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越劇と日本現代演劇の『春琴抄』
ー二つの『春琴抄』の競演
 
          瀬戸宏
 
 
左の写真は名取事務所『春琴抄』上演にかけつけた浙江
小百花越劇団関係者。左から郭暁男(演出)、茅威濤
(団長)、一人おいて、蔡浙飛(佐助役)、章益清(春琴
役)、二人おいて曹路生(劇作)。撮影:瀬戸宏
 
本文は長文のためニページに分けて転載。
後半
 
 
 

                                                                           
                      一
 周知のように、『春琴抄』は一九三三(昭和八)年に発表された谷崎潤一郎の小説である。大阪の薬種商人の家に生まれ、美貌だが幼少時から盲目となり、わがままで気位の高い女性として育った三味線の名手春琴と、彼女を慕い厳しいけいこに耐え、春琴を横恋慕する男によって顔に熱湯をかけられ大きく火傷を負った時、彼女の醜い顔をみるのを避けるため自ら眼を突いて失明する佐助の不思議な愛情を描いている。その時代背景は幕末から明治維新の動乱期だが、小説にはそのような時代の転換のうねりはまったく出てこない。描かれているのは、ただ二人の倒錯した愛の世界で、しかも読者になんら不快感を与えず、逆に美の世界に引きずり込む。小説は江戸期の古文を模したような改行や句読点が極めて少ない文体で書かれているが、読みにくさをほとんど感じさせない。谷崎潤一郎の作家的力量を十分に伺わせ、まさに彼の代表作の一つとなっている。
 『春琴抄』は、これまで何度か舞台化、映画化されてきた。近年、ジェームス三木の脚色・演出により二〇〇五年に名取事務所で上演された。
 ジェームス三木は一九三五(昭和一〇)年生まれの劇作家、シナリオライターである。中国瀋陽で生まれ、日本敗戦後引き上げ体験をした。はじめ俳優を志し、大阪・市岡高校を中退して上京し俳優座養成所に学ぶ。さらに歌手としてデビューしたが芽が出ず、長い不遇の時期を過ごした。ジェームス三木という筆名は、歌手時代の芸名である。五十年代後半デビューの歌手には、男性でもフランク永井、ジェリー藤尾などのように、英語名を用いるものが多かった。テレビドラマシナリオの代表作には、沢口靖子のデビュー作である『澪つくし』(一九八五)、NHK大河ドラマ『独眼竜正宗』(一九八八)などがある。劇作家としては、『安楽兵舎VSOP』(一九九一)などの作品があり、青年劇場など新劇系劇団のために書き下ろした作品が多い。
 ジェームス三木脚色の舞台は、名取事務所の経済条件を踏まえ(注)、板東扇菊と男優の二人芝居となっている。日本舞踊家の板東扇菊が春琴など女性役を、男優が佐助など男性役を演じる。初演では男優は中西和久(京楽座)であったが、二〇〇七年の再演では木山事務所所属の本田次布が演じた。日本舞踊家が主役を演じ、劇中には一部に舞踊化された動作もあるが、劇全体としては自然な身体動作の演技を中心とした台詞劇である。
 名取事務所は、名取敏行氏が一九九六年に設立した演劇プロデュース事務所で、毛利三彌演出によるイプセン作品連続上演などのほか、ジェームス三木ディナーショーなど商業的上演もおこなっている。
 名取事務所は二〇〇〇年に中国北京・中央戯劇学院で板東扇菊主演の近松門左衛門もの舞踊劇『夢の夢』を上演したことがある。私は当時中央戯劇学院に在外研修で滞在しており、その関係でこの公演を手伝ったことがある。その縁で、今回の『春琴抄』中国公演にも関わることになったのである。
 
