川口大三郎君追悼資料室目次へ
 
 
会うことのなかった奥村真先輩に捧ぐ(後半) 
 
       樋田毅
 
追悼集出版の会編著『繚乱の春はるかなりとも 奥村真とオールドフェローズ』(ウェイツ 2014年8月1日初版第1刷 1800円+税)収録。同書p126〜p142。
同書は愛知県立旭丘高校生徒、早稲田大学第一文学部学生であった奥村真氏(1949年〜2009年)の追悼文集。
 
樋田毅氏は1972年早稲田大学第一文学部入学。早稲田大学第一文学部(再建)学生自治会臨執委員長、同執行委員長であった。樋田毅氏の同意を得て、転載する。この文の前半は愛知県立旭丘高校生徒運動の回想のため割愛し、後半のみ転載する。前半を読みたい方は『繚乱の春はるかなりとも』を購入していただきたい。
 
PDF版は、同書コピーである。PDF版
  私が早大一文に入学したのは72年。J組という中国語の語学クラスで、担任の教授が挨拶をしていると、自治会でJクラス担当だというHと名乗る学生が入ってきた。「大学の講義は90分とされているが、後半の30分は我々が長年の闘いで勝ち取った自治会の時間です」と言い、教授を外に追い出して、第一文学部学生自治会の現状や歴史などを語り始めた。キャンパスの周辺のあちこちで革マル派のヘルメットをかぶった、いかつい表情の学生らが警戒しながらチラシを配っているのも異常だったが、連日の授業に介入し、新入生に思想調査さながらの質問を繰り返す姿に、級友たちから激しい反発がめばえた。

 

やがて、「第一文学部自治会選挙闘争委員会」という「組織」が立ち現れ、この闘争委員会の指導で、革マル派に親近感を持つクラス委員の選出を促された。我々1年J組は、この指導に抗って温厚な人柄の対立候補を立て、投票によって、彼をクラス委員に選んだ。この時、私は闘争員会のメンバー(革マル派)から文字通り睨まれ、「自治会室へ来るか」とすごむような声音で言われたのを覚えている。5月の連休明けに開催された学生大会の異様さも忘れられない。体育館の会場の様子を見に行った級友が血相を変えて戻ってきて、「大変だ。1年J組の座席を示すプラカードが会場の最前列の真ん中に用意されている」と伝えた。危険を感じて、クラス委員の出席は断念してもらうことにし、しばらく様子を見たあと、私を含めた級友たちはばらばらに会場に入った。会場では革マル派独特の長文の大会決議案を読み上げたあと、決議案への賛否を問う投票となった。この時、賛成票を入れる投票箱は普通の箱だったのに対し、反対票を入れる投票箱として使われたのは、「ゲバマル」(ゲバルト=暴力を振るう革マル派の活動家)と呼ばれた学生が手にする革マル派のヘルメットだった。私たちは反対票を投じる気持ちが失せ、黙って会場を出るしかなかった。

 

 早稲田祭が終わって間もなくの11月8日、決して忘れることができない事件が起きた。この日午後、私たちの語学クラスの1年先輩、2年J組の川口大三郎さんが革マル派の活動家らに文学部キャンパス内で拉致され、自治会室と彼らが称していた教室に連れ込まれた。拉致される際、たまたま一緒にいた2Jのクラスメートらが救出しようとしたが、阻まれ、翌日朝、凄惨な暴行の跡を残した川口さんの遺体が東京大学本郷キャンパスの正門前で発見された。川口さんは革マル派と対立していた中核派の活動家と疑われ(事実は異なっている)、その追及の過程で集団リンチを受け、絶命したのだ。

 

