障害者になって学んだこと


山崎 忠志

1、 浦島太郎は自分だった        
 私は2年前に脳梗塞で倒れ障害者2級ですが、完治すると心に決めてホームヘルパーの資格取得のために勉強をしています。  30年以上営業マンとして車で神奈川県内を移動する日々を過ごしてきましたので、電車やバスに乗る生活に戸惑いを感じています。  1年半余りの入院生活から解放されて、ある日自宅近くの駅から商店街を歩いていると多くの人々とすれちがいますが、知らない人ばかりで挨拶すらできないのです。  まるで私は昔話に出てくる竜宮城から帰った「浦島太郎」の様な状況でした。  ベットタウンというのが「町」の現実ですが、全然知らない人が同じ町で生活しているのです。それでいいはずはありません。私も健康なときはそうでしたが、多くの人が他人や町の事を知らないで済ましているのです。  自分は障害者になったお陰で、それに気が付かせてもらいました。浦島太郎は昔話ではなく自分のことであったと感じ、どうにかしなければならないと思うのです。  3月末にはホームヘルパーの講習を終了し、4月からは大学(通教)生になります。  浦島太郎の話しの続きを完結させるために!。
 今の日本は「知りたくない事はほおかむり」、「自分に都合の悪い事は知らないで済ましてしまう風潮」や「まあいいじゃないかと水に流す」という様な考え方は悪であると思うからです。  欧米などでは「良いことをしないのは悪である」という認識が一般化しているのに、日本では「悪い事をしなければよい」という感覚で、面倒なことは知らなくてもよいという「事なかれ主義」が蔓延していると思う。  「良いことをしないのは悪である」という認識を持つ為には「知らない・知らなかったでは済まされない事」があるとうことを意識する必要あると思います。  例えば我々はゴミを出していて、どこで燃やされようとも構わない。ゴミを燃やすことでダイオキシンという猛毒を製造しているのだとは考えないという、悪しき習慣を見直さなければならないでしょう。
 具体的な事例として、岩手県長井市(人口3万8千人)は「ゴミを出さない」システムを確立させたと聞きました。完全に分けた生ゴミからの「たい肥」だから安心して農家は使う。そして市内で生産された農作物を全て市民が食べる。(以前は98%が市外で販売)というサイクルに仕上げたそうです。是非長井市へ行って見てみたいものです。  自給自足の現代型見本となり、地域の活性化にもつながる事例だと思います。  大量消費・大量販売という形態によって、年輩の人や障害者が歩いて行ける商店街が次から次へと消滅しています。そしてスーパーなどの大量販売は、過剰包装のパック詰めというゴミを作り、消費者はそのゴミを買わされていることに気づくべきです。         

2、差別は自分の中にある
 社会生活を営むために「平等」とか「共同参加」などという都合の良い言葉は色々ありますが、では現実はどうでしょうか?  私たちの心の中に他人を差別して見てしまう「命の傾向性」が根強くあると感じます。 釈尊はこのことを我々人間には抜きがたき一本の矢が突き刺さっていると表現して、人間が本然的に持つ他人を差別する本質を喝破されています。  十人十色・百人百様で差異があることを認めて自分の命が大切なように他人の命も大切だという認識は教わらないと理解できないと思います。  人を差別して見てしまう命を乗り越えないと、「男女共同参画」とか「ボランティア」というものが成り立たないと思うのです。差別という「命の傾向性」に目を向けないと誰もが平等に社会生活を営むという出発点に立てないのではないでしょうか?
 ホームヘルパーの実習のためにある障害者施設に3回行きました。  はじめは立派な施設で「素晴らしいな」と思ったのですが、一方で一般社会と隔離してしまっている差別の一端を目の当たりにして空しい思いをしました。もちろんこのような 立派な施設はないよりはあった方がよいのです。しかし、運用の仕方を間違ってしまったのではないでしょうか?。障害者や老人を隔離して、町中は健常者だけが住み易いように作ろうとしたものの、現実は中途半端で健常者すら住み難い町になってしまっています。  障害者や老人を排除しているから健常者が他人を思いやれないのではないでしょうか?自分も健康な時は感じなかった、道路の凸凹や不法駐輪などが今は気なって仕方がありません。これらのことは、如何に対処すればよいのか?という対策ばかりに追われ、そこに生きる「人間」という原点を置き去りにしているからではないでしょうか?  まず私自身が浦島太郎であったと感じた様に、自分自身を見つめてから現実のことに対して当たらなければ、道を誤ってしまいます。道を誤ってしまったら、いくら努力しても結果は良いものとはなりません。道を誤ってしまったら、いくら「善意」であっても結果は「悪」になってしまうことを理解する必要があります。         

