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                        三代目の北京人芸『雷雨』
                                                                                                      瀬戸宏

北京人民芸術劇院が今年曹禺『雷雨』を再演した。1954年の初演以来三代目になる『雷雨』上演である。報道によれば、7月22日から上演が始まっている。私はこの夏も北京を訪ね、8月7日にこの『雷雨』を観ることができた。満席ではなかったが、約八割の入りで、北京人芸『雷雨』が今日も一定の観客吸引力をもっていることがみてとれた。
 
1934年発表の『雷雨』は、周家という裕福だが封建的要素が色濃く残る資本家家庭の崩壊を描いている。ある夏の日の午前から劇が始まり、劇の進行過程で周家をめぐるさまざまの問題がしだいに明らかになっていく。そしてその日の深夜、劇の最後で矛盾が爆発し登場人物のうち三人が死に二人が発狂するという悲劇で幕がおりる。イプセンに代表される近代劇と同質の作品である。『雷雨』は中国話劇の成熟を示す指標的作品として扱われ、今日まで上演回数が最も多い劇でもある。
 
北京人民芸術劇院は1954年に『雷雨』を初演している。演出は夏淳。夏淳演出の特徴は、登場人物の個性の表現に重点を置き、写実に徹したことである。舞台装置は1920年代の資本家や下層庶民の家庭を忠実に再現したものを用い、照明・効果音も自然状態に近い。中国の話劇によくある劇のクライマックスで情緒的な音楽が流れたり原色の派手な照明があたったりするあざとさは、この夏淳演出『雷雨』にはない。演出家の自己主張を抑え、戯曲の内容を忠実に舞台で再現しようとする演出手法の典型的な例である。
この『雷雨』上演は成功し、以来北京人芸は夏淳演出によって『雷雨』を上演し続けている。夏淳演出『雷雨』は、老舎『茶館』(焦菊隠演出)とともに北京人芸の上演風格形成に重要な役割を果たした。1979年5月の『雷雨』再演は、文革終結直後の名作劇上演の最も早い例の一つとなった。しかし、この時の俳優は基本的に一九五四年以来の俳優が演じていた。二代目の『雷雨』上演は1989年10月で、俳優が一新している。夏淳は1996年に逝去したが、北京人芸はその後も夏淳演出による『雷雨』上演を続けている。そして、2004年が『雷雨』発表70周年、北京人芸『雷雨』上演50周年にあたるため、北京人芸は再び俳優を一新して『雷雨』を上演することにしたのである。今回も演出は夏淳とされ、顧威が再演演出としてプログラムに名を連ねている。
 
今回の三代目『雷雨』上演の意義はどこにあるのか。
 
まず、北京人芸という劇団が五十年前の演出スタイルを基本的に保持し、今後もそれに従って『雷雨』上演を続けることを宣言したことである。これは、北京人芸が自己の上演伝統を今後も保持し続けるという宣言でもある。日本演劇界では、一人の俳優が同一演目を上演し続けることは、森光子『放浪記』などいくつか例があるが、代を越えての同一演目、同一演出上演は文学座『女の一生』しか思い浮かばない。中国話劇界でも極めて珍しい。北京人芸では、同じ例として老舎作、焦菊隠演出『茶館』があったが、1999年の首都劇場リニューアルオープンを機に演出家が林兆華に変わり、演出処理も当然変化している。
 
もう一つは、現在の中国演劇界は八十年代の実験演劇以来さまざまな手法の上演がおこなわれているが、その中で純写実による「伝統話劇」上演をおこなう意義である。私は、中国の一部の演劇人がいまだに持ち続けている話劇がすべてという発想には同意しないが、逆に話劇の伝統を完全に放棄してもいいとも思わない。伝統があるからこそ、実験が可能になるのである。北京人芸は今日中国最高の劇団という栄誉を獲得しているが、それはこの「伝統」の存在と不可分であると思われる。
 
もっとも、夏淳演出踏襲といっても、細部の手直しは夏淳健在中から行われてきた。今回は、開演直前や休憩時間に雷鳴の効果音を流し、幕切れを一人立ちすくむファンイーの姿で終わらせた。これは、ファンイーを演じたのが第二代からただ一人残ったコン麗君であることとも関係があろうが、まるでファンイーが主人公のようになった。第二代『雷雨』では自殺する周萍のピストルの音を聞いて皆が駆けだし無人の舞台で終わらせ、第一代では一人呆然とソファに崩れ落ちる家長の周樸園の姿で終わっていた。資本家家庭の崩壊としてみれば、第一代の処理が最もよく、ファンイーが主人公というのは、劇構造からいってやや無理があると思う。
 
率直に言って、私が観た日の上演成果は決して理想的なものではなかった。特に魯貴(王大年)、四鳳(白薈)、侍萍(王斑)がよくない。まだ俳優が不慣れなのか、別の原因があるのか。純粋な話劇、近代劇上演であるこの北京人芸『雷雨』は、今日の中国演劇界で貴重である。今後、より練り上げた舞台を作ってほしい。
                          原載、ACT3号2004/11/14 国際演劇評論家協会日本センター