三.巡り会い


 少年がそこに来たのは、初めてだった。
 そこを知らなかったわけではなかった。しかし、行こうと思ったことはなかった。
 街が一望できる高台に、登ろうと思ったことはなかった。

 気まぐれか。それとも虫の知らせでもあったのだろうか。少年は初めて、その高台に登った。
 五十段は有ろうかという石造りの階段を登った少年の目に最初に飛び込んできたのは、柵の上に腕を預けて街を見下ろしている、金色の髪の少女の姿だった。
 肩口で切りそろえられたその髪は、強い日差しに洗われて、白く透き通って見えた。

 階段を上りきったところで少年は、そのまま暫し、少女を見つめていた。つまりは、少女に見とれていた。

 少しして、少女が少年をちらりと見た。どうやら少年の視線に気付いたようだ。少年はビクリと肩を震わせて、ばつが悪そうに頭を下げる。対して少女は、怪訝そうな顔で上目遣いに少年を見たまま、小さく会釈をした。

 少し躊躇した少年は、それでも一歩を少女に向けて踏み出し、ぎこちない笑顔を少女に向けた。少女は怪訝そうな表情を変えなかったが、ふと、何か、気に掛かるものを感じた。
「こ、こんにちは」
 少年の第一声は、極めてありふれた挨拶だった。少女は何故か、軽い失望と安堵が入り交じった気持ちになった。少女は変わらない表情で、少年から目を離さずに、顎をしゃくるような会釈をした。
「ここ、いい眺めですね」
 少年は右手に広がる街を見て、少しだけ落ち着いた声で言った。
「僕、ここに来たの、初めてなんです」
 そう言って少年は、多少こなれた笑顔を少女に向けた。
「あなた……もしかして、私をナンパしてるの?」
 怪訝そうな表情を崩さないままに、少女は言う。
「あっ、そ、そうじゃないんだけど……」
 少年は慌てて弁解する。
 その様子を見て、不思議と笑いがこみ上げてきた少女は、くくく、と、くぐもった笑いを漏らした。
 少年の顔は不機嫌を露わにする。
「ごめんね、なんだか急に懐かしい気分になって」
 そう弁解する少女の目尻には、変わらず笑いが張り付いていた。
少年は、不思議な既視感をその笑顔に見た。
「ここ、良く来るの?」
 少年は少女の数歩隣まで歩くと、街を望みながら少女に問い掛ける。
 少女も同じように、眼下に広がる街を眺めながら言った。
「良く来るって程でもないわ。たまによ、たまに」
「あなたは?」
 少女は頬に笑みを浮かべたままに言った。
「あなたはどうして、ここに来たの?」
 少年は少し考えてから、答えた。
「わからない。なんでここに来たんだろう。わざわざ遠回りして……」
 妙に難しい顔をする少年を見て、少女はまた、笑みを漏らした。
「あなた、真面目なのね」
 そう言って少女はまた、くくく、と笑った。
 少年は、やはりむっとしたのだろう。少女を無視するように、街を見下ろしていた。
「ゴメン、悪気はなかったのよ。ゴメンね」
 少女は、少年にぺこりと頭を下げた。
「あなた、私が良く知ってる人に似てる気がしたのよ。だからなんだかおかしくなって……ゴメンね」
 ふうん、と少年は曖昧に答えると、改めて少女の顔を見た。
 少し赤みがかった金色の髪。そして蒼い瞳。その二点が彼女を特徴付けていた。『外国人なのかな』と、少年はその時思った。

 その視線に少女は気付いたのだろう。身を半歩引くと、少年を横目遣いに見て言った。
「なによ、ジロジロ見たりして……」
「あ、ご、ゴメン。そんなつもりはなかったんだけど……」
 少年は真っ赤な顔でどもった。
「でも……」
「でも、なによ」
「でも、君のこと、何処かで見たような気がして……ゴメン」
「なーんだ、私の美貌に見とれてたのかと思った」
 少女は瞳の色をくるりと変えて、少年の目を覗き込みながら言った。
「ちょっと、残念」
「えっ?」
「あはは、じょーだんよ、冗談」
 そう言って少女は、大きな声で笑った。
 今度の笑い声は、少年に心地よく響いた。

「明日もここに来るの?」
 少年のその一言は、何かの弾みだったのだろうか。それとも、約束されていたのだろうか。
「なになに?それって明日も私と会いたいってこと?」
「あ、いや、べ、別にそう言うわけじゃ……」
 慌てて少年は言う。
「あっそ、じゃ、会いたくないんだ」
 少女はプイとそっぽを向く。
「え、あ、そうじゃなくて……」
「会いたいの、会いたくないの。どっちかはっきりしなさい!」
 問いつめられた少年は、即座に返答する。
「会いたいです」
「よろしい」
 そう言って少女は、少年の顔を正面から見据えながら、にこりと笑う。
 少女の蒼い瞳に見つめられて、少年は鼓動の高まりを押さえられなかった。両手が汗ばむ。頬の熱が上がっていく。

 少女は、今の自分がわからなかった。
 目の前の少年は、取り立ててパッとしているわけではない。細い線の顔立ちは悪くはなかったが、特徴に欠けた。体も細く、頼りなげだ。時折見せるおどおどした表情は、彼女の神経を逆撫でさえする。どう考えても、先程告白された男子生徒の方が良い男だ。
 それでも少女は、今の自分に抗うことはしなかった。

「じゃあね」
「あ、ま、待って」
 軽く手を振ってその場を離れようとした少女に、少年は思わず声を掛けた。
「明日、会えるの?」
 頬を赤らめながら俯き加減に問う少年に、少女は小首を傾げて答える。
「さぁ、どうかしら?」
「縁があったら、もう一度」
 そう言い残して、少女は去っていく。
 歩く度に、金色の髪が煌めく。少年は改めて、綺麗だな、と思った。

 少しして、不意に少女は振り返った。大きな声で、少年に問い掛ける。
「ねー、あなたの名前、なんて言うの?」
 その時少年は初めて、お互いの名前さえ知らないことに気付いた。何故だろうか。少年は、少女の名前を知っているような気がしていた。
 少年は、めったに出さないほどの大声で答えた。
「浜田シンイチって呼ばれてる」
「呼ばれてるって……どういうこと?」
「それは……」
「あ、いいわ。私は漣ハルカ。じゃ、またねっ!」
 そう、大きな声で言い残して、少女は走り去った。

「またね、か」
 少年は火照った頬を掻くと、来た道を引き返した。
 少年は気付いていないのだろうか。その足取りは、今までにないほどに軽かった。






四.『シンイチ』と『ハルカ』

 

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