二十.終わりと始まり


 その日は朝から日差しが強かった。テレビでは、今日はこの夏一番の暑さになるでしょうと、ノースリーブの涼しそうなシャツを着たお天気お姉さんが、笑顔を振りまきながら喋っていた。

 サードインパクト以降、日本列島は四季を取り戻していた。


 アブラゼミが鳴いていた。


 セミの声は好きになれない。少年はそう思った。セミの声は、悪戯にいろいろなことを思い出させる。

 盛夏のその日。セミが鳴き時雨れるその日。少年と少女は、連れ立って街を歩いていた。手と手を繋いで、街を歩いていた。それは、とても微笑ましい光景だった。

「でさ、その子がね……」
「へー、そうなんだ」

 どうやら、話も弾んでいるようだ。その日、二人は『休息日』を楽しんでいた。今日はここ暫くと違い、二人の間のギクシャク感も、あまり感じられなかった。

「ン?なに見てるの?」
「いや、ちょっと……」
 不意に立ち止まった少年の視線の先には、楽器店があった。ショーウインドゥには、多くの楽器が飾ってある。
「へぇ、シンイチって楽器にも興味があるんだ」
「うん、まあね」
「じゃ、ちょっと入ってみようよ」
 少年の返答を待たずに、少女は少年の手を引いて店内へと向かった。少年も連れられるままに、店内へと入っていく。
 店内には、数多くの楽器が所狭しと並べてあった。その中でも、弦楽器の多さが目を惹いた。
「ふーん、たくさんあるのねぇ」
 感心したように呟く少女には応えずに、少年は店内をぐるりと見回していた。すると少年のお目当てのものはすぐに見つかったようで、少女の手を引いて、少年はそこへ向かった。

「ね、僕がこれを弾けるって言ったら、ハルカは驚く?」

 珍しく、少年は少し戯けて言った。
 それは、ある意味では、少年の失敗だった。

「え、シンイチ、これ弾けるの?」
「ちょっとだけどね」
「ホント?凄いじゃない!ホントに弾けるの?」
「全然上手くないんだけど、一応」
「へー、そうなんだ。今度聴いてみたいな」
「そこのチェロ、弾いてもいいよ」
 背後からいきなり割り込んできたのは、その店の店員だった。年の頃は三十半ばくらいだろうか。この店の店長かな、と少年は思った。
「あ、いきなり割り込んでゴメンな。試しに弾いてみたら?彼女も聴きたそうだよ」
 そういって彼は、ニヤッと笑う。妙に男臭い笑い方だった。
「でも……」
「買えって言ってるわけじゃないし、どうだい、一曲」
 少年の返答を待たずに、彼は陳列棚からチェロを下ろす。
「それと、これがなくちゃ弾けないからね」
 そう言って彼は、隣に掛けてあった弓を少年に手渡した。
「じゃ、なにを聴かせてくれるのかな?」

 彼は一歩下がり、また、その男臭い笑いを見せた。少年は少女の顔をを伺う。少女の瞳は期待に満ちているように、少年をじっと見つめていた。
 少年はひとつ、大きく息を吐くと、手にしたチェロをじっと見つめる。

「じゃ、一曲だけ」

 少年は椅子に座ってチェロを立て、弓を構える。
 眼を閉じて、ひとつ、深呼吸をする。
 左手でネックの位置を確認して、ゆっくりと、少年は弓を滑らせ始めた。
 流れるような旋律から始まったその曲は、それなりの広さを持つ店内に、染み渡るように広がっていった。
 シンイチって、こんな顔もするんだ……。チェロを弾く少年の表情を見て、少女はそう思った。同時に少女は、ある種の郷愁感を感じた。

 三分ほどの演奏の終わりを、二人の拍手が迎えた。

「なによ、ちょっとだけなんて、ちゃんと弾けるじゃない!」
 少女は少し興奮気味だった。
「君の歳であれだけ弾ければ、立派なもんだよ」
 店長らしき男も、腕を組んで頷く。
「そんなことないです……」
 照れくさそうに、少年は頭を掻く。
「あ、これ、ありがとうございました」
 少年は丁寧に、チェロと弓を店長に手渡す。
「気持ちよかっただろ?」
 その男はまた、その笑い顔を少年に見せた。
「はい」
 少年も、笑顔で答える。
「また遊びに来てよ。待ってるからさ」
「はい、そうさせて貰います」
「ホント、ありがとうございました」
 少年と少女はそれぞれに言うと、また、手を取り合ってその店を後にした。

