シンジは走っていた。いつものように。
 通常ライダーは、走りながら様々な事を考えているものである。ここのコーナーのブレーキングポイントはここでとか、もう少し奥まで突っ込めるなとか、今の立ち上がりは甘かったなとか。それは練習走行であろうがレースであろうが、基本的には同じである。
 ライダーはただ、毎回同じ事を繰り返すだけだ。
 誰よりも速く走るために。
 その為だけに。

 しかしシンジは、何も考えていなかった。いつもその虚ろな瞳で遠くを眺めながら、それでも驚異的なペースで周回を重ねる。
 シンジの表情とは裏腹に、彼の走りは凄まじかった。とんでもないスピードでコーナーに進入する。そしていきなり限界まで一気にマシンを倒し込む。
 当然、遠心力に耐えられなくなったタイヤは滑り始める。リヤタイヤのみならず、フロントタイヤも滑り始める。しかしシンジは顔色一つ変えずにそのスライドをコントロールし、誰よりも速いタイミングでアクセルを開け、疾風のように立ち上がっていくのだ。
 スライドのコントロールは速く走るための必須事項だ。トップライダーは誰彼問わず、スライドコントロールを身につけている。グリップの限界で走っていたのでは、それ以上速くは成れない。
 スライドは簡単にコントロール出来るものではない。四輪と違い、二輪は転倒する。誰でも転倒は怖い。しかしそれを身につけなくては速く走れない。その葛藤を克服しながら、理論を超えた何かの部分で、ライダーは走るのだ。

 しかしシンジの走りは、常識を超えていた。
 彼のコーナーへの突っ込みを初めて見た者は、間違いなくブレーキングミスだと思った。しかしシンジは、そのままバイクを一気にフルバンクさせ、タイヤのスライドを駆使して向きを変え、何事もなかったかのようにコーナーを立ち上がってくるのだ。その走りは、彼のその表情からは想像も付かないものであった。

 そんな彼を世間が放っておくわけがない。昨年末より雑誌で記事に取り上げられるようになった彼は、期待の新星だった。
 アグレッシブで、かつ速い。
 さして特徴があるわけではないが、端正な顔立ちはその走りとは裏腹であり、その何処か憂いを秘めた浮世離れした表情に、胸をときめかせる女の子は多かった。



 彼の意志がどうであろうとも。
























僕らは始まってもいない

第弐話
難しいですよ



















 シンジは今日の二回の走行を終え、マシンと備品類を輸送するトランスポーターの中でレーシングスーツを着替えていた。

 薄暗い車内の壁に掛けられたレーシングスーツを見ながら、彼はぼんやりと視線を漂わせる。


「遠いな」

「まだまだダメ、か」


 彼は視線を床に落とす。視線の先は、オイルの滲んだ痕の残る、板張りの床。


『しっかり生きて、それから死になさい』
 かつて、必死に保護者を務めようとしていた人の声は、未だ耳に残っている。



「しっかり生きるって、難しいですよ……ミサトさん」



 『まだ、死ねないか』

 シンジの視線は宙を彷徨う。



 ドアをノックする音がした。

「碇、ちょっといいか」
「はい、どうぞ」
 新谷の声に、シンジは答える。開かれたドアから、眩い光とともに新谷が姿を現した。

 傍らの折りたたみ椅子に腰を下ろすと、新谷は手にしたファイルを広げる。
「今日のミーティングだ。まず、今日のベストタイム、一分五十一秒〇二はまずまずだな。去年の予選だと四番手のグリッドだ。でも今年はもう少し全体的にタイムが上がるはずだから、このタイムだと二列目ぐらいか」
「はい」
 小さく頷きながら、シンジは答えた。
「ま、まだ詰める余地はあるから、その辺はレースウィークの課題だな。後で走行データを見直そう。で、タイヤだけどな……」
 新谷の声は、シンジの目の前を流れるように通り過ぎる。

「……おい、碇、聞いてるか?」
 新谷のその声に、シンジは我に返る。
「あ、はい、大丈夫です」
「大丈夫じゃねーぞ。しっかりしてくれよ、ホントに」
 苦笑するしかない新谷。このようなシンジの様子は、彼にはまだ上手く掴めない。
「ま、どっちにしても来週はレースウィークだ。しっかり頼むぜ」

