西暦二〇一九年三月二十九日金曜日。
 全日本ロードレース選手権 第一戦。フリー走行日。

 レースウイークのサーキットは、一種独特な雰囲気がある。それは闘志であり、殺気であり、不安であり、期待であり、興奮であり。
 それらが全て入り交じった独特の雰囲気が、サーキットを支配していた。

 時刻は午前六時前。すでに数多くのチームがピットのシャッターを開け、準備に忙しく動いている。

 『また始まったな』

 この雰囲気を味わうようになって、何年が経っただろう。新谷はこの空気が、この雰囲気が好きだった。
 彼は大きく背伸びをすると、シンジが駆るマシンのカバーを捲った。

 マシンのガソリンタンクをポンポンと叩くと、彼は呼びかけるように呟く。

「ウチのエースを頼むぜ」



















僕らは始まってもいない

第参話
開幕



















「おはようございます」
「よう碇。昨日は良く寝られたか?」
 マシンのセッティングを確認していた新谷と、ピットに姿を現したシンジが挨拶を交わす。
「ええ、大丈夫です」
 しっかりと頷くシンジに、新谷はひとしきり感心して言った。
「そうか、相変わらずお前は大したもんだよ。俺なんか全日本のデビュー戦の前夜は、一睡もできなかったんだから」

「そりゃアンタと比べちゃかわいそうってもんよ」
「おはよう、シンジ君。よく寝たようね」
 斎藤ユミコが相変わらずの軽口を叩きながら、現れた。
「あら、アスカちゃんはどうしたの?」
「ちょっと買い物に行ってます」
「はあ、相変わらずいい娘ねえ。シンジ君、あんないい娘、何処で見つけたの?」
「そうだぞ、俺がもう少し若かったら、放っとかなかったな」
「ばーか、アンタなんて相手にされないわよ」
 横から口を挟む新谷を、ユミコは笑い飛ばす。シンジと顔を見合わせ、苦笑するしかない新谷。

 そうこうしているうちに、アスカがビニール袋を両手にぶら下げて帰ってきた。
「楽しそうですね、何話してたんですか」
「いやなに、アスカちゃんの噂話をね」
「え、何ですか?何の噂話?」
 目を丸くするアスカ。
「えっとね、アスカちゃんもてるだろうから、シンジ君も大変だって言ってたの」
「そんな事無いですよ。私なんか」
 両手がふさがっているアスカは、大きく顔を振った。

「いーや、そんな訳が無い。第一俺がアスカちゃんのファンだもん」
「まーたそんな事言って!アスカちゃん困るじゃないの!!」
 ユミコが真顔で新谷に迫る。首根っこを掴みかけない勢いだ。
 アスカはクスリと笑う。

「お気持ちだけ受け取っておきます。それ以上は、ユミコさんに怒られちゃいますから」
「アスカちゃんまで何を言うのよ! 私と新谷くんは何でもないのよ、ほんとに」
「そうなんですか? 新谷さん」
 アスカは小首をかしげながら新谷を見る。
「えっと、その、ユミコがそう言うならそうじゃないかな、ははははは……」
 いい年をして純情すぎる二人のやりとりに、アスカはまた笑った。
 その笑いは、周囲を暖かくする笑いだった。
 幸せな気持ちにさせる、笑いだった。



 そんな三人を、シンジは黙って見ていた。
 新谷とユミコの姿は時折、あの二人の姿を思い起こさせる。

 シンジとアスカにとって、かけがえのない存在だった二人の事を。
 大切な事を教えてくれた、二人の事を。
 今は亡き、二人の事を。





「おかしいわね……」
 ユミコが独り言のように呟く。
「そうだな、もう来なくちゃおかしい」
 新谷も、ユミコの握り締めているストップウォッチを覗き込んで言う。
 ユミコの手には、じっとりとした汗が滲んできた。
「何かあったんでしょうか……」
 アスカも不安を隠さず、二人の顔とコースを交互に見ている。

 時刻は午後二時十五分。現在、GP250の二回目フリー走行が行われている。
 シンジがこの前の周にメインストレートを過ぎたのは、今から約三分前だ。彼の現在の平均ラップタイムは一分五十一秒程である。それからすると、何か有ったと考えざるを得ない。

 「やったかな」
 平静を保つかのように、新谷は呟く。

 ファンファンファンファンファン!

