1990年12月の出来事 〜筑波ナイトランでの悲劇〜 その日の夕方、私は茨城県の筑波サーキットに来ていました。 レース観戦以外でサーキットを訪れることはこの日が初めてでした。なぜなら、マツダスピード主催のサーキット走行会、「筑波ナイトラン」に参加するためにやって来たからです。生まれて初めてのサーキット走行会参加のため、慌てて前日にバイクショップで新調した2輪用のヘルメットを携えて。 しかし、走り出す前から、周囲の雰囲気に私は徐々に圧倒され始めていました。一見、普通のクルマに見えた他の参加車でしたが、よーく見ると気合いの入り方が違います。4点式ベルトはもちろん、ロールバーや足回りパーツ、走行の直前にも細かいセッティングをしているドライバーの姿を見て、街乗りそのままの状態でやってきた自分の孤独感はいっそう増していく…。 「ちょっと場違いだったかな…」 やがて日が暮れ、サーキットに照明が入るとともに1回目の走行時間がやってきました。ヘルメットをかぶり、パドックから発進してコースインしたその瞬間、いつもの「平常心」はどこへやら。ヘルメット装着ゆえに周囲の音があまり聞こえないという運転感覚の違い、慣熟走行のペースの意外な速さ、初めて走るライトアップされたサーキットの路面と周囲の暗闇とのアンバランス、不安だらけの初心者を完全に舞い上がらせるには十分な環境でした。 とにかく落ち着こうと、フリー走行1周目で後続車すべてに道を譲って最後尾まで下がりました。隊列の最後方から直前の車について必死に走り始め、ようやくペースを掴みかけた4周目に、そのアクシデントは起こりました。 筑波の1ヘアピンのAPEXを通過し、前の周よりも幾分早いタイミングでアクセルを全開にした私の視界に急に飛び込んできたのは、色鮮やかなアウト側出口の縁石でした。 凄まじいアンダーステアに、「ヤバイ!」ととっさにアクセルを一気に戻したからさあタイヘン。激しいスキール音とともにグリップを急に取り戻したタイヤは、激しいロールを伴なってマシンをイン側のガードレール方向に向けたのです。いわゆる「タックイン」に驚き、咄嗟にカウンターを当てる。今度は逆に大きく振られて「オツリ」をもらう…。典型的な「タコ踊り」を披露しながらその振幅を増していった我がマシンは、最終的に右旋回をしながら左フロントからアウト側のガードレールに直行。「バンッ…」という鈍い音を立てた後、グラスエリア上で反回転して、もう一度左リアをぶつけてようやく止まりました。 …ク、クラッシュしてしまった。 左フロントサスは無残に曲がってしまったものの、クルマ自体は動いたので、トロトロと自走でパドックへの誘導路に向かいました。ちょうどパドックスタンドの真ん前での出来事だったので、見学しながら待機していた大勢の人達の注目を一身に浴びながら。ああ恥ずかしい、まさに顔から火が出る思い…。 クルマを止め、割れたランプ類にガムテープで応急処置を施したあと、暗いパドックに一人たたずみ、左フロント部の変わり果てた愛車を眺めながら、私は激しい自己嫌悪に陥っていました。 免許取得から3年、時折ワインディングロードなどを攻めながら「自分は運転がウマいんだ」と思い上がっていた、そんな自信は跡形もなく吹き飛ばされてしまいました。「なんて情けないクラッシュをしてしまったんだ…」 ノロノロと下道を通って東京のマンションまで戻り、翌日から愛車エチュードは約1ヶ月半もの長い入院生活を余儀なくされました。その期間中、愛車を初めて傷付けてしまった悲しみや悔しさ、そして、大好きなクルマの運転ができないもどかしさ、本当にいろんな思いがアタマの中を駆け巡りました。
とにかく、サーキットで思いっきり走れることが楽しくて楽しくて仕方ありませんでした。その上、本で勉強したドライビング理論を実際の挙動として体感することでより理解を深めたり、逆に、コース上で起こった現象をあとで理論的に解明したりすることで深い喜びを得ることができるようになったのです。 |