十一.『好き』の資格


 七月二六日(火) 天気・雨 気分・雨のち快晴

 今日はとても重大な出来事があったので、きちんと書いておこうと思う。

 今日も朝から雨が降っていた。雨降りはやっぱり好きじゃない。第一、服や靴が濡れるのが気に入らない。そんなわけで、ちょっと暗い気分で図書館に向かった。

 図書館に着いた時間は九時半ちょうど。いつもは先に来ているはずのシンイチが、今日はまだ来ていなかった。珍しいと思ったが、さほど気にせず、いつもの席へと向かった。
 でも、十時になってもシンイチは来なかった。私は少し苛ついたけれど、寝坊でもしたのかな、と思って待っていた。
 十時半になって、さすがにおかしいと思い、シンイチの携帯に電話してみた。けれど、二十回コールしても、シンイチは電話に出なかった。
 十一時半になった。それでもシンイチは、姿を見せなかった。また、電話してみた。けれど、結果は同じだった。思い立って、携帯端末でメールのチェックをしてみた。新規メールが二通あったが、どちらも、私の欲しかったメールではなかった。携帯が通じないので、私はシンイチ宛にメールを書いた。こう言うときは、メールの時差が何とももどかしい。直接届けられるメールが有ればいいのに、などと無茶を考えてしまう。
 十二時になって、私は限界に達した。勉強もまったく手に着かなかった。時折声を掛けてくる学校の友達が、今日はうざったく感じた。
 もうだめ。そう感じて、席を立った。
 図書館の玄関先で、もう一度電話を掛けてみた。
 また、同じ結果だった。

 私は泣きそうになるのを押さえながら、雨の中をとぼとぼと歩いた。こんなに悲しくなる自分が、我ながらおかしいと思ったが、本当に悲しかったのだから仕方がない。すっぽかされて怒る自分は想像していたが、泣く自分はまったく予想できなかった。

 歩きながら考えた。
 シンイチに限って、理由もなくすっぽかす筈がない。アイツはそう言うことだけはしない。知り合って一週間の私たちだけれど、そう確信できた。
 もしかして、交通事故にでも遭ったのか。遠くで聞こえる救急車の音を聞いて、急に不安になった。それとも、病気で寝込んでいるのだろうか。シンイチは独り暮らしだから、誰も頼る人がいないに違いない。もしそうなら、どうしたらいい?
 シンイチの家を知らない自分に、遣り所のない怒りを感じた。

 軒下で雨を避けながら、メールのチェックをしてみた。
 予想通り、シンイチからのメールはなかった。

 考えれば考えるほど、嫌な方向に考えが行ってしまう。どうにも止められなかった。

 私は意を決して、シンイチの家を探すことにした。
 私の取った方法は簡単だ。シンイチの学校は知っているから、その近くの交番でシンイチの家を教えて貰おうと思ったのだ。教えてくれなかったらどうしよう。そんなことを考えもしたが、まずはやってみないことには始まらない、そう自分に言い聞かせて歩き出した。
 シンイチの学校はすぐに見つかった。さてどうしようと考えていると、校内から女子生徒が出てくるのが見えたので、私は思いきってシンイチのことを聞いてみることにした。この際、出来ることはなんでもやってみるしかない。
 女子生徒は幸運なことに、シンイチと同じ三年生だった。シンイチのことを知ってはいたが、家までは知らなかった。私がしょげていると、その子は不憫に思ったのか、ちょっと待ってて、と言い残して校内へ戻っていった。私は、とにかく待った。
 五分ほどして彼女は、手に持った小さなメモを振りながら、笑顔で戻ってきた。
「はい、これが浜田君の住所。ここから十五分くらいかな」
 彼女はそう言うと、何も聞かずに去っていった。十歩ほど歩いた後で振り返り、「頑張ってね」と笑顔で言い残して。
 彼女がどう思ったのかはわからないが、私は「ありがとう」と言うことしかできなかった。他に、感謝の言葉を知らなかった。本当に、本当に嬉しかった。

 その住所を頼りに、シンイチの家に辿り着いたのが午後の二時頃。シンイチの家は、典型的なワンルームマンションだった。表札に名前はなかったが、一〇三号室を確認して、深呼吸をし、私は呼び鈴を押した。
 機械的なチャイムが、遠くに聞こえた。
 暫く待っても、シンイチは現れなかった。私はもう一度、呼び鈴を押してみた。
 数分待っても、シンイチは現れなかった。
 私の不安は最高潮に達した。それを押し殺して、三回続けて呼び鈴を押してみた。
 胸の鼓動は、急激に高まっていた。不安でいっぱいだった。
 警察に頼んで探して貰おうか。そんなことを考え始めた頃、扉の奥で、小さな物音が聞こえた。
 私は夢中でシンイチの名前を呼んだ。今思うと、なんて恥ずかしいことをしたのかと赤面するけれど、その時の私には、そんなことを考える余裕はなかった。
 私の声が聞こえたのか、足音が玄関先まで来た。でも、扉は開かなかった。良く覚えていないが、きっと私は「ここを開けて!」などと安っぽいドラマのように叫んでいたのだろう。暫しの後、ようやく扉が開き、私は息咳切って部屋の中に飛び込んだ。
 シンイチがいた。間違いなく、シンイチがそこにいた。けれど、私が待ち望んでいたシンイチの左頬には、大きな青あざがあった。
 シンイチは浮かない顔で、良かったら上がって、と私を招き入れた。こんな思いでシンイチの部屋に入るとは思っていなかったけれど、私はシンイチの部屋にお邪魔した。
 初めて入ったシンイチの部屋は、思っていた以上に綺麗だった。ただ、今日はまったく掃除をしていなかったようで、新聞やら雑誌やらが散乱していた。
 シンイチは散らかっててゴメン、とバツの悪そうな顔で言うと、良かったら座っててとクッションを差し出してくれた。私はぺたりとクッションに座り、シンイチの出してくれたタオルで濡れた服と髪を拭いた。
 飲み物は何がいいかとシンイチが聞くので、私は紅茶があったらいいな、と答えた。私に背を向けたままのシンイチは、無言でカップとポットを用意してから振り返り、テーブルにそれらを置いた。
 私はやっぱり、シンイチの顔の青あざから、目が離せなかった。

