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                     新宿梁山泊『人魚伝説』中国公演の回想

                                                                          瀬戸宏

 本ニューズレターには私のその時々の考えを書かせていただいているが、今回は私の「本業」である中国現代文学演劇関連の内容を述べてみたい。
 新宿梁山泊とは、一九八八年に金守珍(キム・スジン)らによって創設された劇団である。創設時の参加者には唐十郎らの赤テント、佐藤信らの黒テントの経験者が多く、今日ではこれらの劇団と共に日本のテント演劇の代表的劇団となっている。唐十郎に始まるアングラ演劇の志を現在も積極的に継承している劇団である。『人魚伝説』は新宿梁山泊が一九九〇年に初演した作品で、当時在籍していた鄭義信(チョン・ウィシン)の作である。演出は金盾進だが、これは金守珍の演出時の芸名で、本稿では金守珍演出で統一する。一九九二年に上海、一九九八年に北京で上演され巨大な成功を収めたほか、ドイツ、韓国でも上演されている。私は新宿梁山泊のメンバーではないが、上海・北京公演には通訳・文芸秘書として準備段階から直接関わった。ドイツ公演以外の『人魚伝説』全公演を観てもいる。
 
 このテーマを選んだのは、二つ理由がある。
 昨二〇〇七年は中国話劇百年で、中国ではそれを記念する各種の行事がおこなわれた。話劇とは対話に基礎を置く演劇形態で、日本語の新劇にほぼ等しいが、厳密な意味での話劇だけでなく、その系統を引く現代演劇全般を指すことも多い。北京の代表的話劇劇場である首都劇場ではロビーを使って中国話劇百年展が開かれ、主に写真で中国現代演劇百年の歩みを回顧していた。その一部として来中公演した外国演劇の項があったのだが、それほど多くない写真の中に、『人魚伝説』があるのである。上海公演から十五年、北京公演から九年、中国の演劇人は『人魚伝説』を最も優れた外国演劇公演の一つとして今も記憶していることを、この展示は強く示すものであった。
 もう一つは、数ヶ月前に、その後新宿梁山泊を退団した鄭義信と劇団側との間で著作権トラブルが裁判に発展し、結局新宿梁山泊が『人魚伝説』などの著作権は劇作家にあることを認め上演権確認を放棄することで裁判が終結したというニュースに接したことであった(朝日新聞0八・.四・一八ほか)。この裁判の是非には立ち入らないが、少なくとも金守珍演出の新宿梁山泊版『人魚伝説』はもう観ることはできないのだ、という感慨を覚えた。実際には、日本では一九九五年、外国でも一九九八年北京を最後に、主演女優の退団などもあり『人魚伝説』は上演されていないのだが、私の知る限り金守珍らは将来の再演を否定したことはなかった。中国で『人魚伝説』が大きな反響を呼んだ大きな理由は、テント上演を含めた金守珍演出の独自の様式美にある。今後、別の演出家の手で『人魚伝説』が上演される可能性はあるにしても、それはもうあの『人魚伝説』ではない。
 
 『人魚伝説』はなぜ、中国で強い歓迎を受けたのか。
 『人魚伝説』中国公演の発端は、一九九〇年に来日した上海戯劇学院の青年教師たちが『人魚伝説』初演を観たことにある。当時は現在と異なり、中国人のビザ取得自体たいへんな苦労を要した。彼らによって『人魚伝説』の評判が上海に伝わり、上海戯劇学院が招聘を決定したのである。この過程にも多少の経過があるのだが、今は触れない。
 『人魚伝説』は、主人公詩人の回想というかたちで、海を越えてウチウミという町にやってきて貧困の中で過ごすある一家に起こる一連の事件を描いている。少年時の詩人の子供らしい嫉妬から起きた事件によって、金魚と呼ばれる少女は詩人の兄夏男に殺される。だが、この原因は誰も知らない。最後に一家は町を去り、再び放浪の旅に出る。戯曲『人魚伝説』には、湿った悔恨と諦念が強く漂っている。おそらく在日である鄭義信の個人的体験が投影されているのであろう。
 だが、金守珍演出の舞台からは、まったく違った印象を受ける。明るく、色彩感にあふれ、笑いに満ちている。劇の最後に、舞台がかちどき橋のように大きく二つに割れる。中は水槽になっている。大海が出現し、詩人は新しい生活を求めて飛び込み、格闘する。強烈な生への意思を感じさせるラストである。劇作と演出には明らかに視点の相違があり、両者の格闘が舞台に緊張をはらんだ充実感をもたらしているのである。
 