 革マル派の思想・主張がどうであれ、こんな殺人事件を起こし、キャンパスを暴力支配する体制は絶対に許せない。少なくとも、私はそう考えた。事件の3日後の11日に1年J組の仲間たちと一緒に、文学部キャンパスの入口のスロープわきに立ち、「革マル派自治会を糾弾するため、立ち上がろう」と呼びかけた。賛同の輪が次々に広がった。最初のころ、そのほとんどは1年生のクラス単位での参加だった。A、B、C、D、E、F、G、H、I、K、L、M……。それぞれのクラスの代表らの名前、顔を今でも思い浮かべることができる。入学して初めて(あるいは、生まれて初めて)立て看板を書き、プラカードをつくり、ハンドマイクを入手して、「これまで早稲田には自由がなかった」「自由なキャンパスを取り戻すために、革マル派の自治会をリコールしよう」と口ぐちに訴えた。私たちは、暴力の恐怖で上から押し付けられた自治会ではなく、クラス討論をもとにした手作りの自治会をつくる。そんな思いを込めて、「第一文学部クラス討論連絡会議」と名乗ることを決めた。そのさなか、私は川口さんと同じ2年J組の知り合いのNさんに喫茶店に呼び出された。「樋田、そんなことをしていると、間違いなく革マル派に襲われるぞ。俺たちは革マル派に見つからないように、こうして喫茶店を転々としながら横の連絡網をつくっている。身の安全をもっと考えろ」とまくし立てられた。そうか、2年生以上がなかなか集まらないのは、革マル派への恐怖心が身にしみついていたためだったのか、と納得した。しかし、文学部スロープ下の集会は、約500メートル離れた本部キャンパスでの学生集会とも呼応して、日に日に膨れあがり、大学全体では数千人単位、さらに1万人以上の規模となって、連日続いた。両キャンパスを埋め尽くす学生たちの歓声、拍手、マイクを通して響き渡る訴え。その盛り上がりは、11月17日に大隈講堂で開催された川口君の学生葬で頂点に達した。川口君を女手一つで育てた母親、さとさんが出席し、無念の思いを語ると、会場は涙で包まれた。学生葬には、革マル派の文学部自治会の田中委員長も途中から押し入るように出席した。2Jの川口君の級友たちが号泣しながら、「川口を生きて返せ」と田中委員長に詰め寄っていた光景が忘れられない。11月28日、全学の学生らの支援を受けて、第一文学部学生大会を開催した。大歓声の中で、革マル派自治会執行部のリコールを可決したあと、自治会の再建を担う臨時執行部を選出。私はその臨時執行部の委員長に選ばれた。「川口君が殺された事件を機に、怖い物知らずの1年生が動き出した。私たちが、たまたま最初に『この指止まれ』と指を差し出したところ、その上に何千もの仲間たちが重なってくれた。今は、その重みにつぶれそうだが、最初に指を出した者の責任を自覚し、早稲田に自由を取り戻すため、最後までやり抜きたい」。当時、私はこんなことを集会などで話していた。

 

 しかし、発足した臨時執行部はさまざまな考え方、背景を持つ者の寄り合い所帯だった。私を含めた1年生グループは、地道なクラス討論を踏まえた手作り自治会を志向していた。これに対し、かつての全共闘運動、あるいは革マル派と敵対する諸セクトにシンパシーを持つ上級生の執行部メンバーも多く、共産党の下部組織である民主青年同盟に所属する者もいた。革マル派の自治会リコールでは一致していても、その後の闘い方、自治会再建のあり方をめぐってとめどなく議論が続いた。その一方で、学生大会を終え、冬休みをまたいだ時期から、集会などの動員力が次第に衰えてきた。革マル派は、それを待っていたかのように、さまざまな形の暴力を使い始めた。たとえば、私たち臨時執行部側の集会を集団で妨害し、発言者を取り囲んでつるし上げる。個別の恫喝によって自己批判を強いるのだ。その被害にあった1年生の仲間の何人かが、運動から離れていった。政経、法、教育学部などがある本部キャンパスでは、革マル派と中核派の鉄パイプ部隊が激突し、投石が飛び交う「戦争」も起きた。さらに学生が少なくなった春休みになると、本部キャンパスの教育学部校舎の教室で開いた私たちの小さな集会が革マル派の襲撃を受け、多数の負傷者が出てしまった。革マル派の学生たちが無防備な私たちを教室の隅に追い詰め、一人ずつ指さしながら、鉄パイプなどで襲った。私の脳裏には今も、その光景がスローモーションの映画の場面のように焼きついている。鉄パイプを振り下ろす革マル派の学生は、口を半開きにしたままで、不気味なほど無表情だった。悲鳴をあげる仲間の苦しげな顔。鉄パイプが額にあたる時の低い、無機質な音。ほとばしる血。大学を卒業し、社会人になってからも、ひどく疲れた夜などに、そうした場面の夢でうなされ、思わず飛び起きたことが何度かあった。

 

