西暦二〇一九年三月三十一日。全日本ロードレース選手権第一戦。
 二十周で行われるGP250の決勝レースは、五周を消化し、トップのマシンは六周目へと入っていった。
 トップは変わらず、ポールからスタートの関口ヒデキ選手。ゼッケン1を付けている彼は、昨年のシリーズチャンピオンである。昨シーズンは最終戦を待たずしてチャンピオンを決め、誰もが今年は世界GPにエントリーするものだと思っていたのだが彼は『まだやり残した事がある』との台詞を残し、今シーズンも全日本を闘っている。
 やり残した事とは何か。そのことを理解できる者はいなかった。

 シンジは現在、七番手。前方はゼッケン5番、遠藤ツヨシ選手。その差は約五メートル。
 シンジのマシンが、メインストレートを疾走する。
 彼はアスカの出すボードを横目でちらりと見ると、ヘルメットをタンクに押し付け、カウルの中に目一杯体を入れて一コーナーへ向かう。
「あと十四周か……」
 残り周回数だけを確認する彼。

 六速全開。
 一コーナーが迫る。
 ガバッと体を起こして右手でブレーキレバーを握り、フルブレーキングを開始する。
 体に一気に風圧が掛かり、ゴォォッと大気の唸り声がする。
 外側の太股と両足首でマシンをホールドし、減速Gに耐える。
 同時に六速から三速までシフトダウンする。
 前方のマシンが迫る。
 わずかにインが甘い。
 そしてそのインを突いて、ブレーキレバーを握り締めたまま一気にダイブする。

 その鋭さに、空気の割れる音がした。
 一コーナーの観客席から、地鳴りのようなどよめきが起こる。
 前後のタイヤがスライドする。
 バンクセンサー(レーシングスーツの膝に付いているプラスチックや硬質レザー製のパッド)が路面と擦れ合い、乾いた鳴き声を上げる。
 シンジは徐々にブレーキを緩め、そしてアクセルを僅かに当てていく。
 右手のアクセルでリヤタイヤのスライドをコントロールし、左右のステップへの荷重と体重移動、そしてその他の何かによってマシンの向きを変え、コーナーを立ち上がっていく。
 そしてシンジは遠藤を抜き、六番手へと順位を上げた。



















僕らは始まってもいない

第七話
ゼッケン1



















「こんにちは。碇シンジ君」
 彼がキタハラRTのピットを訪ねてきたのは、土曜日の予選が終わって、一時間程経った頃だった。

「はじめまして。関口ヒデキといいます」
 一人で黙々とマシンの掃除をしていたシンジは、突然の訪問者に驚きを見せる。
「ぁ、はじめまして……」
 そこには、シンジより二、三歳ばかり年上だろうか、すらっとした背格好で奇麗な顔立ちをした青年が立っていた。
 白地にHRCと赤文字で刺繍がされたシャツにブラックジーンズ、そして流行のブランドのスニーカー。
 肌の色は白く、髪はわずかに栗色である。薄い灰色の瞳が、彼を印象付けている。

「僕の事は知ってるかな?」
 微笑みながらシンジに問い掛けるヒデキに、シンジは無言で頷く。
「そう、じゃあ、堅苦しい自己紹介は無しにしよう」
「僕はちょっと、君に興味があってね」
「ちょっと話をしても、いいかな?」
 シンジは黙ったまま、小さく頷いた。
「ちょっとこれ、借りるよ」
 ヒデキは近くに置いてあった椅子を拝借する。奇麗な微笑みを浮かべ、膝の上に手を組んで話し掛ける。
「君の噂はいろいろと、聞いているよ」
「どんな噂か、気になるかい?」
 無言のままのシンジ。
「気にならない、か」
 ヒデキのその言葉に、シンジはピクリと体を震わせ、初めて真っ直ぐにヒデキを見た。
 ヒデキは微笑むと、シンジの目をしっかりと見る。

