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                『中国話劇成立史研究』前書き−話劇とは何か
                                      一
 本論文は中国話劇成立史研究であって中国話劇成立史ではない。従って、本論文は十九世紀末に始まる中国演劇の近代的変質の開始から二十世紀二十年代半ばの話劇の確立に至る演劇史をまんべんなく記述することを目的とはしていない。話劇の成立を考察するうえで私が重要と考えた演劇事象をいくつか抽出して、検討したものである。
 ここで言う話劇 huajuワゲキとは、「対話とそれに伴う身体動作に基づく演劇」という演劇形態である。この話劇という用語は、日本語の近代劇、新劇という用語と意味内容がおおむね共通している。日本の演劇学者、演劇評論家からは、話劇という演劇用語はこの演劇形態の本質を表現しており、日本の新劇などよりも優れているという指摘がでている。そのいくつかを挙げておこう。
 
 話劇ー中国の用語だが、まことにいい文字だと思う。(1)(河竹登志夫)、
 
  築地小劇場以後の演劇は、本当は中国にならって「話劇」と呼ぶべきだった・・・い わゆる新劇を「新劇」じゃなく「話劇」と呼んでいたら、その歴史的性格が、だれにも ハッキリと理解できてたんじゃないか。(2)(津野海太郎)
 
  われわれが新劇とよんでいる西洋流の演劇は、中国では「話劇」とよばれるという。 ・・俳優によるせりふのやりとりが劇をはこぶ主要手段となる西欧の演劇が「話劇」と 名づけられることは、野球を「棒球」というのと同様、まことにいいえて妙である。  (3)(山内登美雄)
 
ただし、話劇と新劇、近代劇の意味内容は完全に一致するわけではない。この問題、特に話劇と近代劇の関係については附録に収めた「話劇と近代劇」で検討してある。
 話劇という用語が中国演劇界で本格的に使用されるようになったのは、一九二八年からとされる。中国話劇の創始者の一人である洪深は、一九二九年に次のように話劇を定義している。
 
  話劇は、劇中人物の断片的な会話を用いて、組み立てられた演劇である。・・時には、 その話劇は、音楽や舞踊を含むかもしれない。しかし、音楽・舞踊は付属物・助成物に すぎない。話劇が物語を表現する方法は、主に対話である。対話は文学(すなわち字句 が洗練された)あるいは詩歌であるのを妨げない。しかし、現在の人々が話しているも のと必ず多少の相似がなければならない。過度に奇怪であったり特別であったりして、 聞いている人に劇中の対話が普通の人が話す会話と遠く隔たっていると感じさせてはな らない。(洪深「中国の新戯から話劇までを語る」)(4)
 
この定義は、話劇に対する概念規定を行なったものとしては最も早くかつ最も重要なものに属する。話劇の上演形式に関しては今日においても話劇という用語の定義は洪深がおこなったものの枠を超えてはいない。
                                      二
 話劇という演劇を考える場合、その成立と近代(modern)という時代は、切り離すことができない。中国研究者の間では周知のように、日本語と中国語では近代という語彙の意味内容が異なっている。日本語の近代キンダイと中国語の近代jindaiの相違の問題も「話劇と近代劇」の中で述べたので、ここでは詳述しない。本論文では誤解を避けるためmodernに相当する時代を近現代と呼ぶことにする。ここでの近現代は一つの時代であり、近代・現代という二つの時代という意味ではないことを承知していただきたい。また、本論文では前後の文脈から近代の意味内容が容易に理解できる場合は、近代という語彙も使用している。
 演劇の場合、近現代の精神、思考形態を最も純粋に反映する演劇は、日本語では近代劇と呼ばれる。そして近現代の精神、思考形態を代表する中国演劇は、その成立過程から考えても明らかに話劇である。この意味で、話劇を日本人が中国近代劇と呼ぶことは、基本的には正しい。京劇、越劇、滬劇など中国の近現代に存在し上演されている伝統演劇ももちろん近現代の精神を表現することができる。しかし、京劇など伝統演劇の近現代表現は話劇に比べて明らかに不徹底であるし、京劇などを中国近代演劇とは呼べても中国近代劇と呼ぶことは不可能である。これは、京劇などの芸術的価値とは別の問題である。近代演劇と近代劇の相違についても、「話劇と近代劇」の中で詳述してある。
 話劇が近現代の精神、思考形態を最も純粋に反映する演劇である以上、話劇には傾向性の問題が生じる。近現代という時代そのものが、常に過去を否定して進んでいくという価値観をもっており、話劇は過去と現在の批判的表現を重要な内容とせざるを得ないからである。洪深は、次のように述べている。
 
