表紙へ  資料庫へ
 
 
曹禺生誕九〇周年記念上演および曹禺学術研討会報告

  *『東方』242号(2001.4)掲載

                                                                          瀬戸宏
ryuunokai053001.jpg
 昨二〇〇〇年は劇作家曹禺生誕九〇周年であり、中国ではさまざまな記念行事が行われた。私は昨年在外研究で北京に滞在しており、その多くに参加できた。曹禺は、北京人民芸術劇院が】九五二年に実質的に創設されて以後一九九六年の逝去まで、一貫して北京人芸院長の立場にあった。その北京人芸は生誕九〇周年記念として、「曹禺経典劇作展」という名称で八月から1〇月にかけて『日の出』『原野』『雷雨』を連続上演した。曹禺がやはり名誉院長であった中央戯劇学院では、創立五〇周年記念事業として九月に『雷雨』を上演した。一〇月には、曹禺の本籍地である湖北省潜江市で、中国芸術研究院話劇研究所、曹禺研究学会(準)、湖北省潜江市曹禺著作陳列館の大八同主催による曹禺生誕九〇周年学術研討会が開催された。このほか、中央戯劇学院、上海戯劇家協会でも記念座談会が開催された。昨年は曹禺逝去四年でもある。死後四年を経てなおこのような各種記念行事が行われたことは、曹禺作品が作家の死を乗り越える強い生命力を保持していることを示している。
 
 昨年の曹禺を巡る動きは、これだけではない。昨年五月に再オープンした中国現代文学館は七人の作家を扱う開館セレモニー「二〇世紀大師風采展」を開催したが、そのうちの一人は曹禺であった。’中国教育部は昨年、日本の学習指導要領に相当する「中学語文教学大綱」を改訂した際、『雷雨』を「中学生課外文学名著必読」の一つに指定した。このような国家機関による作家・作品の権威づけにある種の抵抗感が伴うのは事実であるが、その影響力を無視することもできまい。曹禺作品とりわけ『雷雨』は、二I世紀中国人の感性を形成する源泉の一つになると思われる。なお「中学生課外文学名著必読」の中国現代文学関係の他の作品は、魯迅『吶喊』『朝花夕拾』、茅盾『子夜』、老舎『駱駝祥子』、巴金『家』、郭沫若『女神』、銭鍾書『囲城』、冰心『繁星・春水』である。建国後の作品がないのが目につく。
 
 北京人芸「曹禺経典劇作展」は、単純に曹禺の名作三本を上演するのではなく、『日の出』『原野』については、若手演出家の任鳴、李六乙がそれぞれ新演出することで上演前から話題を呼んだ。二人とも四十歳前後で、『原野』は、北京人芸初上演でもある。   しかし、この新演出の『日の出』『原野』は、観客動員は共に良かったものの、物議を醸すことになった。反発が最も強烈だったのは、『原野』であった。
 
 この『原野』は人芸小劇場で小劇場演劇として演じられた。劇場に入ると、客席が三方に作られ、客席のない壁面と上演区域の天井からつるされた十数台のテレビ受像器が目に入る。上演中、このテレビ両面からは、アフリカの草原を逃げる動物、火山の爆発、戦争映画、映画『原野』の一部などの謎めいた刺激的な映像が絶え間なく映される。俳優の演技も、決して戯曲の筋を追うのではない。登場人物は、繰り返し方向喪失感を述べる。テレビの映像、俳優の演技、音響、照明効果が一体となり独特の劇場効果が形成される。この劇場効果は、戯曲『原野』から得られる印象と共通している。この李六乙演出『原野』は、劇の筋ではなく劇の雰囲気で『原野』の内容と精神を表現したものなのである。しかも、戯曲を一度完全に解体し、演出家の理解に従って再構成するという徹底した実験上演であった。それだけに、「わからない」「名作の冒涜」という声が、北京の新聞雑誌を賑わせた。
 今回の舞台が最良の『原野』上演だとはもちろん言えないが、実験精神に満ちあふれた極めて刺激的な上演であったこ とは間違いない。私は九月二日、三〇日の二回観た。曹禺学術研討会でこの『原野』が討論された際も、私は李六乙演出を擁護する発言をした。私の発言内容は、『中国戯劇』二〇〇一年一期に掲載されている。
 
 『日の出』も、原作に忠実な上演ではなく、実験的要素がある。しかし、私は八月二五日に観たこの『日の出』には満足することはできなかった。
  任鳴演出の『日の出』の特徴は、戯曲にはほとんど手を入れないまま、時代設定を現在にしたことである。このため、方達生はジーンズにラフなスーツという現代青年の衣装で現れ、舞台にはノートパソコンやEMSの快速郵便も登場する。しかし、問題はこのような衣装・道具の「現代化」が表面的なものに留まり、『日の出』の内容と現代中国社会の共通性をえぐり出すものになっていないことである。それを端的に示すのは、第三幕の売春宿の場のみは原作と同じ三〇年代としたことである。現在の中国には売春宿は存在しない、という「建前」を演出家は打破できなかったのである。この「建前」が文字通り建前に過ぎないことは、中国国内のものも含めて多くの文章が伝えている。演出家のこのような措置は、逆に演出家は中国の現状を直視する緊張感に欠けている、という印象を観客に与えることになった。少なくとも、私はこう感じた。
 
 任鳴演出には、観客サービスのつもりが逆効果になっている場合もある。たとえば、陳白露が自殺した部屋の外で、方達生が別れを告げる劇の最後の場がそうである。オケボックスからベッドに横たわっている陳白露がせり上がってくるという処理は、観客の想像力を軽視しており著しく興が殺がれる。
 