「君の走りが素晴らしい事は、以前から耳にしていた」
「そして実際に君の走りを、そして君の顔を見て、僕は思ったんだ」
 一呼吸置いて、ヒデキは続けた。

「君はまだ、本気で走ってないだろう」

 彼の瞳は、シンジを射抜くように鋭い。

「君はまだ、全力で走っていない。あんなもんじゃないはずだ、君の力は」
「君は全てを出し切っていない。僕には分かる」

 ヒデキの視線と言葉から逃げるように、シンジは面を伏せる。

 暫し、沈黙が続いた。

 ヒデキは大きく溜息を吐くと、沈黙を破った。

「まあいいか。でもね、碇シンジ君」
「僕は君と戦うために、日本に残ったんだよ」

 ヒデキのその言葉にも、シンジは面を上げなかった。しかしヒデキは、僅かに震えたシンジの肩を見逃さなかった。
 彼は続ける。

「君と戦いたかったんだ。全力の君とね」
「僕は心残りのまま、世界に行く気はなかったんだ」
「だからもう一年、全日本を走る事にしたんだ」

 一気に告げた後、一呼吸置いてヒデキは言う。

「今の君だったら、僕は負ける気がしない」
 不敵な笑みを浮かべるヒデキ。押し黙ったままのシンジに、彼は問いかける。

「君は、負けて悔しくないのか?」

 そしてまた、二人の間には沈黙が流れる。パドック内の雑踏も、二人を避けているようだ。

「うーん、君はなかなか手強いね」
 腰を上げ、背伸びをするヒデキ。
「ま、今日の所は挨拶だからね」
「また来るよ」

 チラリと、ヒデキの座っていた椅子を見遣るシンジ。
 その様子を確認したヒデキは、声のトーンを変えた。

「時に碇シンジ君」
「あの金髪の彼女、あの娘は君の彼女?」

 それはシンジにとって、予想外の問いだったのだろう。思わず彼は、ヒデキの顔を見る。
「どうなの?」
 ヒデキは一歩、シンジに詰め寄る。

「いえ、そんなのじゃないです」
 シンジは小声で、しかしハッキリと言い切った。

「ラッキー!じゃ、頑張ろうかなー」
 ヒデキはそう言ってシンジの顔色を伺うが、彼の表情は崩れない。

「いいんだよね?」

 ヒデキの問いには答えず、無言を貫くシンジ。そして彼の視線は再び、地面に落ちた。

 肩をすくめるヒデキ。
「じゃ、またね。今後とも色々とよろしく」
 差し出されたヒデキの右手がシンジの視界に入ると、シンジはゆるりと立ち上がり、戸惑いがちに右手を差し出す。
 ヒデキがその右手を捕まえるようにして、二人は握手を交わした。
 満足げに微笑むヒデキ。
 第三者にはその様は、明日の健闘を誓い合っているように見えた。

「随分長居しちゃったな。邪魔して悪かったね」
「じゃ、明日は頑張ろう」

 彼は、もう一度シンジに微笑みかけると、ピットを後にした。
 シンジは、自分の体から力が抜ける感覚を味わう。


「そうそう」

 シンジのピットを去り掛けたヒデキはハタと足を止め、顔半分だけ振り向いて、忘れ物を思い出したように言った。



「僕は三年前、第三新東京市にいたんだ」



 硬直するシンジの姿を横目に確認すると、口元を僅かに緩め、ひらひらと手を振って彼は去っていった。






 レースは半分を経過し、十四周目に入っていた。
 トップは変わらず関口選手。続いて永野選手。その差は約三秒。その後方に中川選手、上村選手と続く。
 シンジは五番手を走行していた。トップとの差は約五秒。
 裏のストレートを駆け上がる。
 六速フルスロットルから一速落とし、軽くブレーキを当てながら、次の右200Rに侵入する。
 (Rはコーナーの曲率の事。200Rとは半径200mのコーナーの事を指す)
 そしてシケインへと向かう。
 シケインが迫る。
 フルブレーキング。
 チェンジペダルを掻き上げ、五速から一気に一速までシフトダウン。
 フロントタイヤ、ブレーキローターが悲鳴を上げる。
 荷重の抜けたリヤタイヤは、ポンポンと跳ねる。
 それにも構わずひらひらと右に左に切り返し、最終コーナーへと立ち上がる。
 シフトペダルを蹴飛ばし二速、三速へとシフトアップ、そして四速に一瞬入れ、直ぐに三速に落とす。
次第にRがきつくなる蟻地獄のような最終コーナーを見事なスライドコントロールで抜け、シンジのマシンがメインストレートに帰ってきた。
 体をカウルに押し込め、メインスタンド前を時速二五〇キロオーバーで疾走する。






 アスカは無言でサインボードを出し続けていた。
 蒼い瞳は決して、シンジから離れない。
 彼女の瞳に、心に、宿っているものは何なのか。



「碇君を、お願い」



 宙に浮かぶ紅い瞳の少女は、彼女にそう託したのだ。

 今なおその姿は鮮明で。
 今なおその笑顔は、彼女の脳裏に焼き付いたままで。

 だからこそ、今の彼女は必然だった。






「さあ、GP250の決勝もいよいよ大詰め、ラスト三周を残すのみであります!」
「トップはポールからスタートの関口選手、そしてその後方に永野選手が続きます!」
「そしてその後方には!来ました!碇選手!!」
「スタートで大きく遅れましたがその後、怒涛の追い上げを見せまして、現在三位!!」
「トップとの差は手元の時計で約二秒!」
「俄然注目は、碇選手の追い上げに集まって来ました!」
場内アナウンスがシンジの追い上げに呼応するように絶叫する。

「トップのペースがいまいち上がらないな」
新谷がユミコに向かって言った。
「そうね……」
「このペースなら、最終ラップ当たりに絡むかもしれないな」
 頷き合った二人は、モニターに目を戻す。

 ヒデキは十七周目のサインボードを確認して頷いた。
『62 +2』
 サインボードは、ゼッケン62の選手が二秒後方にいる事を示していた。
 ヒデキは左肘を浮かし、脇下越しに後ろを伺う。二位の永野選手と共に、シンジの姿が確認出来た。


「待っていたよ、碇シンジ君」




























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