 突如、けたたましくピットロードにサイレンが鳴り響き、救急車がコースに入る合図を示す白い旗が、オフィシャルから提示される。
 回転灯を回しながら、救急車がコースに入る。
 三人の脳裏に、最悪の事態が駆け巡る。

「わ、私、ちょっと見てきます!」
 駆け出そうとするアスカの腕を掴んで引き止めたのは、新谷だった。厳しい顔つきで、彼は言う。
「今行ったって、どうなるもんでもない。第一、まだ碇の奴がコケたかどうかも解んないだろ」
「でも……」
「新谷くんの言うとおりよ。今は待ちなさい」
 ユミコも、新谷に同調する。
「こういうときに俺達に出来るのは、待つ事だけだ」
 新谷は冷静だった。いや、冷静でいようとしていたのかもしれない。
「でも、でも、でも……」
 アスカは歯をぐっと食いしばる。
「だーいじょうぶよ、シンジ君、今まで怪我した事無いじゃない」
「そうだよ、大丈夫だって」


 重苦しい沈黙が佇む。


 何度体験しても嫌なもんだ。決して慣れる事はない。新谷はそう思う。それはユミコも同じだろう。
 アスカはといえば――両手をぐっと握り締め、最終コーナーの方を瞬き一つせず、睨み付けていた。

 誰も一言も発しない。


 と、その時。


「高久ノリオさんの関係者の方、至急医務室まで来てください。繰り返します。高久ノリオさんの……」
 場内アナウンスが響き渡った。

「ふう……」
「どうやらあの救急車は、碇の奴じゃなかったらしいな」
「そうね」
 そのアナウンスは、強ばった三人の顔を緩めた。
「……よかった」
 心底ホッとするアスカ。しかし直後、軽い自己嫌悪に見舞われる。
『怪我した人がいるんだから、喜んじゃだめじゃない』
 それでもアスカは、軽くなる心を抑える事を出来なかった。

「それじゃ、シンジ君はどうしたのかしらね」
「解らん。マシントラブルか、それともコケたか」
 ユミコの問いに、新谷は一息吐いて答える。
「怪我はしていないようだし、もう暫く待てばレッカー車に乗って帰ってくるだろ」
 新谷のこの言葉に、アスカは再度、最終コーナーを見詰めるのだった。


 五分程の後、レッカー車がピットロードに戻ってきた。そのレッカー車の荷台には、新谷の言葉通りに、傷ついたマシンとシンジの姿があった。


 ピットに戻ったシンジは、擦り傷の付いたレーシングスーツを着たままに、傷付いたマシンとともに新谷、ユミコ、アスカに囲まれていた。

「すみません、転びました」
「どうしたんだ?」
 新谷が知る限り、これがシンジの初めての転倒である。
「裏のヘアピンで後ろから突っ込まれちゃって……」
「別に平気だったんですけど、ブレーキレバーが折れちゃったんです」
 シンジのその言葉を聞き、新谷はマシンの右ハンドルを見る。シンジの言葉通りに、ブレーキレバーは根本から折れて無くなっていた。

「そうか、まあ怪我が無くてよかった」
「すいませんでした」
「いいのよ、シンジ君のせいじゃないし、怪我もなかったんだから」
 優しく微笑むユミコ。
「マシンは次の走行までにバッチリ直しておくから、お前はしっかり休んどけ。医務室にもちゃんと行くんだぞ」

 新谷の言葉に、シンジは小さく、しかししっかりと頷いた。





























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