰大戯院は一九五三年に和平電影院と名称変更した。文革期に東方紅電影院となったが、まもなく和平電影院の名称が復活した。一九九四年には国泰電影院となった。二〇〇七年重慶再開発のため取り壊された。跡地には国泰大戯院と重慶美術館を含む国泰芸術中心の設立が決定され、その完成予想図も公表された。当初は二〇〇九年完成とのことであったが実現せず、私が二〇一一年二月に重慶を訪問した際にはまだ工事が続き、完成にはほど遠い状態であった。現時点では二〇一一年下半期竣工が予告されているが、実現するかどうかはまだわからない。
 
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