興奮と安堵が入り交じるサーキット。
ピットへと戻ってきたシンジを、ピットの面々が、拍手で迎えた。
いつものように、アスカがシンジのバイクにスタンドを掛ける。
新谷が、よくやったと言いながら彼の肩を荒っぽく叩く。
そして。
シンジがヘルメットを脱いだその時。
皆の顔が驚きに変わった。
一瞬、シンジが微笑を浮かべた――
それは、笑顔とは言えないほどに儚く、そして一瞬の出来事だった。
しかし、それは確かに、作り物ではない本当の笑みだった。
だが、シンジはすぐにいつもの表情に戻る。
「ありがとうございました」
頭を下げ、滲んだ汗を拭うシンジ。
「いや、ご苦労さん」
「さあ、表彰式だ。急げよ」
新谷の声を受けて、シンジは黙って肯くと、表彰式へと向かった。
「シンジ君って、ああいう顔して笑うんだ」
ユミコが目を丸くする。
「そうだな……俺も初めて見たよ」
そしてアスカは――
泣き笑いのような、複雑な表情をしていた。
「アスカちゃん、どうしたの?嬉しくないの?」
「いえ、もちろん嬉しいんですけど……」
アスカは時折、歯に物が引っ掛かっているかのような言い方をする。
新谷やユミコはそんなアスカの表情を見て、いつも何も言えなくなるのだ。
二人には、アスカとシンジの過去に立ち入る事は出来なかった。
僕らは始まってもいない
第九話
二人の晩餐
表彰されるシンジを横目に見ながら、そこを去っていく二人がいた。
傍らの男性が尋ねる。
「ユキちゃん、ホントに会っていかなくて良いんだね?」
「うん、だってまだ本決まりの話じゃ無いんだし」
念を押す男に、彼女は頭(かぶり)を振る。
「いや、殆ど決まりの話だよ。ユキちゃんの意志次第だったんだから」
「でも万一って事があるでしょ。そうなったら失礼じゃない」
「わかったわかった。じゃ、本当に良いんだね」
「もう!いいって言ってるでしょ!!」
ぷいと横を向く彼女。
苦笑するしかない男。
「それじゃ、帰ろうか」
彼女は空を見上げて思う。
『今会うと、どんな顔していいかわからないからね』
*
黒い高級セダンの中。
後部座席のユキをルームミラー越しに見て、菅野が話しかける。
「しかしユキちゃんも、相変わらず完璧主義者だね。自分の目で見るまで絶対にうんと言わないんだから」
菅野は感心したような、呆れたような言い方をする。
「だって、変な人と一緒にやるの、いやじゃない。しかも素人なんだし」
溜息混じりに菅野は言う。
「でもスポンサーがえらく乗り気なんだしさ」
「で・も・嫌なものはイヤなの!」
「はは、解ったよ。まあそこがユキちゃんのいいとこなんだけどね」
ルームミラーに映るユキの剣幕をチラリと確認し、菅野は肩をすくめる。
「菅野さん、解ってるじゃない」
「そうじゃないとこの仕事、出来ないでしょ」
「ははは、まあそりゃそうだわ」
そして菅野は、感心したように。
「でも、よくやる気になったね」
「そうね、どうしてかしらね」
「ふーん。まあ俺は嬉しいけどね」
「まあいいじゃない。いい仕事になるといいわね」
そうして無言になった二人を乗せた車は、第弐新東京市を目指して走る。
*
「じゃ、シンジ、着替えたらすぐ行くから」
「うん」
新谷の車で送り届けられた二人は、アスカは二〇二号室へ、シンジは二〇三号室へと消えて行く。
約二十分後。
二〇三号室のロックがガチャリと外れて玄関のドアが開き、アスカは彼の部屋へと入っていく。
八畳程のワンルームマンション。その傍らのベッドにシンジは座り、ぼんやりと壁を眺めていた。
「なにやってんの?」
「別に、何も」
彼の答えは、短い。
「……そろそろご飯にしよ。おかず、買ってきたから」
アスカは、手にしたコンビニエンスストアのビニール袋を差し出し、シンジを促した。
シンジとアスカの新しい共同生活は、あの最後の闘いの後から始まった。
アスカはいつもシンジの家で夕食を一緒に食べ、風呂に入り、そして寝る頃になって自分の部屋に帰っていくのだ。
特に理由もなく、しかし断る理由もなく、アスカは常にシンジの部屋に入り浸っていた。
そのアスカと言えば、『ご飯もお風呂も、二人まとめての方が経済的でしょ』と言い張るだけである。
特に何をする訳でもなく、ただ、刻が過ぎていく。
それが、三年間続いていた。
二人の間には、いまだに何も無い。