 シンジの肩を軽く叩き、ファイルを抱えて新谷は出て行こうとする。

「おっと、これを忘れちゃいけない」
 振り向いた新谷は、ファイルから一通の封書を取り出す。
「さっき預かったんだ。可愛い女の子だったぞ?」
 疑問符を顔に浮かべるシンジ。
「ファンレターだよ、ファンレター。ちゃんと読んでやれよ」
 戸惑いがちに手紙を受け取るシンジ。新谷はニヤッと男臭い笑みを浮かべると、再びシンジの肩を二度程叩いて、車外へ出て行った。

 何気なくその姿を追うシンジ。すると、視界の隅にアスカの姿が入ってきた。
「アスカ?」
 どうやら彼女は、新谷とのミーティングの終了を待っていたようだ。彼と視線を交えた彼女は、薄暗い車内へとその身を運んだ。

 シンジは上目遣いに、アスカの姿を見遣る。
「ミーティング、終わったの?」
 軽く頷くシンジ。
「そ、今日も順調に終わって良かったね。転ばなかったし」
 アスカもまた、安心したように頷く。
「来週はいよいよ開幕だもんね。どう、勝てそう?」
 軽い口調でアスカは尋ねる。シンジは視線をアスカから外し、再び壁に掛かるレーシングスーツに向けた。
「どうかな、わからないよ」
 その口調は悟ったようにも、無気力にも聞こえる。
「ま、そうよね。なんてったって全日本だもんね。ここで勝てば日本一、ってヤツだもん、簡単じゃないよね」
 アスカは腕を組み、何度も頷きながら答えた。それは自分に言い聞かせるようでもあり、また納得したかのようでもあり。

「どっちにしてもレースは来週なんだから、頑張ってね」

 アスカの励ましに、シンジは視線を床に落とす。

「なに?」
 ためらうような雰囲気のシンジに、アスカは戸惑いを見せる。
「なにか不安でもあるの?」

 シンジの視線は動かない。

 彼のその姿に、彼女もまた沈黙する。
 車外から聞こえるマシンの音だけが、二人の間に流れる。

「時々」

 かすれるような小さな声で、シンジが口を開いた。

「時々、なんでレースをやっているんだろう、って思うんだ」
 そしてまた、シンジの瞳はレーシングスーツを映し出す。

「新谷さんに声を掛けて貰って、サーキットに来て、レースに出て」
「気が付いたら全日本に出るようになっていた」

 一呼吸有り。

「なんでだろう」

 それは彼女に問いかけるようでもあり、自問するようでもあり。

 そしてまた、二人は無言となる。

「それはきっと」
 沈黙を破ったのは、アスカだった。

「それはきっと、運命って奴なんじゃないの」
 もそりとシンジは面を上げ、立ったままのアスカと顔を合わせる。

「人にはきっと、自分でも分からない運命って奴があるんだと思う。シンジは今、その波に乗っているんだと思う」
 彼女の瞳は、彼を捉えて。
「だからシンジは、目の前のことに一生懸命になればいいんじゃないかな」

 そうして、強ばった口元を緩めるアスカ。
 彼女のその表情を認め、シンジもを頬の緊張を緩めた。

「そ、だから来週は頑張る! そして勝つ!」
 アスカは乱暴に、シンジの髪をかき乱した。
「みんな、期待してるんだからね」

 そうして彼に微笑みかけるアスカ。

 シンジはもう一度アスカに顔を向け、小さく、ゆっくりを頷いた。



「時にシンちゃん、それはなにかな?」
 一通り、満足げに頷いたアスカは、シンジの手にある薄いクリーム色の封筒に視線を投げかけた。
「さっき、新谷さんに貰ったんだ」
 表情を変えるでもなく、淡々と告げるシンジ。
「ふーん、『碇シンジ様』って、もしかしてラブレター?」
 興味津々と言った様子のアスカ。対してシンジは、特に反応を返さない。
「そんなんじゃないと思うよ。新谷さんが読めって言ったから読むけど……」
 彼のその様子に、彼女は少々面白くない気分になる。しかし彼女は、そんな思いを押しのけて言った。

「ふーん、ま、ラブレターやファンレターの一通や二通は来るでしょ、最近有名人だしねー」
 軽口を叩くアスカ。

 しかしシンジはそれきり、表情を崩す事もなく。口を開く事もなく。






























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