 この二つに対して、『雷雨』は故・夏淳の演出を忠実に再現するものであった。再演指導は顧威で、彼は今回周朴園を演じてもいる。夏淳演出も五四年の初演以来何回か手直しは行われているが、基本的には五四年以来の上演形式がそのまま保たれている。今回の上演は八九年一〇月上演の踏襲で、キャストも八九年とほぼ同一である。
 この『雷雨』を九月二八日に観て何よりも感慨を覚えたのは、幕が開いて劇が始まる、ということであった。幕は本来は中国演劇にはなく、二〇世紀に入って外国演劇の影響で中国にもたらされたものである。中国演劇における幕の導入過程と中国話劇の成立過程は、密接にからみあっている。ところが、近年の話劇系演劇の舞台では、幕の使用はほぼ皆無になった。これが、八二年の高行健他作・林兆華演出『絶対信号』以来の「第四の壁」打破を目指す小劇場演劇運動の影響 であることは、いうまでもない。幕は、今日の中国演劇では、むしろ伝統演劇に残っている。
 それだけではない。純写実の重厚な舞台装置、歌唱・ダンス皆無で純粋に台詞だけに依拠した演技、直線的に進む劇の時間とその中で三〇年来の人間関係が一つ一つ舞台で明らかになっていく緊迫感、劇の最後で矛盾が爆発し観客に衝撃を与えたまま幕が閉じて劇が終わっていく充実感など、この夏淳演出『雷雨』は完璧な話劇であり近代劇であることを改めて確認した。今回の上演は二時間半以上を休憩無しに一気にみせるのだが、長いとは少しも思わなかった。見応えという点から言えば、今回の「曹禺経典劇作展」の中で『雷雨』が一番であった。
 
 『雷雨』は、中央戯劇学院も九月に上演した。表演(演技)系学生による上演で、私は九月一五日に観たが、こちらの休憩無しの二時間四五分は、観ていて疲労感が残った。ただこの上演が紹介に値する
のは、序幕・尾声(エピローグ)のある『雷雨』だったことである。事前に観客に三人の死者が出ることを知らせる、という序幕については、圧縮され配役の関係か子供たちが姉妹になってはいるものの、ほぼ原作に忠実である。しかし、尾声はカーテンコールのように扱われ、事件の後も周朴園が健在であることを示す、という原作の意図から離れたものになっていたのは残念であった。
  中央戯劇学院は、これ以外にも創立五〇周年記念事業として、卒業生俳優を組織して『北京人』を九月に上演する筈であった。五丹下旬に新聞発表された内容によれば、この『北京人』は?俐が慄方を、姜文が江泰を演じるという豪華版で、特に卒業後ほぽ初めて舞台‐に登場する?俐の参加が大きな話題を呼んだ。ところが、八月上旬になって、テレビ撮影等で俳優が揃わず舞台の貧が保証できない、という理由で上演の「一時延期」が発表
された。中央戯劇学院のプロデュース能力不足が上演中止の原因であることは明らかだが、この公演が実現できなかったのは、やはり残念なことであると言えよう。
 
 曹禺生誕九〇周年の締めくくりは、一〇月一二日から一四日まで湖北省潜江市で開催された曹禺学術研討会であった。曹禺自身は生前一度も本籍地である潜江を訪れることがなかったが、彼は潜江に深い関心を寄せ、曹禺の墓も潜江にある。(日本刊行の一部の事典類は潜江を曹禺生誕の地としているが、曹禺は天津生まれである)この研討会の参加者は四〇名余りで、外国人参加者は私のほかはパキスタン人留学生だけであった。
 
 この研討会は、実質的責任者の田本相氏の配慮で、論文発表はコメンテーター制が取られ、質問・討論時間もかなり保証されるなど、学会充実化のきざしがあった。特筆すべきは、建国後の曹禺をめぐって活発な討論が行われたことである。建国後に曹禺が発表した作品は建国以前の作とはまるで別人のように質が低く、しかも建国後の曹禺は胡風批判や反右派闘争の際には政府・共産党の側に立って批判文章を発表し続けた。これは建国後
の政治状況が大きな原因であることは間違いないが、それだけなのか。曹禺個人にも高い社会的地位を保つため体制に迎合する弱さはなかったのか。建国後の曹禺作品の低調は誰も否定できないが、その兆しは建国以前からすでにあったのではないか。曹禺自身の希望で全集から削られている反右派闘争時の批判文なども、全集に収めるべきではないか。自由討議時間のほぼ全部が、これらの問題の討議に当てられた。
 これは、多くの参加者にとって建国後の曹禺の問題が、直接自己の生き方と関わるものであること、曹禺が逝去して四年経ち、ようやく客観的に曹禺を語ることが可能になり始めたことなどが理由として挙げられよう。ただ、田本相氏ら北京側と地元潜江市側との間で意志疎通に齟齬があり、会議運営に一部円滑さを欠いたのは残念なこと分あった。会議期間中の二一日、湖北省実験花鼓劇院『原野情仇』(『原野』の改編)が上演された。
 なお、五月に田本相・黄愛華編『簡明曹禺詞典』(甘粛教育出版社)が刊行されたことも、ここで記しておきたい。
 
 それにしても、曹禺がこれだけ中国で読まれ上演されているにもかかわらず、現在の日本では曹禺代表作の翻訳すら入手困難なのは、どうしたことだろう。曹禺作品を翻訳出版しようという志ある出版社はないものか。(摂南大学)