二人の時計はあの刻から、ずっと動いていないようだ。
二人が今の二人になった、あの刻から――
「私の当番なのに、出来合いと有り合わせで悪いんだけど」
申し訳なさそうに、アスカはテーブルの上の品々を見回した。
「十分だよ。それにアスカだって疲れてるでしょ」
ありがとう、とシンジは頭を下げる。
「じゃ、食べよ」
「うん、頂きます」
「いただきます」
二人だけの晩餐が始まった。晩餐と呼ぶにはやや寂しい食卓だったが、今の二人には十分だったのかもしれない。
アスカはいつものように、他愛のない話を繰り出す。
シンジはその都度、短く相槌を打つ。
アスカが喋る、シンジが頷く。その繰り返しだった。
「そう言えば」
ふと思い出したように、アスカは軽く切り出した。
「今日のレースの後、みんな驚いてたよ。シンジが笑った、って」
「みんな、天然記念物でも見たような顔してた」
戯けたように、アスカは言った。
「そりゃそっか、クールな天才レーサー、碇シンジ君だもんねー」
しかし、シンジからの反応は無かった。
彼の目線は一瞬アスカを捉えたが、直ぐに食卓に落ちたのだった。
小さく溜息を吐くアスカ。
暫し、箸の音と咀嚼の音だけが、二人からは聞こえていた。
ややあって。
シンジの箸が止まり、僅かばかり間を空けて、不意に彼は切り出した。
「今日の……」
「今日のレース、あれで良かったのかな」
アスカの箸も、ぴたりと止まる。
「あれで、良かったのかな」
俯いたまま、呟くように、自分に問いかけるように。
一瞬我を忘れたアスカは、息せき切って言った。
「なにいってんのよ、二位よ、二位!しかもデビュー戦!」
「みんな喜んでたでしょーが!新谷さんだって、良くやったって言ってたでしょ!」 「誰も文句なんて言ってなかったわよ!」
「観客の声援だって凄かったんだから!」
「シンジはみんなの期待に応えたの!」
「だから大丈夫!」
身振り手振りをオーバーアクションに加えて、アスカは一気に捲し立てた。
アスカはひとつ、大きな息を吐く。
「まったく、そう言う癖、直した方がいいわよ」
俯いたままにアスカの言葉を聞いていたシンジは、ゆっくりと少しだけ、面を上げた。
『全力の君と戦いたい』そう言った時のヒデキの顔が、脳裏に浮かぶ。
「関口さんって、本当に速いんだ」
ぽつりと、シンジの口から零れた。
「いくら走っても追いつけないんだ」
「だから……」
「だから、あれで良かったのかな、って……」
シンジから漏れる言葉は、力無く。
「シンジはどうなのよ」
やや抑えたトーンで、アスカは問う。
「シンジは本気で走ったの?全力だったの?」
アスカの問いに、シンジはやや押し黙る。
暫しの間。
シンジは、言葉を選ぶように、ゆっくりと話し始めた。
「走っているうちに……」
「走っているうちに、ちょっと変わったかもしれない」
アスカの瞳は、シンジから離れない。
「上手く言えないけど、関口さんを追ってるとき、何も考えてなかった」
「今までもそうだったんだけど、でもちょっと違っていて」
「あの時は、速く走る事しか、考えてなかった」
「最後にちょっと、失敗しちゃったけど……」
「でも、追いつきたかったんだ」
そして、口ごもるように繰り返す。
「あれで、良かったのかな」
三度、沈黙が降り注ぐ。
「シンジは」
俯いたままのシンジに、アスカは言葉を掛ける。
「シンジは、頑張ったと思うよ」
「良くやったと思うよ」
「良かったんじゃないかな、あれで」
「頑張ったよ、シンジは」
アスカの言葉に、シンジは俯いた顔を上げる。
そこには、笑みをたたえたアスカがいた。
視線が交差する二人。
互いに認める二人。
気付くと、シンジの頬にも、僅かな微笑みが浮かんでいた。
*
その晩。
ベッドに入ったアスカは、シンジの笑みを思い浮かべ、少女に問いかける。
『これでいいよね、ファースト』
脳裏に浮かぶ少女は、決して変わる事はなく、あの時の笑顔のままだった。
同じ頃、シンジは。
自らの運命に抗して、彼らを、世界を救った少女を思い浮かべる。
「これでいいわけ、ないよね……」
彼の呟きを聞くものは、ここには居なかった。
第一部 完
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