GP250クラスの決勝は大詰めを迎えていた。
 トップは相変わらずポールからスタートの関口選手。そしてその後方では、二位の永野選手と三位のシンジのバトルが始まっていた。
 メインストレートに、トップの三台が帰ってきた。
 先頭を走る関口選手の一秒後方に、永野選手とシンジが連なる。
 勝負の一コーナーが迫る。
 たった一本のベストラインを目指し、ブレーキング競争が始まった。二人同時に体を起こし、ブレーキレバーを握り締める。
 フロントフォークはフルボトムし、ブレーキローターは金切り声を上げ、フロントタイヤは潰れてブラックマークを残す。リヤタイヤは完全に浮き上がっている。
 絶叫する場内アナウンス。

「熾烈な二位争いは、一コーナーに入っていきました!」
「碇選手がインを突く!」

「あああああぁぁぁ!!!!!!」

 サーキット全体に沸き上がるのは、地鳴りのようなどよめき、悲鳴のような歓声。

「転倒!転倒です!」
「永野選手、転倒です!!」
「碇選手、単独二位です!」


 スタンドのざわめきを感じ、後方を伺うヒデキ。
 そこにはシンジの姿だけが有った。

「永野さんは脱落か」
「碇くん、ここまで来れるかな……?」
 ヒデキはそう呟くと、最後のスパートを掛けた。


 ――速い。


 シンジは初めて、そう思った。


 ――この人は本当に速い。









「どうだい、碇シンジ君は」
 細いリムレスの眼鏡を掛けた男性、齢は三十後半だろうか。彼が傍らの少女に声を掛ける。
「ふーん、なかなかやるじゃない」
 そう答えた少女は、年の頃は十六、七歳位、体にぴったりとフィットした白のニットに、ビンテージのジーンズ、そして少し高めのヒールの白いサンダルを履いていた。
 肌の色は白く、髪は美しい漆黒。
 すらりとした肢体はまだ、少女の雰囲気を残している。
 ベースボールキャップを目深に被り、オレンジ色のミラーのサングラスを掛けている彼女の顔つきは伺えないが、その場で際だつ存在であった。
 道行く人は総べからず、彼女に気を止めずにはいられなかった。
 しかし彼女は、投げかけられる人々の視線には気にも止めず、ただ、コースとオーロラビジョンに映し出されるシンジを見ていた。




















僕らは始まってもいない

第八話
王者と、少女と



















 シンジは全力で走った。
 レースは十九周目、残り二周。ヒデキは五メートルほど前方にいた。

 シンジはひたすらに、ヒデキの後ろ姿を追う。

 彼は気付いていただろうか。自分が、彼を追う事だけに無心になっていた事を。

 約七百メートルのバックストレートが終わり、二台のマシンはシケインへと入っていく。
 毎回のように正確かつ急激なブレーキング、そして一速までシフトダウン。
 右へ、そして左へ。
 シケインを抜け、最終コーナーへと向かう。

 最終コーナーは、このサーキットの一つのキモだ。ここの攻略一つで、ラップタイムは大きく縮まる。
 最終コーナーへのアプローチで、シンジのマシンはヒデキにぐっと近づく。もう少しで手が届きそうな距離。
 しかし最終コーナー出口付近では、その差は広がっていく。

 悲鳴に近い音を上げながら、二台のマシンがメインストレートを駆け抜ける。

 ヒデキのスリップストリームにシンジが着く。
 (スリップストリーム……前走者の背後に着く事によって、空気抵抗を少なくし、最高速を稼ぐテクニック)
 ヒデキはシンジのスリップを振りほどこうともせず、真っ直ぐに疾走する。まさに、王者の走りである。

 一コーナーが迫る。
 ブレーキングポイントが迫る。
 そこを
 超えた!

