「しろうとの声で世界を変えよう」

何かおかしい
ヘイゼル・ヘンダーソン博士は、かってニューヨークに住んでいた。当時彼女は学者でも何でもない、平凡な主婦であった。
ある日、幼い娘の肌に付いた”スス”が、こすっても落ちなかった。 彼女自身も、いつからか咳が出るようになっていた。
「何か、おかしい」
彼女は早速市長へ手紙で問い質した。 しかし、返ってきた答えは、いいかげんな答えだった。 「それは海からの霧が原因でしょう。 人に大した事はありません」
とても納得できない彼女は、 市当局が「大気汚染のデーター」を持っている事を突き止めた。 皆に知らせなければーしかし、何の立場も経験をない自分の言うことなど、だれが聞いてくれるだろう?
それでも「母として」「一市民として」黙っていることはできなかった。 ここに、彼女の行動の原点がある。 「母として」「一市民として」 世界的な学者となった今も、この一点が揺るがない。 そこが素晴らしい。未来の学問の行き詰まりを超えた「人間として」の視点である。
彼女は、知り合いの女性達に実状を話した。 そしてグループを作って、 テレビ各局へ手紙を書いた。「こんなデーターがありますが、知っていますか?」
思いがけなくABCテレビ局から「天気予報で”大気汚染指数”を入れることにします」と。 全米の他局にも広がっていった。
彼女は勇気を得た。「それでは、次はこうしましょう」 そしてまた勇気を得て、「では、次は」 こうして次々と「壁」を乗り越えていった。 彼女の人生そのものが、「未来」への挑戦であったのだ。

「しろうと」の未来への戦い
彼女は通常の大学教育は受けていない。 イギリスで生まれ、16歳から故郷のホテルで働いた。 25歳で米国へ移り、航空券を売る仕事をしていた。 そして結婚。 「子供に、きれいな空気をすわせたい」という素朴な願いから、今に続く戦いが始まったのである。
「長年孤独な戦いを続けてきました。」 政治家や専門家たちからは、いつも反論された。 空気をきれいにしようと言うと「お金がかかるからできない」「こうだから、ああだから、できない」と。 「主婦なんかに経済の仕組みが解るものか!」という態度であった。
しかし、彼女はだまされなかった。 「環境を破壊し、 人間を苦しめるのが今の経済理論であるならば、理論自体がおかしいのでは? 皆を幸福にするために経済学があるのでは?」
「しろうと」の目から見て、おかしいものは、おかしいのである。 政治家も、学者も、医師も、弁護士も、言論人も、 聖職者も、すべて「しろうと」のためにいるはずである。 それが、いつのまにか、「しろうとは、口出しするな!」という風潮になっていく。 その奢りから一切の狂いが生まれる。 彼女は発奮した。 「私は、抑えつけられると反対に負けるもんかと力を出していく人間なのです。」 独学で猛勉強を重ね、やがて世界的な学者をも論破するに至った。
「GNP(国民総生産)とかGDP(国内総生産)だけを基準に豊かさを決めるのは無意味では? それらには、汚染をもたらした経済活動も、その後で汚染を除去した活動まで加算されているのだから!それよりも、どんな人間的暮らしをしているかという”生活の質指数”が大事なのでは?」
「家事労働や、地域への無償の奉仕活動は、GNPの計算に入らないけれども、こうした”愛情経済”も算入すべきでは?」
「膨大な軍事費を削減して、人類の福祉に使うべきでは?」
「自分達の目先の利益のために、長期的に人類に損害を与える経済学は、近視眼では?」
「一部の人間が勝者となり、他の人が敗者になる経済ではなく、誰でもが勝者になる社会は必ずできるはずです」
「世界を動かしているのは、国家と企業です。 しかし、このどちらにもモラルがありません。 精神性がありません。”第三の勢力”である民衆運動が必要です。民衆が団結して、政治家と企業人に”モラルの圧力”を与えるべきです。
30余年間の不屈の戦いから得た確信を、博士はこう言い切っておられる。
「専門家や政治家よりも、いつも大衆のほうが前を歩いているものです!」

ヘンダーソン博士略歴
変換する社会の諸事象に対する深い洞察力を持ち、行動する未来学者として著名。
ジャーナリストとして世界各国の一流紙にも寄稿。 日本でも「エントロピーの経済学」(ダイヤモンド現代選書)を出版。「国連基金のための地球委員会」の創設に尽力するなど、幅広い国連支援活動も行なう。 アメリカ、フロリダ州在住


私たちは、環境問題の素人集団です。ダイオキシンの値が基準値より高いとか低いとか、そんな事に怒ったり、安心したりするべきではありません。厚生省や環境庁が定めた一日許容摂取り量だって、だれが今までその量を摂取して一生を送ったのでしょうか?(誰もいません。)許容量の数値はどのように決めているかご存知ですか?
著名な大学の先生から直接伺ったので間違いはないと思います。これら数値を定めるのに動物実験をします。
一般的にはラットを使用して毎日有害物質を与え続け、異常を来さない量が例えば100とすると異種間の違いがあるので数値を1/10とし、さらに人間で感受性の違いがあるのでその数値の1/10とした値、つまり
100x1/10x1/10=1を許容量としようという事で決まるそうです。そもそも、ラットと人と比較するの発想自体に無理があると先生は正直に話されていました。水俣病や吾野川水銀中毒は不幸にも人体実験が行われた訳ですが、この痛まし多数の犠牲者が出たにも係わらず公害認定としての値はこの位にしておけばいいだろうと言う似非知識人によって定まられています。異種間の違いをなぜ1/10としたのでしょうか?素人考えですが、合計で1/100の値は大変にいい加減な値を思います。 (犬の嗅覚は人の1000倍の能力があると言われていて種々の犯罪捜査や麻捜査に活躍しています。)
似非知識人が定めた数値は、この位にすれば安全いう事ではなく、この数値であれば今の技術で守れると言う業界側の理論ではないでしょうか? 自動車の排気ガス規制がその大変に良い例です。カリフォルニア州は自動車の排気ガスで悩んでいました。排気ガス規制を行うにあたり、この値なら安全と言う事ではなく、この値なら達成可能という事で決めようとしました。しかし、マスキー法案は業界や似非知識人の意向に関係なく、住民の健康を考え現状の1/10という規制値を提出しました。多くの似非知識人や業界は大反対をしましたが、日本の自動車メーカーであるホンダの創設者本田宗一郎氏がマスキー法の規制をクリアーできると主張した為に 、業界の論理ではなく、住民の健康を主体にした規制が強化されました。
いま、東京都 石原知事が国で定めた数値ではなく、都民の健康を守る為にディーゼル車の排ガス規制強化を行おうとしています。技術的にできないのではなく、行わなければならないのです。できないのであれば、生産を止めるべきです。私たちは、たか派で、自動車技術には素人の石原知事にエールをおくります。
数値で私たちの健康が保証されるのではなく、数値なんかよりも、今、大気や水、食物によって健康を害している人々がいるのか、いないのかを調べ、その原因を排除する事が大切な事と考えます。
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