3、乗り心地の良いバス
 路線バスによく乗るようになってしみじみ感じるのですが、すごく乗り心地の良いバスと悪いバスがあることに気がつきました。  それは運転手さんによって運転の善し悪しがあるのは仕方のないことですが、運転手の感情が全部バスの中に出てしまうのです。機嫌の悪い時はブレーキのかけ方、カーブの曲がり方が乱暴になりますね。このようなことは障害者になってわかるようになりました。  さらに乗り心地の良いバスは運転手さんの「言葉がけ」があることです。  素敵な運転手は「止まりますよ」・「出発しますよ」・「次はどこどこです」と必ず言葉がけがあるのです。これは乗って下さるお客様に安心感を与えるということです。  いくら運転が上手でもこの言葉がけがなければ、乗客は不安を抱くのです。      

4、寝たきりは日本だけ、更に寝たきりを増やすのか?
 ホームヘルパーの勉強をしていくと介護サービスとは何か?という疑問が大きくなっています。例えばヘルパーとして身体介護をするならば介護料の高い、「要介護4」か「要介護5」の人をみる方が良い。「要介護1」とか「要介護2」の人は介護料も低いし、なまじ動けるからヘルパーが大変なんだ、折衷型というものはやっかいで本人もヘルパーも事故に遭遇する確率が高いから関わらない方がよいという講義もあった。  ひどい話しですが、これが現実です。  さらに問題は自由に動き回ることが危険という人は周りが目を離せない。 しかしこの様な人は自立と判定され介護を受けられない場合が多々あるのではないか?  そして日本で根強いのは「寝たきり」という状況です。  ヘルパーの実習で80代の男性の所へ行きました。この方は私が見る限りでは、上半身がしっかりしているので車椅子があればどこにでも行ける状態です。  しかし部屋を見渡しても車椅子がありません。より多くの介護を受けるために「寝たきり」にさせられているのです。  他国ならばこの人はどこにでも行ける、日本だから寝たきりにしているのだと思います。  介護保険は必要ですが、ここでも運用を間違えれば寝たきりを増やし、悪徳業者にとってはとってもうまい市場になると思われます。       

5、手を架けず目を離さず
 介護の基本は「手を架けず目を離さず」であると教えられました。これはとても難しいことです。そしてこのことは老人や病人に対する介護だけのことではないようです。
 私には娘が3人おり、いつも「お父さんはうるさい」「もう少し待って欲しい」「お父さんの考えを押しつけないで」などと言いれます。  3人それぞれ言い方は違いますが、手を架けられるのは嫌、又目を離されるのも嫌、有りのままの私を見ていて欲しいと言っているのです。  今までは、「娘達の為を思って言っているのに」どうしてと思っていましたが、介護の勉強を始めた昨年から色々な角度から考えるようになりました。  例えば門限を12時にすると11時45分ごろ帰ってきます。「なぜそんなに遅くまで外に居るのか?」と聞くと「家に居るとイライラする、家には居ずらい。」というのです。 そして、「お父さんの言うことはよくわかる、でも今の私にとってはお父さんの意見を押しつけるのではなくて、もうしばらく待って見続けて欲しい。」とはっきり言われたの です。確かに親としては「転ばない、失敗しない」で欲しいと色々に注意をするのですが、子供達にしてみれば、失敗しなければ解らないことが沢山あり、親には失敗した時にこそ守ってくれる存在であってもらいたいのですね。  「手を架けず目を離さず」いざという時に子どもを守れる親になりたいと思います。             

2000年3月16日

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