                                      二
 『春琴抄』は、海を越えて中国でも劇化された。しかもそれは中国伝統演劇の一つである越劇によってであった。上演劇団は杭州に本拠を置く浙江小百花越劇団、2006年のことである。脚色は曹路生、演出は郭暁男(旧名、郭小男)。中国での題名は『春琴伝』であった。小百花越劇団は一九八四年に成立した女性越劇の劇団である。今日では中国を代表する越劇団に成長している。戦国時代の刺客を描いた新作歴史劇『寒情』などで訪日公演も過去におこなっている。団長の茅威濤は全国的に知られた小生(若い男性役)の越劇女優で、全国人民代表大会代表(国会議員)も長年にわたって務めている。
 小百花越劇団『春琴伝』の上演台本は十年近く前に出来上がっており、茅威濤自身が佐助を演じる意欲をもっていたようだが、各種の事情で上演は昨年になってようやく実現した。若い俳優を育てる必要もあり、春琴には章益清、佐助には蔡浙飛という新進の俳優をあてた。演出の郭小男は上海戯劇学院卒業後、九十年代初めの一時期神戸に滞在したこともあり、その時に劇団コーロの舞台演出も担当したことがある。帰国後は話劇、伝統演劇双方の演出に活躍し、今日では中国を代表する演出家の一人になりつつある。茅威濤の配偶者でもある。
 この『春琴伝』は女子越劇の特色がよく出た舞台となっている。小百花の舞台はほぼ原作の筋に沿って劇が進行していく。劇のクライマックスが、醜い顔となった春琴を見ないがために自己の眼を突く佐助の姿であるのも、原作と同様である。だが、周知のように谷崎潤一郎の原作は、サディスティックとマゾヒスティックが入り交じった倒錯した美の世界を作り出している。この要素が削り取られているのである。女子越劇の特色として、上品さ、可憐さが挙げられる。越劇はよく中国のタカラヅカと呼ばれるが、それはどちらも女性だけで演じられる点だけでなく、タカラヅカの「清く正しく美しく」の世界を越劇もまた共有していることもあげられよう。小百花『春琴伝』はまさにこのかたちで全編がまとめあげられている。春琴と佐助のロマンチックな恋物語である。新作のためか、あるいは二十世紀に入って形成された劇種としての越劇の新しさのためか、中国伝統演劇という呼称とは逆に現代的な感覚が舞台全体に強くにじみ出ている。
 この『春琴伝』について、戴平(上海戯劇学院教授)が劇評を書いている。上演の特徴と意義をよくとらえているので、全文を訳出しておこう。
 