「若いってのはいいね」

 その男は二人を見送ると、眩しそうに呟いた。

             *

「ねぇ、変なこと言ってもいい?」
「え、なに?」
 いつもの少女らしくない様子に、少年は少し戸惑いながら答えた。
「さっき、シンイチがチェロ弾いたでしょ?それを聴いてね、私、なんだかずっと前にも、同じようなことがあったような気がしたの」
「えっ……」
「初めてなはずなのに……変よね」
「…………」
「それに……」
「それに?」
「それを感じたとき、なんか変な気持ちになったのよ。懐かしいような、それでいて辛いような……」
「…………」
「変な感じだった」
「……そう」

 それきり、二人は無言になった。

             *

 もしかすると二人は、自分の居場所を確認したかったのかもしれない。

 それから二人が来たのは、高台の公園だった。
 二人が初めて会った、高台の公園だった。

「ここからの景色、やっぱり好き」

 少女は柔らかにたなびく金色の髪を片手で押さえながら、呟くように言った。

 それきり、二人は無言になった。

 セミの声が聞こえた。
 それはひとつ。それはふたつ。それはみっつ。
 セミの声が聞こえた。
 それは二人に、囁きかけるように。
 二人の記憶に、呼びかけるように。

 そして、少年は。
 そして、少女は。

 少年は、少女の手を握り。
 少女は、その手に指を絡め。

 少年は、少女の蒼い瞳を見つめ。
 少女は、少年の眼差しを感じ。

 少年は、少女の肩を抱き。
 少女は、少年の握力を感じ。

 そうして縮まる、二人の空間。

『意外と、あっけないものなのね』

 少女はその時、そう思った。
 瞳を閉じて少年を待っていたその時、少女はそう思った。

 しかし。

 『その時』は、遂に、やって来なかった。

 戸惑う少女の瞳に映ったものは、苦悩に顔を歪める、少年の姿だった。

「ダメだ……」
「えっ……?」
「ダメだ、ダメだよ」
「なにが……」
「ダメなんだよっ!」

 絶叫する少年。
 戸惑う少女。

「僕はみんな知ってるんだ!思い出してるんだ!ずるいんだ!」
「僕は浜田シンイチなんかじゃない!碇シンジだ!ハルカだって漣ハルカじゃない!惣流アスカラングレーなんだ!」
「僕はみんな知ってるんだ!」
「な、なに言ってんのよ……」

 少女は混乱する。

「ダメなんだよ……」

 少年の手は、ズルズルと少女の肩を滑り落ちた。
 少年の膝は、固い地面にひざまづいた。

 そうして少年は、嗚咽を漏らす。

 少女は何も出来なかった。目の前でうずくまる少年に、為すべき術を持たなかった。
 それでも少女は膝を折り、少年の背中にその手を回した。


 セミが鳴いていた。
 二人の時を巻き戻すように、セミが鳴いていた。


「僕は、碇シンジだ。浜田シンイチじゃない」

 少年は、その一言を絞り出す。

「……話、聞かせてくれる?」

 優しい少女の声に、少年は小さく頷いた。

             *

「今まで、騙していてごめん」
「僕の記憶……戻っていたんだ」
「そうだったんだ……」

 少年は、紡ぐ言葉を選ぶかのように、暫し沈黙する。

「僕の名は、碇シンジ。浜田シンイチじゃない」
「そしてハルカは、本当は、惣流アスカラングレーって言うんだ」
 少女は、その名を以前、聞いたことがあった。少年があの時、叫んだ名だった。

「僕とアスカは、知り合いだった。いや、知り合いって言うよりも……なんて言ったらいいのかな……複雑な、関係だった」
「友達だったの?」
「友達、だったのかな……。一緒に戦って、一緒に住んで……」
「ちょ、ちょっと待ってよ。戦うってなに?一緒に住んでたって……」
「うん……」
 なにがなんだかわからない、と言った風情の少女に、少年は、ゆっくりとした口調で話し始めた。


 少年と少女の、短くて長い、物語を。

 辛くて悲しい、物語を。






二十一.アスカ、再び

 

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