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国立劇専史料江安陳列館訪問記  写真
                                                                          瀬戸宏

 今年の夏も中国に出かけ、主に重慶で抗日戦争期話劇運動の資料収集をおこなったが、この機会を利用して八月一八、一九日両日四川省宜賓市江安県に一泊旅行に出かけた。江安県城にある国立劇専史料江安陳列館見学のためである。この陳列館では、江安時期を中心とした国立劇専の史料が展示されている。
 
 国立劇専、正式名称は国立戯劇専科学校は、1935年10月から1949年まで存続した民国期唯一の演劇高等教育機関である。成立当初の名称は国立戯劇学校で、1940年夏に国立戯劇専科学校となった。十四年間にこの学校に在籍した学生は千名以上に達し、多くの人材を育成した。国立劇専の卒業生は話劇を中心に、映画、美術、音楽など各方面で活躍している。校長は成立から閉鎖まで一貫して余上ゲン(シ元)であった。
 国立劇専は南京で開学したが、抗日戦争勃発により開学して二年とたたない1937年夏長沙に移り、翌三八年春更に重慶に移った。一年後の39年4月再び四川省江安に移り、抗日戦争が終結した45年夏までこの地で過ごした。このあと再度重慶に移転し、46年夏には南京に戻った。1949年、華北大学、魯迅文学芸術学院と合併して北京・中央戯劇学院となった。十四年の歴史の中で、江安の時代は六年間に達し、最も長い期間を占める。
 
 江安県は重慶の西南に位置し、県城は長江の南岸にある。2001年時点での人口は53万4416人という。抗日戦争期は重慶とは船で往来していたらしい。現在でも船着き場はあるが、もっぱら貨物輸送に使われ重慶−江安間の客船はない。重慶から江安へはバスを利用することになる。
 8月18日午後2時、重慶駅近くのバスターミナル(長途汽車站)から江安行きのバスに乗った。かつては朝バスターミナルを出発して夕方江安に到着したらしい。バスでも一日がかりである。現在は途中まで高速道路が開通しているが、それでも片道四時間以上かかった。重慶−江安のバス料金は60元だった。
 
 午後六時過ぎに終点の江安バスターミナル前に到着する。前日にインターネットを調べ宿泊は陳列館そばの竹都大酒店と決め電話で予約してあった。バスターミナルからホテルまでどう行くのかと尋ねると、人力の車があるからそれに乗って竹都大酒店というと連れて行ってくれるという。着いてみると、街には車が多数走っていた。二輪車を自転車がひっぱる形のものである。北京・中央戯劇学院近くでは胡同観光用のものを時々みかけるが、実用に使われているところがあるとは知らなかった。十分近くゆらゆらと車に乗っていると到着した。二元であった。時間の流れが北京・上海とは違う印象である。
 竹都大酒店は二星級のホテルである。八十年代の訪問記録では、陳列館そばの県招待所に宿泊したとあるから、九十年代以降民営化されて竹都大酒店となったらしい。竹都という名称は、江安県南部に“国家級AAA旅遊区”である蜀南竹海があるからである。一泊160元という価格の割には部屋は清潔でサービスもよく満足したが、“大酒店”という名称とはどうも似つかない。節電のためか全体が薄暗かった。
 
 国立劇専史料江安陳列館は、江安時代の校舎の一部を利用している。校舎は江安文廟を用いた。当時は県城の西南部に位置し南の城壁のすぐ側だったというが、現在は城壁はすでにない。校舎となった文廟も取り壊され、敷地の大半は竹都大酒店になっている。私が宿泊した部屋は、国立劇専の公演に使われた大成殿の跡地の筈である。建物のごく一部がなぜか現在まで残り、それを利用して1988年10月に国立劇専史料江安陳列館が開設されたのである。開設に至る関係者の苦労は、肖珊《国立劇専史料江安陳列館記》(《劇専十四年》 中国戯劇出版社 1995)に詳しい。さらに、校友会の寄付により余上ゲンの銅像が中庭に建てられ、1991年4月30日に開幕式がおこなわれた。
 