 こうした革マル派のむき出しの暴力、テロに、どのように立ち向かうのかをめぐり、自治会執行部内の意見は割れた。「暴力に対抗するには、われわれも自衛のため武装するしかない」「ヘルメット、竹竿は全共闘運動のスタイルだ」などの主張に、私は反対した。「革マル派がもし、日本全国をくまなく暴力支配している状態なら、私も武装に賛成するかもしれない。しかし、彼らが暴力支配しているのは早稲田のキャンパスの内側だけで、キャンパスから一歩外に出れば、平和な日常がある。そんな中で武装しても、われわれが依拠すべき学生の支持は得られない」。私は繰り返し、こう主張したが、受け入れられなかった。激しい議論が何日も続き、平行線のまま、互いに消耗していった。

 

 私自身が革マル派に鉄パイプで襲われたのは、キャンパスに新入生を迎えた5月初めだった。学生集会を開くため、文学部キャンパスの大教室の前でマイクを持って新入生に参加を呼びかけていたところ、突然、見覚えのある革マル派の学生が現れ、「こいつが樋田だ」と指さして叫んだ。すると、見知らぬ数人の男たちが私を羽交い絞めにし、押し倒した。「足を狙え」という声とともに、私の両足などをめがけて鉄パイプが何度も振り下ろされた。「学館(革マル派が拠点としていた施設)へ連れていけ」という声も聞こえた。私は近くの鉄柱にしがみつき、身体をエビのように丸めて、痛みに耐えていた。鉄パイプは腕と頭部にも振り下ろされた。男たちが去ったあと、私は救急車で日赤病院に運ばれ、入院した。両目は内出血で真っ赤になっており、両足の足首ははれ上がり、看護師さんから「ゾウさんの足のようだね」と言われた。

 

 退院後の約1カ月後、私はやっと歩けるようになり、級友たちに守られて一度だけ登校し、授業を受けようとした。が、途中で革マル派の学生らに見つかり、級友たちとともに教室に長時間閉じ込められた。救出にかけつけてくれた別の仲間の先導で、なんとかキャンパス外に逃れたが、その途中、級友たちも含めて殴る蹴るの暴行を受けた。もう大学には通えず、その後3年間、社会学ゼミのフィールドワーク(農村調査)以外のほとんどの課目をリポート提出でしのぎ、やっとの思いで卒業した。

 

 私たちがキャンパスに入れなくなるとともに、第一文学部自治会の活動は停止状態となった。「武装」を主張した仲間たちは一度、ヘルメットと竹竿の姿で文学部キャンパスに並び、日常生活に戻っていた学生たちに「もう一度立ち上がってほしい」とハンドマイクなどで呼びかけたという。彼らの一部は「最後の闘いの場」として本部キャンパスの図書館を選び、立てこもった。機動隊に排除され、逮捕者も出て、その裁判闘争が長く続いた。

 私たちの闘いの結末は、決して誇れるものではない。しかし、自由を求めてセクトの暴力支配に「ノー」と言い、クラスの討論をもとにした手作り自治会を目指した私たちの闘いは、間違っていなかったと思う。私は、早稲田の私たちの運動を、市民が自由を求めて立ち上がり、ソ連の戦車に押しつぶされた1968年の『プラハの春』になぞらえて、その意味を今も考え続けている。

 

 あの早稲田のキャンパスで、奥村先輩に出会った記憶は、私にはない。しかし、奥村先輩の親友だった松崎重利さんとは当時、何度も顔を合わせ、議論していた。松崎さんの紹介で、かつての第二次早大闘争を担った先輩たちに会い、革マル派の実態について話をうかがったこともある。そのどこかで、奥村先輩とつながっていたようにも思う。

 私は大学卒業後、1978年に朝日新聞社に入った。記者生活の大半を事件記者としてすごしてきた。87年5月3日に兵庫県西宮市の阪神支局で後輩記者が「赤報隊」を名乗る右翼とみられる犯人に散弾銃で射殺される事件が起きた後は、取材班のキャップとして時効成立まで16年間にわたって犯人をひたすら追いかける取材を続けてきた。取材の途中で右翼に脅されたことも度々あるが、「反日朝日の社員を死刑にした」「赤い朝日は60年前(戦前)へ返れ」という赤報隊の主張を認めるわけにはいかない。事件の真相を求めての右翼取材は、定年で契約社員となった今も続けている。私は社内で、いわゆる出世コースには乗らなかった。残る人生も、ジャーナリストとして自分らしく生きたいと思っている。