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              茅盾の故郷烏鎮を訪ねて
*原載は『中国語』1984年9月号。1984年2月に日本人として初めて烏鎮を訪ねた記録。烏鎮は、現在は観光地として大きく様変わりし上海から直行バスも出ているようだが、本稿にも記録の意味はあろう。初出時の題は「烏鎮(茅盾の故郷)訪問記」。
                                                                          瀬戸宏
  私は本年2月までの約二年間,中国にいわゆる日語専家として滞在したが,勤務終了後の旅行の途中2月12日に,日本人としては解放後初めて茅盾の故郷である浙江省桐郷県烏鎮を訪問することができた。桐郷県は本来完全な外国人未開放地区であるが,私の浙江省での受けいれ先である省教育庁の御骨折により,極めて順調に桐郷県への旅行証を得ることができた。この場を借りて,改めて浙江省教育庁の御好意にお礼申しあげたい。聞くところによれば,解放後外国人が烏鎮を訪問するのは,私以前には60年にチェコの茅盾研究者の,82年4月にフランス人留学生の例があるだけで,私は単に日本人としてだけでなく,外国人としても3人目とのことであった。以下に記すのは,烏鎮訪問のささやかな報告である。
 2月12日朝8時,省教育庁のつき添いの人とともにホテルを出発,車で桐郷県にむかった。杭州から桐郷県まで船もバスもあるが,未開放地区のため日帰りという条件があり,費用はかさむが自動車で行くことにしたのである,杭州から上海にむかう道路の途中に,桐郷県県城があり,自動車で約2時間かかった。県人民政府の招待所で休息・食事の後,さらに船で烏鎮にむかう。現在も県城から烏鎮まで,自動車が走れるような道路はないという。桐郷県県城は有名な大運河に近く,烏鎮へ行くには,大運河を通ってさらに支流の川に入る。県城から烏鎮まで,船で約1時間かかった。
 ここで,烏鎮の紹介をしておこう。烏鎮は歴史の古い町である。今,手元に《茅盾故郷的伝説》(桐郷県文化館編)という小冊子があるが,ここには烏鎮をめぐるさまざまな民間伝説が記されている。烏鎮は春秋時代には呉に属し,越との境界線にあたり呉の兵が駐屯していた。その後歴代の王朝は皆ここに兵を駐屯させていたが,唐咸通年間(9世紀)に至って,正式に鎮と称するようになった。南宋嘉定年,間(13世紀初)に中心の河によって両鎮に分け,河西を烏鎮,河東を青鎮とした。しかし,茅盾が記しているように「早くから二つの鎮に分れてはいたか,外地の人はやはり二つともに烏鎮とよび,青鎮人もまた烏鎮人と自称し,履歴書を書く時にのみ,青鎮を用いた。」(《我走過的道路》)茅盾は厳密にいえば青鎮で生まれ育ったが,彼自身も自伝《我走過的道路》の冒頭を,「私は……浙江省桐郷県烏鎮で生まれた」という言葉で始めている。解放後二つの鎮を合併し,総称を烏鎮としたのである。
 清朝乾隆・嘉慶年間(18世紀〜19世紀初)が鳥鎮の最盛期であった。烏鎮は江蘇・浙江を結ぶ水路の要所であり物資の集散地であったのである。太平天国時代に鳥鎮は大きな損害を受けたが,「区域の広さ・人口の多さ・商業と手工業の繁栄の程度から言えば,やはり一般の県城のおよぶところではなかった。」(茅盾)。茅盾が生まれ育った時の烏鎮は,まだこのような繁栄か続いており,茅盾の回想録(《回憶録[十四〕〈春蚕〉〈林家舗子〉及農村題材的作品》)によれば人口も10万に近かった。「民国以後,杭州・上海・嘉興に鉄道が開通して情勢がかわり」経済は衰退していった。さらに日中戦争期には,日本軍の侵攻によって鳥鎮は大きな被害を受け,町はすたれた。私の眼に映った現在の烏鎮は,繁華な雰囲気にはむしろ乏しくひなびた感じのする小鎮であった。
 話を烏鎮訪問に戻そう。船から上った私は,まず烏鎮電影院に案内された。鳥鎮電影院自体はずっと後の建築であるが,この映画館の題詞を晩年の茅盾が執筆しているのである。
 続いて,烏鎮電影院のとなりの人民公園をみた。ここは1907年から1909年までの二年間茅盾が在籍した植材高等小学の跡地であるとのことである。茅盾がこの植材高等小学在学中に書いた作文は二冊の文集になって残って.おり,最近発見され,私もその複製本をみることができた。茅盾はここで英文・国文・算学(代数・幾何)・物理・化学・音楽・図画・体操などを学んだ。そしてこの学校を卒業し1909年夏湖州府中学に合格して後茅盾は常に外地にあり,時たま短期間帰省するにすぎなかったのである。