 ヒデキはまだブレーキングを開始しない。
 シンジも引き寄せられるように、通常のブレーキングポイントを超えた。
 まだブレーキを掛けない。

 まだ。
 まだ。
 まだ。

「っ!!」

 シンジは遂に耐え切れずに、ブレーキングを開始した。
 そこまで要した時間は恐らく、百分の数秒だろう。
 しかしシンジには、永遠にも続くように感じられた。

 ヒデキはシンジがブレーキングを始めたのを確認したかのように、その直後にフルブレーキングを開始した。
「絶対に無理だ」

 誰もがそう、思った。
 しかし彼は。
 今までに見せた事の無いような驚異的なスピードで一コーナーに侵入していく。
 フルブレーキングのまま、フルバンクさせる。
 黒々としたブラックマークが、フロントタイヤからはっきりと引かれていく。
 フロントタイヤがズルズルとアウト側に流れる。

「曲がりきれない」
 その様子を真後ろの特等席から鑑賞していたシンジは、そう思った。

 しかし。

 ヒデキはかまわずアクセルを開ける。
 リヤタイヤがスライドし、ブラックマークを引きながら、白煙が上がる。
 リヤが次第に外に向かい、マシンの向きが変わっていく。
 マシンが理想ラインに向かっていく。
 フロントタイヤは、未だにズルズルと滑っている。
 リヤタイヤは危うい様子で大きく震えながら、外側にスライドする。
 マシンが、コーナーの脱出方向を向く。
 マシンが起き上がってくる。
 コーナーの出口が見えてきた。
 さらに大きくアクセルを開ける。
 車体はほぼ立ち上がっている。
 しかしまだスライドは止まらない。タイヤスモークも途切れない。
 アウト側のゼブラ(縁石)が迫る。
 そしてゼブラに乗り上げた!
 その瞬間ヒデキはマシンを一瞬だけイン側に寝かし、ゼブラに乗り上げた反動を使ってコースに戻る。
 長いブラックマーク、大量のタイヤのちぎれカス、そしてタイヤの焦げる匂いを残し、圧倒的なコーナーリングを演じて、ヒデキは一コーナーからS字に向かっていった。


 シンジも、彼の限界のコーナーリングでヒデキを追う。
 しかし、勝負は既に、決していた。


 最後の最後、最終コーナー。
 既にヒデキに届く距離ではないシンジであったが、彼は無心で、マシンをコーナーに放り込んだ。

 今までよりも数キロだけ速い進入速度。

「っ!!」

 一瞬、シンジのマシンのリヤタイヤが大きくスライドした。
 悲鳴を上げる最終コーナースタンド。
 そしてスライドしたリヤタイヤがグリップを回復した、その瞬間。
 シンジのマシンは、彼を振り落とそうと激しく悶えた。

 足が、ステップから外れる。
 腰が、シートから離れる。
 体が、大きく振られる。

 しかし、手は決してハンドルバーから離さなかった。上体を無理矢理にタンクに伏せ、マシンを押え込む。
 辛うじてマシンを押さえ込んでいるシンジだが、マシンは暴れる事を止めない。
「こ、この……!」

 遂に縁石を乗り越え、シンジのマシンはコースアウトする。
 迫るスポンジバリア。
 しかしシンジは迫り来るスポンジバリアには目を向けず、既にメインストレートへと消えたヒデキの後ろ姿を探す。
 必死でマシンを押さえ込むシンジ。

 コース外の芝生の上を百メートルは走っただろうか。マシンはようやく暴れる事を止め、シンジのコントロールを受け入れた。
 シンジは懸命にアクセルを開け、ゴールを目指す。
 フィニッシュラインが迫る。
 そして。
 フィニッシュ!!

 ゼッケン62番、碇シンジ。
 全日本ロードレース選手権第一戦。


 リザルトは、第二位。







 シンジに大歓声が送られている、最終コーナーのスタンド。
 そこに、人目を引かずに居られない美少女と、一人の男性がいた。

「初めて写真を見たときは、はっきり言ってあまり興味が湧かなかったんだ」
 最終コーナーでのシンジのパフォーマンスに見入っていた少女は、視線を傍らの男性に戻して言った。
「確かに顔もマズマズだし、人気もあるみたいだし」
「でもいまいち、ピンと来なかったのよね」

 彼女は一呼吸置いて、少し考えたような顔で言う。

「でも今日、彼のレースを見て、気が変わった」
「菅野さん、私あの件、受ける」

 菅野と呼ばれたその男は、満足げな様子で頷く。
「そうか、良かったよ」
 彼女も菅野に頷き返す。そして長い間、シンジの走り去ったコースを眺めていた。




























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