 同様の場面はほかにもある。たとえば、一家が海を渡ってやってくる場面である。日本の公演は海辺や河原などで実際にボートを浮かべたが、上海戯劇学院キャンパスにはそのような場所はなかった。そこで、二トントラックに道具を飾って船に見立て、逆進させてテントに接続させたのである。舞台後方の幕がはずれ、外界が観客の目に入る。そこへ、一家が現れゆっくりと近づく。父親の持つ松明が、薄暗がりの中で揺れ、あたりを照らす。キャンパス全体が劇場になる。上海戯劇学院のキャンパスがこんなに美しくみえたことはなかった、と語ったある教授の言葉を、私は今も記憶している。この演出は北京でも踏襲された。うらぶれた筈の渡航が、新しい生活への希望を鮮明に含むものになっている。
 重要なことは、テント芝居の技巧と金演出の方向が巧みに合致し、充実した舞台成果を生み出していることである。『人魚伝説』の多大な成功は、それまで中国になかったテント演劇の形式を伝えたことにあるとされ、私もそう語ってきた。だが、より根本的には、金守珍演出を貫く生への意思と希望が、日本の高度成長期にも似た九十年代中国の時代状況と合致していたことにあったのかもしれない、とも思う。
 私の手元には、『人魚伝説』初演(WOWWOW放映)、上海公演、北京公演のビデオがある。だが、ビデオでは『人魚伝説』のような劇場性に強く依拠した上演は、真に再現できない。新宿梁山泊『人魚伝説』は、観た人の頭の中でしか存在しないのである。
 
 この機会に、あまり知られていないことも述べておきたい。北京公演で、あるトラブルが起きた。『人魚伝説』では、開演前に観客がテントの外で整列して開場を待つことが、重要な要素となっている。老婆が、観客の前で吸い殻拾いをしている。この老婆は劇中人物で、実はこの時から上演は始まっているのである。観客を取り囲む場所全体が上演空間だという思想の表れである。そして笛が響き渡り、テントが開き、観客は一斉に入場していく。整列は、大量の観客が短時間に安全にテントに入るためにも必要なのである。
 上海の場合は、テントが立った場所を囲むように金網があったので、観客はそこに沿って並び、問題はなかった。しかし、北京では中央戯劇学院の中庭にテントを建て、周囲には何もなかった。日本側は、当然ながら日本のやり方をそのまま実行しようとした。事前整列はテント演劇の重要な要素であり、これをなくすことはテント演劇を壊すことになると考えたのである。しかし、戯劇学院側は反対した。日本側はなぜ中国側が反対するか理解できず、問答が続いた。当初は、これがテント公演だと日本側が押し切った。
 しかし、中国側がなぜ反対したか、実際の上演で明らかになった。一九九八年の北京の観客は、整列ができなかったのである。日本側スタッフが整列するよう誘導しても、すぐに列は崩れてしまう。そして開演すると数百名の観客がばらばらに一斉に狭い入り口に殺到し、事故こそ起きなかったものの混乱状態が出現した。戯劇学院側窓口の外事弁公室関係者も感情的に不満をつのらせた。結局戯劇学院側の主張通りこのあとは開演前からテントを開け三々五々開演を待つ観客を少しずついれてゆくようにした、と記憶している。『人魚伝説』がこれまで外国公演をおこなったドイツ・韓国は、整列は問題なかった。日本側には、行列できない人たちがいるという発想がなかったのである。思いがけない異文化衝突であった。幸い、公演の圧倒的成功で、このトラブルは忘れられていったが、日中演劇交流の中で起きた一つの事実として、書き留めておきたい。
 
 さて、時間は流れ、昨二〇〇七年九月、やはりテント芝居を今日も追求している野戦之月海筆子『変幻痂殻城』北京公演が朝陽区文化館前広場でおこなわれた。この公演のことは別の場でも述べたのだが、記述の必要上やはりここでも書いておきたい。この公演の芸術面をここで論じようとは思わない。しかし、私がこの公演で強い印象を受けたのは、観客がテント前で整列して静かに開演を待っていたことであった。北京オリンピックを控え、中国の政府関係機関は整列の習慣を身につけるようキャンペーンを繰り広げていた。日本のマスコミには揶揄的にこのキャンペーンを紹介するものもあったが、成果はやはりあがっていたのである。一つには、この約十年間の北京市民の民度の向上もあろう。
 九年前には不可能であったことが、今は可能になっている。新宿梁山泊版『人魚伝説』の再演も、北京の民衆が整列できるようになったと同様に、いつか実現できる日が来るかもしれない、とも思う。(摂南大学教員)
(『アソシエ21ニューズレター』2008年8月号掲載)
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