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運動の中・後期を振り返って考える
                                         
 
 
第一文学部2年T組 H.S.(瀬戸宏)
 
 
*初出は元早大一文学生有志サイト「1972年11月8日−川口大三郎の死と早稲田大学」(2017.5.18)。転載にあたって、初出では他の書き込みとのバランス上Sなど頭文字にしたものを、筆者の名のみ実名に改めた。
 
写真は1972年11月28日一文学生大会を報じる翌日朝刊の毎日新聞。不鮮明だが、2Tクラス(筆者在籍クラス)プラカードが映っている。(2017.5.23)
 1.はじめに
 私が川口君の死を最初に知ったのは、自宅アパートで1972年11月9日夕刊社会面トップに掲載された川口君遺体発見記事を読んだ時だった。あり得ないことが起きた、と、ついに起きたか、という二つの矛盾する思いを同時に抱いた。早大文学部では11月8日以前から革マル派の反対派学生さらには一部教員への暴行が相次いでおり、暴行リンチはすでに日常の風景だった。それでも、死という現実は感情の許容範囲を超えていた。マンモス大学のため生前の川口君には一面識もなかったが、こうして私は川口君虐殺糾弾運動に飛び込んでいく。
 
 私見では、川口君虐殺糾弾運動は大きく初期(1972年11月8日−1972年11月28日一文学生大会、一文自治会革マル執行部リコール、臨執選出)、中期(1972年11月29日−1973年3月末)、後期(1973年4月1日−1973年11月8日)に分けられると思う。初期にも鮮烈な記憶はあるが、ここでは余り人に語られない中・後期を振り返り、私なりに考えたことを記してみたい。
 
2.運動中・後期の武装化−暴力性肯定をどう考えるか
 運動初期と中・後期の大きな相違は、運動内部の分裂が露わになったことである。クラスに基礎を置いた真の学生自治会を樹立することを運動の目的とした部分と、川口君の死は早大管理支配体制がもたらしたとみなしその打破を目的とする部分の対立である。後者は、単なる自治会再建ではこの目的は達成できないとし、主に行動委員会という組織形態で武装化を実行し暴力性を肯定したのである。
 
 1973年5月8日の村井総長強制拉致は、この暴力性肯定の端的な現れであり、運動の敗北を導くものとなった。この総長拉致は当事者以外には秘密裏に準備され、私は事前にまったく知らなかった。当日居合わさなかったこともあり、誰によってどのように企画・準備され、誰が実行したか、その詳細を私は今でも知らない。
 
 川口君虐殺を引き起こした大学管理運営の責任者として、総長団交自体は運動の初期からの目標の一つであったが、教員として理工学部(当時)で授業中だった村井総長の教室に乱入し、暴力行使で本部キャンパス8号館に拉致して総長団交を迫るという運動形態が、運動の当初の目的や学生総体の思いと合致していたのか。村井総長は8日の段階では総長団交に応じることを約束したが、学生総体に依拠しない暴力と代行主義による団交確約は、早大当局によってあっさりと反古にされた。
 
 運動敗北の最大の要因が、革マルを温存した方が学内が安定するという早大当局の方針決定にあるのは、大方の一致するところだろう。早大当局がこの方針を最終決定したのは、経過からみて5月8日総長拉致を契機とした可能性が極めて強いのである。
 
 暴力性の肯定とその実行は、当時とその後の学生・一般社会に、川口君虐殺糾弾運動は新左翼内ゲバ対立の一部という印象をも形成させた。暴力性を肯定した部分は、運動の中・後期には実際にヘルメット姿で角材や鉄パイプを持って革マルと対峙したから、当人の意向とは関係なく外部からそう見られたのはやむを得まい。武装化を実行した部分は革マルのテロに対抗するためだ、と主張したが、武装襲撃のセミプロの革マルに急ごしらえ学生集団が武装したところで勝てる筈がないことは、当時でも明らかだった。
 
 虐殺糾弾運動総体が暴力性を肯定したわけでは決してないのだが、見た目に派手な部分に外部の目が集中するのは仕方が無い。私は、1973年前半には川口君虐殺糾弾運動の記事が新聞各紙にまだかなり出ていたのに、年末の年間回顧記事ではほぼ完全に無視されたことに衝撃を受けた記憶がある。73年後期から革マルと中核・解放派の殺し合い内ゲバが激化し、川口君虐殺糾弾運動もその一部の特記する必要の無い出来事とみなされてしまったのであろう。
 
3.運動中・後期での分裂局面と敗北
 後期に入ると革マルのテロも始まり、運動は困難さを増し、内部対立は深刻化していった。今思い返してもおぞましい思いがするのは、運動の内部で面罵恫喝、陰口中傷、運動のヘゲモニーや進め方をめぐる陰謀・権謀術数など、分裂に付随しがちな悪しき人間関係が、直接的暴力を除いてすべて現れたことである。当然ながら、運動は先細りしていった。
 
 更に私を驚かせたのは、それまで比較的「穏健」な立場の運動参加者を激しく罵倒・批判していたのに、ある日を機に突然姿を見せなくなり運動から消えた者が何人もいたことである。それまでの大言壮語と相容れないこの行動に、私は強烈な無責任さを感じた。
 
 運動は1973年11月8日の11.8一周年集会が分裂集会となり、事実上収束した。第一文学部学生自治会という形態でいつまで会合がもたれていたか、私は記憶が定かでないが、最後は数人だったことは記憶している。
 