  現代話劇が重要な価値をもっているのは、主義があるからである。(洪深「中国の新 戯から話劇までを語る」)
 
  主義すなわち話劇が持つ自覚した傾向性の内容についてはその後中国でもさまざまな議論が行われたが、注意しなければならないのは、この自覚的傾向性の表現が、演劇においては写実様式の追求として現れ、伝統演劇の模倣から始まって、ついに話劇の成立に至ることである。伝統演劇においても傾向性の追求はあったが、それは話劇に比べてはるかに不徹底なものであった。何が中国の若い演劇人を写実様式の追求に突き動かしたか、その解明も本論文の課題の一つである。
  以上をふまえて私なりに話劇の定義を整理すると、話劇は、現実の言語と身体表現を通して、舞台で上演されているものが現実の忠実な再現であると観客に思わせ、それを通して劇作家・演出家が理解した現実の底に潜む本質を観客に提示する意欲を持った演劇、ということになろう。
                                      三
 本論文の目的は、話劇という演劇形態が中国でいかにして成立したかを考察することにある。従って、本論文の主たる研究対象は実際に上演された舞台芸術ー演劇であり、日本語の戯曲ー劇文学そのものではない。劇文学は上演の重要な一部をなすものではあるが、あくまでも一部でしかない。劇文学研究は本論文の中で副次的な位置しか与えられていない。
 実際に上演された舞台は上演終了とともに消え去ってしまうから客観的な研究対象にはできず、演劇の研究対象はあくまで劇文学だという意見もある。特に、近現代演劇研究者にそのような意見を持つ人がいる。近現代演劇は明確な劇文学のテキストが豊富に残され、しかも近現代演劇の中核をなす近代劇は劇文学の舞台での忠実な再現を目的としたから、この考えがなりたつ根拠はある。実際にこの立場からなされた近現代演劇研究もかなりの量にのぼっている。
 しかし、この考えの限界もまた明らかであろう。劇文学が演劇研究の唯一の対象であるなら、劇文学が残されていない、あるいは不十分にしか残っていない古代中世演劇は研究不能ということになる。近現代演劇においても、演技、舞台技術、演出、観客、興行形態など劇文学研究では解けない問題も多く、しかもこれらの中に近現代に固有の問題が反映されていることが少なくないのである。
 実際には、古代中世演劇研究は絵画など断片的な資料をもとにおこなわれている。近現代演劇の場合、劇評・舞台写真・回想録など劇文学以外の上演資料は前近代演劇よりもはるかに豊富に残されている。これらの資料を用いて上演された近過去の舞台を、研究者の頭脳の中で復元していくことは十分に可能である。もちろん、劇文学がその中の重要な資料となることはいうまでもないが、それは資料の一つでしかない。
 本論文は、このような演劇研究の試みでもある。清末から二十世紀二十年代半ばまでの約四半世紀におよぶ時間の中で上演された膨大な舞台の中から、私が自己の演劇史観に基づき中国話劇成立史の研究にとって重要な意味を持つと思われる上演をいくつか選んで考察し、それをつなげて『中国話劇成立史研究』としている。
                                      四
 演劇に限らず、中国の近現代文化は、一九一九年の五四運動前後から出発したとされている。雑誌『新青年』が重要な発信源になったのは、周知のことである。
 もちろん、中国における近現代文化は、一九一九年前後に突然姿をあらわしたのではない。それ以前に、それに先だつ長い胎動があったことは今日ではもはや常識になっているといってよい。
