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 オピニオン 『所感雑感』 不寛容の行きつく先
  
  社会福祉法人評議員 竹内直人
  
  高知新聞2021年12月14日掲載
 
*転載にあたっては、竹内直人氏の同意を得ています。
 
 
 1972年11月8日、早大文学部2年の川口大三郎さん(当時20歳)が大学構内で複数の革マル派活動家の学生により、8時間にも及ぶ集団リンチにより殺害された。その遺体は本郷の東大付属病院前に遺棄されていた。川口さんを敵対セクトの中核派メンバーと誤認した虐殺だった。
 
 50年前、東京のど真ん中にあるキャンパスが暴力の横行する酷(ひど)い状態だったことを今はほとんどの人が知らない。なぜ大学当局や学生たちは凶行を止められなかったのか。樋田毅(つよし)さんの近作「彼は早稲田で死んだ〜大学構内リンチ殺人事件の永遠〜」(文藝春秋)は、大学構内が「自治」の名のもとに守られ、治外法権に近い状態にあったことを詳細に報じた、渾身(こんしん)のルポである。
 
 あの当時、私は同じ大学の3年生。この半世紀、他の人に話したことはなかったが、心の中の澱(おり)のように消えない、つらい事件だった。
 
 事件後、「大学に自由を取り戻したい」という強い思いで一般学生が立ち上がり、革マル派の糾弾を全学で始めた。その過程で、多くの学生が理不尽な暴力にさらされ、重傷を負う者も少なからず出た。その中には何人かの高知県出身者もいた。1年数カ月続いた闘いだったが、運動は挫折した。冷徹な司令官がいて、あらゆる情報収集、政治宣伝、暴力を行使するプロ集団に対し、「非暴力」「非武装」という素手の私たちが勝てるわけがなかった。
 
 著者の樋田さん自身、混乱のなかで臨時執行部のリーダーに推され最前線に立ったが、襲撃され、手ひどいけがを被った。彼はどの政治セクトとも無縁の体育会漕艇(そうてい)部に籍を置き、早慶戦の後には新宿で放歌高吟する、ごく普通の大学生だった。 
 
 本書では、当時加害者側だった人物のその後も書いている。自治会委員長だったT氏は既に死去。晩年妻に「集団狂気に満ちていた」「ドストエフスキーの『悪霊』の世界だった」とつぶやき、故郷で世捨て人のように生きたという。驚いたのは副委員長だったO氏のこと。学生時代「粗暴な言動が暴力支配を象徴する人物」と言われた活動家は、その後組織を離脱し、渡米して米国の大学で博士号を取得、都内の有名私大で教べんをとりながら多数の著作を発表する環境運動家となっていた。筆者は苦労してO氏と接触後に「対談」を実現。4時間にわたる討論の内容が収録されている。半世紀すぎての自己責任と社会のありように対して彼なりの意見を述べている。
 
 「様々な社会問題が世の中にあるけれども、『正しい暴力』という考え方が常にその根源にあるような気がします」と今の心境に近い感慨を述べている。これを読んだ読者は、どう考えるだろうか。
 
 大学が基本的に正常化に乗り出したのは、事件から何と二十数年後、奥島孝康総長(愛媛出身)が就任するまで待たねばならなかった。奥島総長も脅迫、尾行、盗聴などさまざまな妨害を受けたことを明らかにしている。
 
 著者の樋田さんは元朝日新聞記者。高知支局にもかつて勤務し、私とも親しくさせてもらった。
 
 「イデオロギーの魔力と、不寛容の行きつく先はテロリズム(暴力)である」と記す、著者の重い言葉。本書を読みながら自由を求めて立ち上がった香港の若者や、ミャンマーで軍事政権にあらがう市民の姿が、ふとまぶたに浮かんできた。