 植材小学は,日中戦争時の日本軍の侵攻によって焼失した。人民公園は,その跡地に解放後つくられたものである。13,320平方メートルの面積をもち,木々の多い落ちついた雰囲気の公園である。
 茅盾故居は人民公園を出てしばらく歩いたところにあり,いわば烏鎮の中心部にあるといってもよい。現在は茅盾記念館を兼ねている。茅盾の幼少時の家庭環境については《我走過的道路》に詳しいが,それによればさして広くもない建て物に20人以上が生活していたらしい。私が訪問した時は,あいにくちょうど分解修理中で,茅盾が後に《子夜》の稿料で建て増しした三間の平屋だけが残っていた。これは,最近茅盾旧居が中共中央書記処の批准を得て全国重点文物に指定され,さらに84年10月烏鎮で茅盾研究討論会が開かれるので,そのために全面解体修理を行なっていたのである。展示物などはすべて平屋にしまいこまれていたが,案内の人が一つ一つとりだしてみせてくださったのには恐縮した。
 茅盾故居のそばには,茅盾が8歳の年から1907年まで学んだ立志小学の旧跡がある。現在は,烏鎮幼碓園になっているようである。故居の周辺は,茅盾が生まれた当時の晩清の街並みが基本的に残っており,この街並みを変えず保存する決定がすでになされているとのことであった。
 そのあと,茶館「訪廬閣」と《林家舗子》のモデルになったとされる商店をみた。
 《我走過的道路》には,次のような記述がある。「祖父・の生活は,たいへん規則正しく,毎日午前中は当地の有力者,富商がいつも利用する『訪廬閣』へ行き茶を飲むか,または西園へ行き拍曲(すなわち昆曲の練習)を聴くかであった。」鳥鎮には,最盛期は60数軒の茶館があったといわれるが,「訪廬閣」はその中で規模が割合に大きく,川に面し,まわりの景色が最もよい茶館である。この茶館がいつ建てられたかは,現在もはやわからない。烏鎮の一般の茶館は,烏鎮にやってきた農民の休息場所であったが,訪廬閣の客は,引用した文にもあるように(有力省紳士)や富商であった。
 この茶館は現在も営業を続けているが,もはや訪廬閣という名は使わず,私が訪れた時には,ただ“冷飲室”と書かれた紙が川ぞいの窓にはってあるだけであった。
 《林家舗子》のモデルになったとされる商店は訪廬閣からほど近いところにおり,三珍斎という看板がかかっていた。《林家舗子》には,もちろん舞台となった鎮の名さえ記されておらず,《林家舗子》のモデルと紹介された店が何か客観的な根拠かあるのかどうか,私にはわからない。あるいは,夏衍脚色の映画と関係があるのかもしれない。
 茅盾自身が回想録の中で語っているところによれば,《林家舗子》は,1932年5月と8月の烏鎮帰省で故郷の新情勢を知ったことが執筆の直接のきっかけとなっている。そうであるなら,《林家舗子》は,たとえ特定の商店をモデルとして断定できなくとも,鳥鎮を舞台にしている,と考えてよいのであろう。もし,私が紹介された店が本当にモデルであるなら,林先生が知人に茶を飲みに行こうと誘う清風閣は訪廬閣,林先生が一瞬死を思う望仙橋は訪盧閣の手前の応家橋なのかもしれない。
 私が烏鎮を訪問した時節は,偶然《林家舗子》の結末と同様に春節あけであった。河の水は,林先生の眼に映ったのと同じく濁っていた。しかし,50年後の烏鎮には,もちろん疲弊した農民や倒産におびえる商店のせっぱつまったあわただしさはなかった。
 それから船着き場に戻り,案内してくれた烏鎖の人と別れて船に乗り,桐郷県城に戻った。現在,烏鎮に通ずる通路を建設中で,10月の茅盾討論会までには完成するだろうとのことであったが,そうなると,このように風情のある船旅をしながら烏鎮へ行くこともあるいはもうなくなるのか,とも船の中で思った。県城からは再び自動車に乗り換え,杭州に戻った。途中,最近の農村経済の好転を反映しているようなヨーロッパの別荘風の新築の住宅があちこちに点在しているのが,印象に残った。
                                                                    〔1984.7.15〕
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