高崎城

 

 

 

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場所  群馬県高崎市高松町     

現在の高崎城跡は、官庁街となっていて、市役所・裁判所・検察庁その他、群馬音楽センタ-・高松中学校・日本たばこ・国立高崎病院などがある。

高崎城は、また和田城というと一般には考えられがちであるが、高崎城は即和田城ではない。高崎城は和田城の廃墟を含む地域に築かれたもので、実質的には別城である。

天正18年、和田氏没落後の和田は箕輪の属地であった。箕輪には井伊直政が12万石で封ぜられたが、当時国内の情勢は著しく変化し、関東、関西の両勢力が明確に対立していた。慶長3年開かれた中仙道は、この両勢力の中心、江戸と大坂とを結ぶ重要な交通となり碓氷峠の戦略的価値が急激に増したので、直政は幕命により箕輪城を高崎に移し、碓氷峠を固める拠点とした。それは慶長3年3月のことである。井伊氏は在城僅か2年半で同5年11月には近江国佐和山に移り、その後5年間は惣社の諏訪頼永が城代、慶長9年酒井家次が5万石で封ぜられて在城13年、元和2年松平康長(5万石)が替わって1年在城、ついで翌3年松平伊豆守信吉が同じ5万石で封ぜられ、5年丹波篠山に移る。その後元和5年10月、安藤対馬守重信が5万6千5百石を以って着城、三代77年の後、備中松山に移封されるまでの間に城は大いに改修され、完成したのである。 山崎一著 「群馬県古城塁址の研究」より


 

 

徳川 忠長の墓


 

高崎城東門


 

出枡形


 

和田城櫓台跡


 

 

訪問記

 城域の広さには驚きである。高崎市の中心街であるのに、出枡形や、食い違い虎口・和田城櫓台跡・中堀の南門・子の門等が残っていて、その昔に思いを馳せるに充分である。

 日本城郭史学会 「高崎城見学会」 平成13年3月25日