 私が竹都大酒店に到着した時はすでに夕暮れで、陳列館は閉まっていた。翌朝、朝食後に訪ねた。入場料は五元である。陳列館は十の陳列室があり、第一から第五陳列室は国立劇専史料部分、第六から第十は校友芸術成就部分である。第一陳列室は教務科、第二陳列室は余校長室だったという。陳列館パンフレット(《国立戯劇専科学校概況》)によれば、館蔵の史料は4200件でそのうち3200件を展示しているという。同パンフレットは十一の陳列室があるというが、第十一陳列室はここを訪問した関係者が書いた書を飾ってある部屋を指すのか。この部屋にある木製の大きな机は、国立劇専教員だった曹禺が《北京人》執筆の際使用したものだという。
 小さな陳列館ではあるが、展示物は非常に充実している。特に国立劇専史料部分の展示は貴重なものが多く、私が初めて目にしたものもいくつもあった。特に国立劇専が1942年に上演した『ハムレット』の舞台写真は、目をみはる思いがした。この『ハムレット』は中国での『ハムレット』初演でもある。写真をとりたかったが、内部の撮影は遠慮してほしいとのことで、断念した。
 
 校友芸術成就部分は、建国後の国立劇専校友の活動資料である。校友が寄贈したものが基礎になっている。中華人民共和国のものが大半だが、台湾などの史料もある。こちらは、大半が目にしたことのあるものだったが、これだけまとめて展示してあると、国立劇専が後の中国演劇や近接ジャンルの発展にどれだけ大きな役割を果たしたか、改めて知ることができる。著名な映画監督の謝晋は第七期(1941年入学)学生だが、十八歳からの数年という人間形成に最も重要な時期を江安期の国立劇専で過ごした彼は、国立劇専に強い感情を持っているらしく、江安を訪問もし、大量の資料を寄贈している。第十陳列室は、ほぼすべてが謝晋関連の展示であった。
 しかし、所蔵資料の充実に比べると陳列館の現状は寂しい。私が行った時も、見学者は私だけのようであった。陳列館には三人の事務職員がいるだけで、節電のため見学者がいない時は陳列室の電気を消しカギをかける。内部の電灯はつけた時でも薄暗くメモも取りづらい。事務室には電話すらない。これだけ充実した史料があるのに一般の関心が薄いのは、話劇の専門性が強すぎるのと、中国共産党との関係が薄いからであろう。関心の薄さを反映してか、省級文物保護単位とはいっても政府の支出する資金は、事務職員の給与のほかは若干の維持費だけだという。先に引用したパンフレットも、実はタイプ印刷したものをホッチキスでとめたものにすぎない。所蔵資料目録もない。近年は北京・上海の劇団も豪華なカラー写真集を発行しているが、陳列館でもこのようなプログラムを作成すれば中国話劇史のたいへんな資料になるのにと残念に思った。
 
 陳列館を見終わると、車に乗って江安の街を一回りした。江安はそれなりに発展しており、国立劇専が存在していた時期の面影はあまり伺えない。ただ、街はシャッターをおろした店も多く、経済状況は必ずしも良くないようである。その中で、江安県党委・県政府の建物が非常に立派なのが目についた。今は平穏な江安県だが、江安県が属する宜賓市(当時は宜賓地区)は文化大革命中は『ワイルド・スワン』にも登場する大造反派劉結挺・張西挺夫婦の拠点だったところで、文革期には街は壁新聞やスローガンであふれかえり、相当な文物破壊も行われたのだろうと往事を想った。
 午後、バスで重慶に戻った。県城を出てしばらくは長江に沿って走る。今回は雨が多かったせいもあろうが、四川省奥地の上流であるのに、淀川下流なみの川幅と水量に改めて中国の広大さを思った。
(『中国文芸研究会会報』289号、2005.11.27掲載)

 
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