                          歩みつつ形を換えた『春琴伝』
                                                                            戴平
 浙江小百花越劇団の『春琴伝』は、杭州から北京へ、北京から広州、武漢、上海へと巡演し、各地で論議を呼び起こした。開演から十分程度で、古くからの越劇ファンの何人かは「越劇はどうしてこんなふうに演じていいのか」という問いを発した。しかし、劇を見終わって、新旧を問わず越劇ファンの多くは『春琴伝』の新しさを認めた。越劇はこのように演じてもいい。
 私は後者の意見に賛成する。浙江越劇団団長茅威濤は「越劇が変わらなかったら、二一世紀のドアの外に閉め出されてしまう」と発言している。この意見はよい。越劇に新しい生命力を獲得させることは、確かに越劇芸術の発展を志す芸術家の逃れられない責任である。茅威濤は中年となり、豊富な芸術実践経験を有しており、越劇改革に献身するたいへんよい時期である。越劇が人材を生みだし劇を生みだすのは改革からであり、越劇が新しい世代の観客を獲得するのは改革からであり、越劇の発展も改革からである。過去の残骸を守っていては、出口はない。
 越劇『春琴伝』は、日本の唯美主義文学の大家谷崎潤一郎の小説『春琴抄』を脚色し、中国民間劇種で日本の文学題材を扱おうとした試みである。この小説は、江戸時代のある凄絶で強烈なまでに美しい愛情物語を描いている。使用人の佐助は才能と美貌が揃った金持ちの家の盲目の女性春琴への真摯な愛の感情を示すために、彼女のわがまま、かたくなさにすべて従っている。春琴の容貌が傷つけられた後、彼女が贈ったかんざしで自分の両眼を突き、永久の暗黒のなかで、佐助は真に春琴の心の中に入り込む。前世紀七、八十年代に山口百恵と三浦友和が映画で“春琴”と“佐助”の人物像を塑像し、一世を風靡した。今日、日本のこの名作的人物像は、劇作家曹路生の紹介を経て、中国越劇の舞台に移され、小百花の俳優蔡浙飛、章益清によって演じられ、二つの新しい越劇のアイドル像を塑像した。これも、ある種の文化姿態を代表しているのである。
 上演は精緻で、舞台デザインの格調は優雅で清潔である。たとえるなら、一幅の水墨画のようである。舞台には濃厚な日本情緒に満ちあふれている。日本民謡、浮世絵の背景、竹のすだれや低い腰掛け、日本式の面をかぶった女性の歌い手、三味線の演奏・・・・一群の日本の少女が色あでやかな和服を身にまとい、花傘を開き、下駄をはき、梅の花の中からゆっくりと出てくる。舞台一面に、美しい花びらが舞い落ちる。ほんとうに美しい日本の風景画である。日本情緒の曲調と優美な越劇の歌唱があいまって、華麗で独特な“越劇の日本式夜会”が出現する。
 『春琴伝』は、演技、音楽、唱などの面で大胆な改革と実験がなされている。総計二時間五分の劇で、俳優は八十パーセントの場面で正座して演じている。これは、唱いながら踊ることを特色とする中国伝統演劇の演技に、難しい問題を提出している。演出家は、一連の新しい方式をデザインしている。俳優が正座し、唱い、しぐさをする新しい方式である。これは、中国伝統演劇での斬新な写意演技の試みであり、越劇の新しい局面を開いた。言葉が玉のように美しい歌詞、情緒纏綿かつ悲しみの曲調、さらに越劇の美が観客の眼前に繰り広げられた。曲調は新しさがあるが伝統を越えてはいない。越劇の音楽は古くさい部分を取り除いても、やはり観客を魅了する。観客から“小茅威濤”と呼ばれる蔡浙飛の幾つかの長い唱は、尹派の味わいが特に濃く、長い唱のたびごとに満場の喝采を受けた。茅威濤は、これは団の新しい世代の俳優たちのための新しい劇であり、その創造を通して劇団の中年と青年の交替継承を実現させたいと願っている、と語っている。「私たちの世代が演じられなくなるまで待ってはいられない。継承を考えれば、今から始めなければならない」これは、長期展望を見据えた卓見である。
 演出家の郭暁男は、日本の監督黒沢明の映画芸術を好んでいる。この越劇の舞台の中に、黒沢明の表現手法がいくつか移植され、中国、日本の民族文化芸術の特色が混ざり合わされ、歌劇、話劇などさまざまな要素を参考にしているが、音楽、舞踊および舞台全体のデザインはたいへん統一がとれている。京劇の大家梅蘭芳は「歩みつつ形を換えない」という伝統演劇改革の原則を提出した。しかし、現代越劇で最も芸術的自覚と革新精神を備えた茅威濤は、演劇は「歩みながら形を換え」てもいいのだ、必ず古いものの中から新しいものを作り出し、新しいものの中に根拠をもった継承があることによって、越劇さらには演劇は生き残っていけるのだ、ということを大胆に提出した。『春琴伝』は、かたちを変えた創作理念の実践である。これは、特別であると同時に前例があることでもある。六十年以上も前に、袁雪芬は『祥林嫂』を上演し、才子佳人の物語の古い枠から抜け出すことができた。それによって半世紀内に成熟した都市芸術を形作った。今日、私たちはなぜ引き続き時代の要求に適応し、新しい曲『春琴伝』を唱ってはいけないのか。
 青春、時尚、典雅は、若い演劇ファンの中国伝統演劇に対する新しい期待となっている。伝統演劇は必ず現代人の審美心理の変化発展に追いつかなければならない。そうでなかったら、観客は劇場に近寄ってはこないだろう。もし古い劇を保ち続けるだけで少しも変化しなかったら、越劇にはまだ生命力があるだろうか。現在、『春琴伝』という時代の好みにあった越劇の新作は、大量の若い観客の目を引きつけ、北京大、清華大のキャンパスで大いに反響を呼んだ。少なくとも、越劇にはまだ大きな発展の余地があることを証明した。中国の題材を演じることができるだけでなく、外国の愛情物語を演じることもできる。伝統的であるだけでなく、時代の好みにあうこともできる。自己の特色を保ち続けるだけでなく、他の芸術の要素を吸収して光り輝かせることもできる。白髪の観客は受け付けることができるし、若い観客はより喜ぶのである。
 
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