 シンイチが紅茶を入れてくれたので、一口飲んだ。美味しい紅茶だった。美味しい、と私は言ったけれど、シンイチは、黙って頷くだけだった。

 暫く、二人とも無言だった。

 気まずい沈黙を破ったのは、シンイチだった。

 シンイチは一言、「ゴメン」と言った。
 私はそのまま、シンイチの次の言葉を待った。

 シンイチは、ポツリポツリと、今日の朝のことを話し始めた。
 今日の朝、図書館の近くでシンイチは、何人かの男に絡まれたらしい。聞くところによると、どうやら私と同じ中学の生徒のようだった。シンイチはそいつらに、いきなり殴られたらしい。そして言われたことには、「お前みたいな情けねぇヤツが、漣に近づくんじゃねぇ!忠告を守らないと、酷い目に遭わせるぞ」だそうだ。
 私は呆気にとられた。信じられないヤツがこの世にはいるものだ。それも私に言うのではなく、シンイチに言うとは、どう考えてもおかしいとしか言いようがない。
 それにしても、シンイチもシンイチだ。そんなことで今日、私との約束をほっぽり出したのか。シンイチは、そういう男だったのか。私はちょっと頭に来て、シンイチに詰め寄った。
「アンタ、それでも男?どこの馬の骨ともわからない連中にちょっと言われたくらいで、そうやって部屋でグジグジしてるわけ?もっとピッとしなさいよ!」
 それに対して、シンイチはこう言ったのだ。
「僕だっていろいろ考えたよ。でも、僕なんかがハルカのそばにいて、本当にいいのかって自分でも疑問に思うんだ。僕なんか、友達はいないし、学校でも浮いてるし、勉強も出来るわけじゃないし、顔だって良くないし、運動だって特に出来る訳じゃないし、取り柄なんかひとつもないんだ。ハルカだって、その、僕がいて、迷惑なんじゃないかなって思って……」
 シンイチは俯きながら、続けた。
「僕なんか、ハルカのそばにいる資格が、ないんじゃないかって……」
 私はそれを聞いて、はっきり言ってキレた。だってそうじゃない。私がどう思ってるかを確かめもせずに、シンイチは自分で勝手にふさぎ込んでいるんだから。私がどんなに心配したかも知らずに、シンイチは一日、部屋でグズグズやっていたんだから。
「アンタ、私が今日、どんなに心配したのかわかってんの?交通事故に遭ったんじゃないかって心配して、病気になったんじゃないかって心配して。ホントに心配して、心配して、心配して……。必死でアンタの家、探したんだから!」
「それなのにアンタは何よ!私の気持ちを確かめもせず!それより何より、あんたの気持ちはどうなのよ!私のこと、どう思ってんのよ!」

 今思うと、凄いことを言ったものだと思う。でも、あの時の私は、そう言わずにいられなかった。
「ゴメン……」
 シンイチは俯いてそう言ったまま、暫く身じろぎひとつ、しなかった。

 何も言わないシンイチに、私はどんどん不安になっていった。不用意に、時間だけが過ぎていくような気がした。

 いたたまれなくなって、私がシンイチの家から逃げ出そうと思ったその時、シンイチが顔を上げて私を見た。
 そして、青く腫れあがった顔を私に向けて、言った。

「ハルカのこと、好きって言っても……いいのかな」

 心臓が止まりそうになるって言うのは、きっとこう言うときに使うんだろう。私は今、そう思う。
 でも、その時の私は、そんなことを考える余裕はもちろんなかった。
 ただ驚き、そして、ただ、嬉しかった。

「僕、ハルカのこと、好きだ」

 私は次の瞬間、シンイチに抱きついていた。嬉しくて嬉しくて、他には何も考えられなかった。そしてわかった。人を好きになるって言うのは、こう言うことなんだと。私は間違いなく、シンイチのことが好きなんだと。

 私たちは抱き合ったまま、時の流れに身を任せていた。時間なんて、どうでも良かった。ただこの瞬間さえ続けば、後はどうなってもいいとさえ思った。

 五時を知らせるチャイムが遠くから聞こえてきた頃、シンイチはポツリと言った。

「でも僕、やっぱり思うよ。僕なんかがハルカのこと、好きになる資格があるのかなって」
「アンタばかぁ?人を好きになるのに資格なんていらないじゃない。アンタは私を好きで、私もアンタが好き。それでなんの問題があるのよ」
「え、そ、それって……」

 不覚だった。私は思わず言ってしまった。恥ずかしくて照れくさくて、私はシンイチの胸に、自分の顔を埋めるしかなかった。
 シンイチの胸は、私が思っていたよりもずっと広くて、堅かった。
 今日はきっと、今までの人生で一番嬉しかった日だと思う。忘れてしまった自分のことはわからないけれど、きっと、そうだと思う。

 やっぱり私は、シンイチのことが好きなんだ。


(以上、漣ハルカの日記より抜粋)








十二.ココロの悲鳴

 

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