 いうまでもなく、これは、近現代文化が、中国の伝統文化の流れと直線的に結びついているという事ではない。両者の間には、明らかに質の相違があり、飛躍がある。たとえば、話劇は中国の古代から存在したという中国の演劇学者がいる(5)。唐代の参軍戯などがその例としてあげられる。しかし、この説の誤りは明らかであろう。近現代以前に存在した台詞劇(話劇)の部分的要素と、それが中心となった演劇とはあくまで別のものである。中国演劇は、歌唱、歌舞などの要素(唱・念・做・打)を中心とした演劇として発展してきたのである。この中に「念」があるように、中国伝統演劇(戯曲)にも台詞劇の要素はあるが、それは本質ではない。話劇とそれ以前の中国伝統演劇とは、明らかに質の相違と飛躍がある。この飛躍は、外国文化の影響と受容がなければなしとげることは不可能であった。この意味から、話劇を「舶来品」と呼ぶ中国の演劇研究者もいる。
 だが、文化は物ではない。文化が人間の精神、思考形態の所産である以上、西洋の近現代文化の直接的移人とすらみえる中国近現代文化であろうと、生きている中国人の思考を離れて出現することはありえない。ここから、二つの問題が生じる。
 一つは、すでに述べたように、近現代文化も過去の文化伝統あるいは社会環境とまったく無関係に出現する事は不可能だ、ということである。言葉をかえるならば、近現代文化の確立の為には、近現代的思考を可能とする土壌が、たとえ社会のごく一部であろうと成立していなければならないのである。このような基盤があってこそ、思考の飛躍的発展が可能となるのである。近現代文化の登場に先だつ長い胎動とは、近現代的思考を受けいれる事のできる基盤の確立の過程あるいは、過去の文化伝統のある程度の近現代的変質の過程と考えてよいであろう。そしてこのように考えてこそ、中国における伝統文化と近現代文化の関連を正しく把握する視点を確立する事ができる、と思われる。
 もう一つは、文化を創造するのは結局は人間であるということである。外国文化の影響も、それを主体的に受け入れる人間がいなければその土地に根付かない。なぜ彼らは外国文化を受け入れ、中国文化の近現代化、近現代文化の創造をおこなったのか。その衝動は何によってもたらされたのか。
 演劇の場合、中国近代劇である話劇をうみだす基盤として、清末民国初に、文明戯と呼ばれる演劇があった事が、早くから指摘されている。早期話劇という別名から理解できるように、話劇の前段階の演劇形態である。しかし、文明戯もやはり突然に出現したのではない。文明戯の出現自体、伝統演劇からの飛躍であり、外国の影響とそれを受け入れることのできる社会的土壌なしには不可能であった。
 本論文は、この状況をふまえて、二部構成をとる。第一部では、文明戯の成立過程とその全盛期の内容、衰退の原因と衰退期の状況が扱われる。第二部では、第一部を受けて、近代劇としての話劇の創出運動が、『新青年』掲載のイプセン戯曲や演劇改良論から始まって、それが演劇界とどう結びつき、どのような苦闘を経て話劇という演劇の確立にいたったかが扱われる。本論文の内容を別の言葉で表現すれば、近現代精神が中国演劇という場でどのようにして確立したか、その実現過程の解明ということになろう。
 中国が海外に門戸を開かざるを得なくなり中国の近現代が開始したのは、一八四○年のアヘン戦争敗北からとされるが、その影響が精神、思考形態にまで及び始めたのは、日清戦争(甲午戦争)敗北後の十九世紀末のことである。そこで、本論文も十九世紀末の演劇状況の分析から始まる。
 
 

1.河竹登志夫『続比較演劇学』(南窓社 一九七四)
2.佐伯隆幸、津野海太郎「カーニヴァルと教育」(『山猫通信』三号 一九八九・九)
3.山内登美雄『演劇の視覚』(白凰社 一九九七)
4.洪深《従中国的新戯到話劇》(《現代戯劇》第一巻第一期 ここで参照したのは梁淑安編《中国近代文学論文集(1919−1949)戯劇巻》中国社会科学出版社 一九八八)収録のもの。
5.曹燕卿《中国古代話劇》(敦煌文芸出版社 一九九七)など。

 
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