十. だって他人なんだから



 不意に、アスカのバッグから電子音が響いた。
 やや慌てた様子で彼女は携帯電話を取り出し、液晶画面を見る。
 だが彼女は通話ボタンを押すことなく、着信を拒否した。
 「ったく、しつこいったらありゃしない」
 ブツブツ文句を言うアスカの様子を、横目で盗み見るシンジ。その視線に気付いたアスカは、言い訳するように吐き捨てた。
 「一回映画に付き合ってあげたくらいで彼氏気取りなのよね、このバカ。ホントにうざったいんだから。はっきり断ったのにさ」
 その時の様子が目に浮かび、シンジは思わず苦笑する。

 「なに笑ってんのよ」
 「いや、別に」
 「……ふん」
 そうしてまた、彼女はシャンパングラスを煽る。

 「そう言うアンタはどうなのよ」
 「なにが?」
 「女の子よ、女の子。付き合ってる娘くらいいないの?」
 反論を試みる彼女。
 だが、シンジの答えは素っ気なく。
 「そんなのいないよ」

 「つまんない青春ね」
 毒気のある返答を、シンジは無言で受け流した。
 薄茶色のカクテルを、彼は静かに傾ける。

 「アスカこそどうなんだよ」
 グラスに視線を注いだまま、シンジは呟くように言う。
 「なに、気になるわけ?シンちゃんは」
 気色だった声で、アスカは身を乗り出す。しかし、シンジは無愛想に一言。
 「別に」

 その言葉が、その態度が、アスカの気性を逆撫でした。
 「偉そうなところも変わってないわね」
 「どこがだよ」
 今度はシンジも、害した気分を露わにした。そんなことはお構いなく、アスカは溜まっていたものを吐き出す。

 「アンタって昔からそうなのよね。自分は周りとは関係ないって顔してる。そう言うのが本当にイライラするのよ。アンタ、何様のつもり?」
 そこまで言うと、一気にグラスを空にするアスカ。

 彼は押し黙ったまま、指先でグラスを軽く振った。カルアミルクの中で、氷がカラカラと踊った。

 ややあって、ポツリと彼は一言。
 「ごめん」

 そっぽを向いていたアスカの肩が、微かに揺れた。

 「ちょっとムッとしたから……言い方が悪かった。ごめん」
 目の前に並ぶグラスの群に目を遣りながら、シンジは静かに詫びた。

 「ん……」
 アスカは奇妙な感情に晒されて、そう呟くことしかできなかった。

 暫くして。

 「シンジって、変わったね」
 空になったグラスを眺めながら、アスカは言う。
 「昔のシンジだったら、そんなこと言わなかった」
 「反射的には謝ってばかりだったけど、ちゃんと謝る事ってしなかったもんね、昔は」

 そうして彼女は、少し淋しそうに。
 「あーあ、変わってないのはあたしだけか」

 彼女はバーテンを呼び寄せると、ロングアイランドアイスティーを注文する。そして彼はモスコミュールを。
 「あの頃が、おかしかったんだよ」

 彼のその声は、何かに想いを馳せるかのようで。

 「うん……でも」
 「あたしはあの頃のことを、今でも忘れられない」
 「あたしの時間は、あの時から動いていないの」

 運ばれてきたカクテルを受け取りながら、アスカは誰にも言えなかった心の内を吐露する。
 「毎日がただ空虚で空回りしているのよ。ただ時間を潰しているだけ。目標もなにもない、そして生きている意味もない、そんな人間なのよ、あたしは」
 「さっきの電話の男だってね、最初はちょっといいかなって思ったの。でもやっぱりダメ。相手の男にもすぐに失望したし、なによりそんな自分に幻滅したわ」
 そこまで一気に言うと、彼女はストローを口に運ぶ。
 炭酸が渇いた喉に染み渡った。
 そうして、一息ついて。

 「なにやってんのか、自分でもわかんないわよ」
 弱り切った声でそう呟くと、彼女はカウンターに顔を伏せた。

 アスカの独白を、シンジはただ聞いていた。
 そうして、一人呟く彼。

 「同じか」

 その呟きは小さすぎて、彼女の耳には届かない。
 静かに時が、二人の間を流れていた。

 シンジはカウンターに両肘を突き、首だけを捻る形でアスカの姿を見ていた。
 柔らかい背中のラインが、シルバーのネックレスが飾る首筋へ続く。
 彼は思わず、恐怖に駆られる。
 彼の両手に未だ残る、その感触に。白い首筋を締め上げる、その感触に。
 小さく頭を振る彼。何かを振り切るかのように、彼は言った。

 「僕は……」
 「ただ、立ち回りが上手くなっただけだよ」
 シンジのその言葉に、アスカはゆっくりと彼を向く。

 「ただ、他人の顔色を見て、上手く立ち振る舞うことが出来るようになっただけだよ」
 淡々と、他人事のように彼は言う。
 「期待、しなくなったんだ」
 「いろいろと期待するから、哀しくなるし辛くなる。だったら、最初っから期待しなければいいじゃないかってね」
 「その方が、楽じゃない」
 「でも、ひとりは楽だけど、ひとりぼっちはやっぱり淋しい」
 「だから、当たり障りのない付き合いを憶えたんだよ」

 その間、シンジはアスカと眼を合わせなかった。それはまるで、モノローグのようだった。
 「考えてみれば僕は、小さい頃からそういう人間だったんだ」
 彼の視線は、タンブラーの中に浮かぶライムに、ぼんやりと注がれていた。

 「アンタ、そんなこと考えてたんだ」
 アスカは驚きを隠さなかった。
 「シンジって、自分の事って話したことないじゃない。そんなこと考えていたなんて、初めて聞いた」

 「アスカだってそうじゃないか」
 シンジは続ける。
 「アスカ、なにも言わなかったもん。わかんないよ」

 「でも、わかって欲しかったのよ」
 「わかるわけないよ」
 二人の思いは、あの頃に馳せて。
 「そうよね」
 「そうだよ。だって他人なんだから」

 「でもさ、それをわかろうとすることに意味があるんじゃない?」
 「うん……。確かにそうかもしれない」
 神妙な顔で、頷き会う彼と彼女。

 その一言に辿り着くまでに、彼らはどれほど回り道をしたことだろう。
 いや。それは、回り道ではないのかもしれない。遠回りではあったかもしれないけれど、無駄ではなかったのかもしれない。

 急に、彼女はクスリと笑い。
 「なんか、語っちゃってるね」
 彼も釣られて表情を崩し。
 「ホントだ」

 そうして二人は笑みを漏らす。
 それは、曇りのない晴れやかな笑みだった。




十一. 会ってみたい




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