十七.いらないもの、欲しいもの


 その日、朝から少年の様子は、少しおかしかった。ぼうっと壁を眺めたり、意味もなく歩き回ったりしていた。時折頭を抱えて、辛そうな素振りを見せる。そうしたかと思うと、またぼうっと外を眺める。表情は暗く、絶望感さえ漂わせている。

 ピンポ〜〜ンッ!

 チャイムの音にビクリとした少年は、数秒間迷った後で立ち上がり、玄関を開けた。

「おはよ、シンイチ」
 元気な少女が、いつもの笑顔で現れた。
「お、おはよう」
「なによ、辛気くさい顔して。せっかくこの私が来てあげてるんだから、少しは嬉しそうな顔、しなさいよ」
 少女はそう言って、少年の額をつつく。
「あ、あはは、そうだね」
 苦し紛れに笑う少年。その様子を見て、少女は顔を曇らせる。
「もしかして、また調子が悪いの?」
「あ、ううん、大丈夫だよ。うん、大丈夫大丈夫」
 言葉とは裏腹に、少年の表情は優れなかった。

             *

 少女は思った。やっぱり今日のシンイチは変だ。もしかすると、例の頭痛がしているのだろうか。それとも、心配事でもあるのだろうか。
 しかしながら少女は、今一つ訪ねる機を逸していた。

「……イチ」
「……イチ」
「シンイチ!」
「あ、な、なに?」
 三度目の少女の問いかけに、少年はようやく反応した。
「アンタ、やっぱり変よ。ちょっと……」
 少女は身を乗り出して、少年の額に掌を当てる。
「熱はないみたいね。やっぱり例の頭痛がしてるの?」
「あ、ううん、そうじゃないんだ」
「じゃ、なによ。どうしたのよ」
「うん……」

 少年はまた、視線を逸らした。

「ま、シンイチが平気ならいいんだけどさ」
 少女は、気を取り直したように言う。
「でも、平気じゃなかったら、ちゃんと私に言うのよ。そのために私がいるんだから」
「うん、ありがとう」
 少女は少しだけ満足したかのように頷くと、少年の手元のノートを覗き込んだ。
「あー、全然進んでないじゃないっ!」
「ゴ、ゴメン」
「謝らなくていいから、ちゃんとやりなさい!」
 少女は少年のこめかみをげんこつでつつくと、笑い混じりに叱咤する。
「うん」
 少年は苦笑して、またノートに向かった。

 暫くして。

「ハルカ、ちょっといい?」

 数回、少年は少女を上目遣いに伺うと、シャープペンシルを置き、ボソリボソリと話し始めた。

「実はこの前、病院に行って来たんだ」
「それって、例の頭痛のこと?」
「ううん、そうじゃなくて。実は僕、一ヶ月に一回くらい、精神科のお医者さんに診て貰ってるんだ。ほら、記憶喪失のことで」
「ああ、そのこと。私もそうよ。私も月に一回くらい、お医者さんに診て貰ってる」
「で、それがどうかしたの?」

 少女も数学の問題集から目を外し、少年の話に耳を傾けた。

「うん、その時にね、頭痛のことも言ってみたんだ」
「うん、それで?」
「その先生はね、もしかしたらそれは、記憶が戻る前兆かもしれない、って言ってた」
「え、凄いじゃない!」
「記憶が戻ろうとして脳が刺激されると、そう言う痛みが起こることもあるんだって」
「凄い凄い!良かったじゃない、記憶が戻るんでしょ!」
 興奮して、思わず少女は、パンッと両手を叩く。
「うん……」
 されど、少年の表情は冴えなかった。
「どうしたの?嬉しくないの?せっかく記憶が戻るのに」
 少女の問いに、少年は戸惑いがちに答えた。
「うん、本当はあまり、嬉しくない。なんだか、嫌な感じがするんだ。だって、僕は昔の僕のこと、全然知らないんだよ?もしかすると、昔の僕って言うのは凄く嫌な奴だったかもしれないんだよ?最低な奴だったかもしれないんだよ?」
 下を向いて、少年は言った。
「それが僕は怖いんだ」
「だから、もしそうなら、記憶なんて戻らない方がいいんじゃないかなって……」
「なに言ってんのよ!」
 少女は、勢い良く身を乗り出して、大きな声で言った。
「そんなことがあるわけないじゃない!なんでそんなこと思うのよ!大丈夫よ、シンイチはシンイチなんだから!」
「でも……」
「なに弱気になってるのよ。それに、もしかしたらその逆だってあるかもしれないじゃない。わからないことに怯えてたって、しょうがないでしょ」
「うん……」
「そんなに心配しなくたって大丈夫よ。シンイチに限って、そんなことはないわよ」
「ぜぇ〜〜〜ったいに大丈夫!保証付き!」
 力を込めて、少女は言い切る。その顔を見て少年は、やや笑顔になった。
「そうだね。うん、そう思うことにするよ」
「そっ、そう思ってなさい」
 少女はそう言うと、にこりと笑った。
「そうだ、今日はもう、勉強やめようか」
「え、なんで?」
「たまにはサボるのもいいんじゃない?ここのところ、ずいぶん真面目にやってたし」
「まぁいいけど……」
「あー、もう、じれったいわねぇ。せっかく私がデートに誘ってあげてるのに!」
「あ、ご、ゴメン」
 首をすくめて、少年は反射的に謝る。
「こーゆー時は謝らなくてもいいの!すぐ謝るその癖、直した方がいいわよ」
「ゴメン」
「ほら」
「あ、っと……そ、そうだね気を付けるよ」
「うん」
 そう言った少女の顔は、それでも厳しいものではなかった。

「じゃ、ぱーっと遊びに行きますか!」
「そうだね」
 少年と少女は勉強道具を簡単にまとめると、連れだって部屋を出ていった。
 外は、良く晴れていた。
 しかし、少年の表情は終始、冴えなかった。






十八.不安

 

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