 こうして運動は敗北した。運動の目的は、何も達成できなかった。逆に、かえって悪くなった。運動に関わった者ほぼ全員が長く沈黙し、運動の経験も次の世代に継承できなかった。
 
 川口君虐殺糾弾運動を思う時、「私たちは正しいことをしました。頑張りました。しかし相手が強すぎたので負けました」でいいのか、と常に思う。運動の内部にも、敗北の原因は明らかに存在している。
 
 ただし、運動に関わった者すべてが負けたのだ。現時点で特定の個人やグループに対して四十数年前の敗北の責任追及をしても何の意味も無い。思想状況が大きく変化した今日の日本では、四十数年前の歪んだ左翼運動がもたらした一人の死者と結果を出せなかった運動に関心を持つ人はほとんどいないに違いない。それは仕方のないことである。だが、川口君の死が完全に忘れられてもいいのだろうか。運動に参加した者に必要なことは、運動参加の初心を振り返りつつ、川口君の死と運動の意味をそれぞれの場で問い続け、それぞれの形でささやかでも語り続けることではなかろうか。
 
4.川口君の死の意味
 虐殺糾弾運動を思う時、心が痛むことが一つある。川口大三郎君のお母さんが一時期勝共連合に絡め取られてしまったことである。川口大三郎君の人柄を知るという点では、行動委系の追悼集『声なき絶叫』より勝共連合系の『早稲田文化』四号の方が役に立つ。川口家から資料が出ているからである。なぜお母さんに最後まで運動の側に寄り添ってもらえなかったのか。私も含めて運動に参加した者は、川口君の死を一番悲しむ立場のお母さんやご親族のことは案外忘れていたのではないだろうか。
 
 虐殺糾弾運動のかなり有力な部分が暴力を肯定し実行した結果、川口君も、百人以上いる新左翼内ゲバ死者の一人に過ぎないと見なされることになった。川口君を知っている人たちがいくら川口君は中核派ではなかった、内ゲバ死者ではないと叫んでも、効果は薄いのである。
 
 私もかつては川口君の死は、内ゲバ死者とは別だ、と考えていた。今でも区別したい気持ちは残っている。その死を糾弾する運動に広範な学生が立ち上がり、曲がりなりにも一年間続いたのは、川口君しかいないのである。
 
 しかし、今は川口君の死を内ゲバ殺人の一部とみなしてもかまわない、とも考える。革マルの行為を肯定するのでは決してない。川口君がもし中核のシンパだったら、授業を終えた学生を自治会室に強制連行してリンチ殺害する行為が許されるのだろうか。内ゲバ死者とされる者の中には、川口君と裏返しで、革マルとは無関係だったのに中核派によって革マルと誤認され殺された者も何人もいる。更には革マル・中核など党派所属者の死も、当人を直接知っている親族やその友人にとっては理不尽な悲しむべき出来事であるに違いない。
 
 川口君は不幸な死者の代表である。私たちは、川口君の死を弔うと同時に、内ゲバ死者全体を弔わなければならないと思う。それは、歪んだ暴力行為の肯定とは別のことである。
 
5.2Tクラスについて
 11.8当時の在籍クラス2Tについても、語っておきたい。中期以降の分裂局面は、2Tにも現れた。私は暴力性肯定傾向には反対の立場だったが、暴力性を肯定する同学からは「瀬戸は川口君の死を政治的に利用している」などの批判罵倒を浴びせかけられた。その他にもいろいろあるが、今は書かない。一文自治会執行委員会が正式に選出された73年1月27日自治委員総会の後に金城庵で開かれたクラス会で、私は悔しさで号泣した記憶がある。これが在学中の最後のクラス会になった。
 
 批判罵倒されたのは私だけではなく、クラスの人間関係はズタズタになった。四〇年間クラス会が開かれなかったことが、そのことを如実に示している。四〇年ぶりのクラス会の中心になったI君によれば、当時の傷がまだ癒えていないと出席を断ったり、本人確認すら拒否した同学がいたという。
 
 ともかくI君らの努力で2012年7月にクラス会は開かれ、約二〇名が出席した。さすがに皆大人になったのか、和やかに会は進み終わった。私が驚いたのは、私が自己紹介で簡単に川口君事件について話したほかは、誰一人として川口君について触れなかったことだった。川口君という人物も虐殺糾弾運動も、そんなものは存在しなかったかのようであった。
 
 運動の渦中にいた人たちが川口君を語らなかったら、誰が川口君を語るのか。このままでは川口君は永遠に忘れられてしまう。私が2014年に川口大三郎君追悼資料室を開設したのは、この時の驚きが大きな理由であったことは確かである。
 
 四年後の2016年7月、2Tクラス会が再び開かれた。私はこの時、資料室に書いた二編の文章と2Tプラカードが映った1972年11月28日一文学生大会を報じる新聞記事コピーを配布し、魯迅の「死者が生きている人間の心の中に存在していなかったら、本当に死んでしまったのだ」(「空談」)を引いて、四年前の会での驚きを述べ、川口君を忘れないで欲しい、と訴えた。私の話の後、ある同学が「瀬戸君は体は二倍になったけど(肥ったということ)、話していることは学生時代と少しも変わっていない。感銘を受けた」と挨拶で語ってくれて嬉しかった。